味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

偉人の紹介「ヂスレリー」

2010-09-13 12:26:21 | ブログ

タイトル----偉人の紹介「ヂスレリー」。 第587号 22.09.13(月)

 今に諸君が私の演説を傾聴せらるる時が来ますぞ。

 英国の大政治家(1804~1881)。猶大人なるがため種々の迫害を受けしも、まづ文名により天下を風靡し、ついに政界に入りて、首相となり、大英帝国建設に勲功があった。

 英国近代の大政治家グラッドストーンと時を同じうして、グラッドストーン氏が自由党の総理であったに対し、保守党を率いて覇を争い、三度蔵相二度首相の栄職を奉じ、後には勲功により伯爵に叙せられた、ヂスレリーは、天賦の才能を持って居たとはいえ、其の斯の如き輝やかしき成功を遂げたのは、主として彼が、非常なる忍耐と奮闘努力とを払った為である。

 彼は初め文学に志を立て、二十一歳の時一巻の小説を著し、引き続き両三年の間に更に二巻の小説を公にしたが、其の処女作は多少歓迎を受けたけれど、後の二巻は甚だしき不評であった。然も彼は少しも失望落胆せず、続々新著を出して後には一廉の成功を文壇に収めた。

 彼はこれに満足せず、今度は政治家として立たん事を志し、二十八歳の時始めて代議士として立候補したが、物の見事に落選し、引き続き五年の間志を得るに到らなかった。けれど彼は絶え間なく奮闘を続け、態と華美な服装をして迄も世人の注目を惹くことを怠らず、遂に議会に席を占めるに成功した。

 議会において彼が試みた処女演説は全然失敗であった。彼は満場の嘲笑を浴びせかけられ、立ち往生の已む無きに到ったが、励声一番

『諸君、私は着席致します、然し今に諸君が私の演説を傾聴せらるる時が来ますぞ』と述べて退檀した。

 後年果たして彼が予言したように彼の演説は反対党までが鳴りを沈めて傾聴した。それは彼が最初の失敗に挫折せず、自分の弁舌の缺点を発見して之を改むるに努力し、つぶさに聴衆の心理を研究し、専心弁論術を練磨した結果で、其の始め道化芝居の台詞より滑稽であるといわれた彼の演説は、後には美辭警句の庫となって、如何なる人の耳も之を捉えずにおかなかったのである。これが彼の政治家としての第一声であった。

………

 心を打つ英国政治家の過去の実像であります。日本の国にはそのような政治家はいないのであろうか。菅直人氏らは英国に学びにも行った筈ですが。

 今日のニュースで知り得た田中秀征氏の論を紹介します。

《本欄で何度も強調してきたように、私が昨年の政権交代に期待した理由は2つあった。

(1)税金の無駄遣い、特に行政内部の無駄遣いを根絶して、一方で中・長期戦略を打ち立てて、財政再建への道筋を開くこと。

(2)官僚人事の人事権を、官僚から政治に取戻し、“官意”ではなく、“民意”を反映させる政治主導の仕組みに転換すること。

 民主党はこれらをマニュフェストでは明確に打ち出したものの、本気でこの公約を実行するかどうかは、正直言って半信半疑であった。

 それらもかかわらず、なぜ私がいささかでもそれを信じて期待したかというと、それは、このテーマをライフワークにしてきた菅直人氏が民主党の幹部として存在したからであった。

 しかし、何と彼は、鳩山政権下においても全くその努力をしないどころか、自民党よりもひどい官僚主導の方向に転ずる主役となった。それが最後には、参院選前の消費税10%発言になり、自ら志を捨てた姿を明らかにした。

 菅内閣は、自らを高杉晋作の「騎兵隊」と称して出発した。長年、彼は自民党政権を「霞が関政権」と断定した攻撃の先頭に立った。それなら幕府に挑戦した騎兵隊と言ってもよい。

 ところが、菅騎兵隊は、何といつの間にか“霞が関幕府”を警護する“新撰組”に大変身してしまったのである。

 私はかつて、これほどひどい政治家の変節を見たことがない。私の期待は失望に変わり、今では絶望を経て、退陣要求に至っている。》(22.09.13 田中秀征 政権ウオッチ)

 私は11日(土)のブログで次のように書きました。

《多くの国民が金銭問題で困窮・逼迫しているのに、雲の上の官僚の方々は知らんぷりです。佐藤優氏の著書によれば、国民は有象無象だとのことです。そういう捉え方をしている官僚たちに、国民のために特別会計を組み換え指示が出来るのは誰か、ということなのです。現政権では先ず不可能だ、というのは原口大臣の弁でもあります。原口大臣の姿勢こそ、当に、正論であり、見識であり、胆識であります。

