通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

原爆による広島城の崩壊の状況について、開催されている企画展の名称は?

2010年07月27日 | 広島の話題
広島城は爆心地から北東方向に、約1キロメートルの場所に位置しとります。



【問題】
原爆の爆風で吹き飛んだと思われていた広島城の天守閣が、自らの重さで崩壊した可能性が高いことが分かり、企画展として関連する資料を展示しています。
さて、その企画展の名称は次のうちどれでしょうか?

1.原子爆弾と広島城
2.原子爆弾をめぐる広島城とその周辺の被害
3.撮影された被爆後の広島城
4.広島城壊滅!-原爆被害の実態









【正解】
4.広島城壊滅!-原爆被害の実態




【解説】
原爆の爆風で吹き飛んだと信じられていた広島城(広島市中区)の天守閣が、低層階の柱が破壊されたために自らの重さで崩壊した可能性が高いことが分かった。
当時の目撃証言や写真を基に、同城の学芸員が推定した。
16日から天守閣内で、関連する資料を展示する。

本田美和子学芸員と玉置和弘学芸員は被爆直後の航空写真に、爆心地から反対となる北側の堀に天守閣の残骸(ざんがい)が写っていない点に着目。
当時城内にあった中国軍管区司令部や、城の北東にあった旧陸軍幼年学校で崩壊途中の城を見た人を探し、被爆後の天守閣の写真などをあらためて調べた。

その結果、5層構造の天守閣が、上から3層は原形をとどめたまま崩れていったとの証言を得たほか、被爆後の別の写真には天守閣があった場所にがれきが残っていることも判明した。

それらを基に、原爆の爆風が天守閣の低層部分を南から襲って柱を破壊。
上から3層が原形をとどめたままいったん石垣の北東側にずり落ち、その後間もなく、支える柱が耐えきれず崩壊した―と結論づけた。

資料展は9月5日までで、大人360円、高校生以下180円。

(「広島城崩壊は爆風より重さ?」中国新聞 2010年7月14日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201007140205.html



↓くわしくは、こちら↓

広島城ホームページ
http://www.rijo-castle.jp/rijo/main.html



今日は、原爆投下後の広島城の倒壊の様子について調べてみようかの。



広島城にある原爆被災説明板には、次のように書かれとります。



毛利輝元が1598(天正17)年築城以来350余年、広島の歴史とともに歩んできた広島城は、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の一閃(いっせん)により五層楼の天守閣も跡形なく崩れ落ち、石垣だけが残った。

(「広島城」原爆被災説明板)




学芸員の方が被爆後の写真を調べてみると、天守閣の木材は天守閣とその近くに散らばっている。
原爆の爆風は天守閣の南西の方角から来たので、爆風で倒壊したとすれば、すぐ北側にある堀に木材が落ちとるはずじゃ。
ところが、そのような写真が見あたらん。
また、当時の目撃者から、「天守閣が、上から3層は原形をとどめたまま崩れていった」という証言も得られた。

そこで、「爆風で吹き飛ばされた」と考えるより、爆風によって低い層の柱が壊れ、「上から押しつぶされるような形で崩れ落ちた」のではないかと推測されたそうじゃ。

しかも、今まで具体的な調査が行われとらんらしい。



「科学的な根拠のないまま吹き飛ばされたと信じられていたのだろう。物理学や建築の専門家の議論が始まってほしい」(本田学芸員)。

(「広島城崩壊は爆風より重さ?」中国新聞 2010年7月14日)




被爆後の広島城の写真を見ると、天守閣のあった場所に木材が多量に残されとるのがわかる。
木材が残っとるということは、このあたり火災が起こらんかったからじゃ。
広島市内は、原爆投下後に発生した火災によって、ほとんどが焼けてしもうたけぇの。



「天守閣に近づくと、爆心地から1キロ以内なのにこんな不思議なことがと、目を見張ったものがあります。それは、燃えていない木材の山でした…」

(林重男「爆心地ヒロシマに入る - カメラマンは何を見たか」)




広島城の学芸員の方も言うとられとったが、残されとる被爆後の広島城の写真を専門家に研究してもらうことで、原爆による建物の倒壊の仕組みなんかも分かるんじゃないんかのう。



今日は、原爆投下後の広島城の倒壊の様子について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。
コメント
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