 政治とカネも大事だが、それを基準にして選考した場合、日本国民は永遠に救われないというのが、私の見解です。》

 私が予感していたことと田中氏の指摘はいみじくも同じでした。政治は誰の為にあるのか、ということなのです。菅氏を応援する人々は、国民よりか自分らの保身を選考の基準にしているように思えてならないのです。確かに小沢氏には、過去、いろいろ問題がありました。でも今回は、これから先のことなのです。

 菅氏が声援を受けガッツホーズするあの姿は、小中学生のレベルです。少なくとも国家を代表する総理大臣の姿とはいえないでしょう。

 官僚の無駄遣いを告発したともとれる、『亡国予算』を購入して読んでみてください。今回の代表選は「国民が幸せになれるか否か」がかかっているのです。この時期を逃したら、「官僚の、官僚による、官僚のための」政治が横行し、苛斂誅求は止まることがないでしょう。 


拙著『礼節のすすめ』の紹介---7。

2010-09-09 09:27:48 | ブログ

タイトル----拙著『礼節のすすめ』の紹介---7. 第583号 22.09.09(木)

 昨日、第582号に続きます。

 今日の日本は、主権在民によって国民が国家の経営者であり、経営者には義務が伴うものです。我が日本国憲法には権利の主張だけが多く、義務の規定があまりにも少ない。権利と義務のバランスのとれた憲法にしようではないかと訴えました。

 そういう主張をとった石橋は戦争中、圧迫されました。だが、海軍中尉であった次男が南太平洋で戦死した時、

「自由主義者であっても国家に対する反逆者ではない」と言い、息子の死に対して、次のように心境を吐露しました。

 この戦(いくさ)   いかに終わるも  汝(な)が死をば  父がかわりて  国のためいかさん

 このように、自由主義者であっても、国のことを忘れない、母国を愛する情に満ちた人であったのです。今日では常識だが、民主主義と国家は矛盾しないと論じた基本を教えた政治家でした。

 礼節を守らなければならないというのは、決して個人間のことだけではなく、国と国との関係においても、こうでなければ人々は幸せにはならないと一身を挺して主張した豪快な気骨ある人物でした。だが総理に就任したものの脳梗塞のため、不幸にしてわずか二ケ月で退陣を余儀なくされました。極めて短期間であったが、政治家としての業績に勝るとも劣らぬものを残したのです。

 明治以来の大言論人であったが、言論に筋金が入っており、律儀・誠実・清潔であった彼の真骨頂を、忠実に学んで活かしたいものです。

 石橋は、イデオロギーを超越した、人間のための、人間による、人間の思想を主張した、礼節を弁えた政治家でした。

……………

 今回、七回にわたり「礼節の政治家たち---」と題してご紹介させて戴きました。今の世に、こういう政治家がいるでしょうか。稲葉修元法務大臣、伊東正義元外務大臣、原敬元総理大臣、石橋湛山元総理大臣のことを書き、自分で納得し溜飲の下がる思いが致します。

 9月9日現在、民主党の代表選挙に向けて、両陣営ともガップリ組んで戦いを展開していますが、原敬元総理大臣みたいに「わたしは平民宰相でよい、勲章なんかいらない」と菅、小沢氏のどちらが言えるだろうか。

 そして国民が真に幸せになるために、どの候補が総理として相応しいか、ということです。菅氏の応援団長である江田氏は、鈴木宗男氏実刑のことに触れ、「政治とカネ」を断ち切らねばならない、と声高に話ました。それは小沢氏に対する警戒感から来たものだと思料しました。

 一寸まってください、仙谷官房長官の息子の事務所費の問題は何の咎めもないのですか、ということです。昨日は、長崎県議会の政務調査費の問題も報道されました。政治とカネは永遠の問題なのです。これが解決されるということはないと私は思います。

 大臣の原口氏は国民のために、今オオナタをふるわなければならない、と主張しました。まさしく見識であり、胆識であります。それは、国会議員のためではなく、国民のための政治であるからです。

 これ以上、苛斂誅求をほしいままにしたら必ず、国民が決起する時がくると私は思います。 


拙著『礼節のすすめ』の紹介----6.

2010-09-08 12:45:45 | ブログ

タイトル---拙著『礼節のすすめ』の紹介---6.第582号 22.09.08(水)

 ブログ第571号に続きます。

 礼節の政治家像の最後に紹介する人が石橋湛山です。経済ジャーナリストから政治家に転向し、昭和三十一年総理大臣に就任した人物です。岸信介総理の直前の総理です。

 言論人から政治家に転向した石橋湛山は、明快にして豪快なリーダー、人物でした。政治家として、骨太な頼もしい洞察力のある、先を見通したビジョンに満ちた筋の通った言論人出身の政治家でした。

 昭和三十二年一月、総理大臣としての第一声がふるっています。「私は国民の皆さんのご機嫌取りはしない。とかく、ご機嫌とり政治が民主政治を滅ぼすのである」

 これが第一声です。自由主義者ではあったが、国家に背を向けた自由主義者ではなく、国家を念頭においた思想の持ち主でありました。

「なんでもかんでも人の言いなりにハイハイと言うことが、平和をもたらす方法ではない。理不尽な事を言われたら敢然とこれに立ち向かう。非人道的な処置に対しては、これを承知しない」

 気骨ある人間の、国を率いる人の覚悟、心意気です。昭和三十二年の発言です。その昔、粛軍演説をし正論の政治家といわれた斎藤隆夫と気骨・度量の面では甲乙付け難い精神力の持ち主でした。

 軍部が主導した日本の大陸進出による植民地政策に対しては批判的であり、「欧米列強の後を追って植民地を増やして行くのは間違いである。植民地は解放すべきである。小さな欲に囚われると、将来元も子もなくなる」と訴えたのです。

 融通無碍の構想力は石橋の本領、思想であり、必要にして有効な防衛力は持つべきだと論じ、文明と平和の先導者になろうではないか、という建設的思考の持ち主でありました。

 目の前のことも大事だが、理想の夢によって現実を忘れるものであってはならない、国際義務を果たすための必要にして有効な防衛力は堅持すべきだと説きました。


礼節いろはことば 「ち」

2010-09-07 18:55:33 | ブログ

タイトル----礼節いろはことば 「ち」。 第581号 22.09.07(火)

 「ち」 忠誠を 尽くすは親に 人様に----忠信は礼の本なり。義理は礼の文なり。『礼記』

「忠誠」というと、今日、古めかしい偏見な思想と解釈する人々が多いように見受けられます。『礼記』は、〈忠信は礼の本なり。義理は礼の文(あや)なり〉と訓えています。「忠信、すなわち人間の真心が礼の根本であり、相手への義理は礼の文である」というのです。

「忠」は真ん中の心、「信」は人の言葉、偽りのない誠の言葉ということです。忠誠とは、まごころ、親切心・善意と解してもいいでしょう。

『忠経』は、〈忠より大なるは莫し〉と訓えています。「人の道で「忠」より大きな道はない」というのです。真心を人様に尽くせば、尽くされた人は返礼として他の人に善意の提供をしたくなるでしょう。一寸した行為が、社会の浄化に繋がって行くと思うのです。住みよい社会を実現するために、親切心、善意・忠誠の心づくしを、勇気を持って率先垂範して参りたいものです。

 そういった意味で、権利を主張すると同時に義務を果たすべきが、賢明な処世術だと思うが如何でしょう。お互いが幸せになるために、先ずは親に、人様に忠誠を尽くしてみたいものです。住みよい世の中を実現するために。


礼節いろはことば 「と」

2010-09-06 09:51:21 | ブログ

タイトル----礼節いろはことば 「と」。第580号 22.09.06(月)

 「と」 徳と学 稲穂のごとく 実れかし----徳あれば以て興り易く---『十八史略』

 人間の一生で一番大切なことは、「徳と学」が人々の間に根付き栄えることであると思います。

『十八史略』、〈徳あれば以て興り易く、徳なければ以て亡び易し〉と訓えています。「人々に徳があり勤勉であれば国は栄えるし、徳がなければ亡びやすい」ということでしょう。また、『老子』は、〈怨みに報ゆるに徳を以てす〉と訓えています。「怨みに対しては、徳をもって報いるようにすれば、怨みを与えた人も、これに感化されておとなしくなる」というのです。

「徳と学」というこの言葉を懇談するたびに口にしていたのが、私の詩吟道の師匠であった竹下一雄氏でした。大酒のみで漢籍が好きで、西郷南洲翁が大好きでした。

 南洲精神と『南洲翁遺訓』を刊行した荘内精神は同次元だと力説し、人の世に大切なのは「徳と学」であると目に涙して語り、日本国を純粋に愛した人でした。頭脳明晰にして、一点の曇りもない清廉潔白な指導者でした。

 徳義を備えた品性豊かな社会を創らなければならないというのが、持論でした。「生死何ぞ疑わん天の付与なるを」と、南洲翁の漢詩を口ずさみつつ、旅立ちました。