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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

5月19日、桶狭間の戦い

2008年05月19日 | 井伊家千年紀
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元の首を討ち取りました。


桶狭間の戦いといえば、今川義元が天下取りの為に上洛しようとして尾張を通過する時に、これの反発した織田信長に攻められて起こった合戦で、狭い谷の底に陣を張った今川軍に織田軍が谷の上から奇襲をかけて勝利を収めたという話が定説として伝わっていました。

しかし、近年ではこの説が崩れつつあります。


まず、今川義元は上洛を目指していたのではなく、尾張を目的地としていたのです。これは上洛をするための諸国への通達や根回しの様子が無い事や、今川軍の食料の少なさから予測されていて、今では上洛説は消えかけているくらいなんです。

そんな尾張への進軍を目的としての出陣は、井伊直盛と松平元康(後の徳川家康)を先鋒に2万5千の大軍になったと言われています。
5月18日に松平元康に1千の軍を与えて織田軍に囲まれている大高城への補給を行わせた義元は、翌19日に信長の居城だった清州城へ向かって兵を進めたのでした。
でも、この時には今川軍は5千程度のまで減っていたと考えられています。

先ほどの元康の例にもあるように、進軍途中で兵を裂く事が思いの外多かったからでしょう、一部の例を挙げるだけでも大高城・鳴海城・沓掛城・岡崎城・池鯉鮒城などが考えられるのです。


当時の信長の最大兵力が4千程度だと考えられているので、これでは今川軍の圧倒的優位という形にはなりませんでした(もちろん、織田軍もあちらこちらに兵を裂いているので4千が丸々今川軍には当れませんが・・・)。

こうして義元は案外慎重な戦略を示してきます。
まずは19日早朝から織田方の鷲津砦・丸根砦を攻略
義元の本隊は“おけはざま山”に進んで本陣を張ります。
鷲津砦には朝比奈泰朝
丸根砦には松平元康
が陥落させたのです。

両砦が攻撃されている報を聞いた織田信長は、『敦盛』を舞った後に具足を纏い湯漬けをかきこむと馬に乗って清洲城を飛び出していったのです、後に従うのは5人の小姓だけでした(午前4時頃)。
熱田社で馬を下りた信長が、ここで戦勝祈願をしたと言われていますが、記録には残っていません。しかし熱田社という目印の元で自軍の集まるのを待っていたのでしょう。これが午前8時頃の事でした。

『信長公記』には、この時に「義元が鷲津砦・丸根砦陥落の報を聞いて喜んで謡を三番うたったそうだ」との記述がありますが、作者の太田牛一は桶狭間の戦いには参加していませんし「~そうだ」との記述は実際に見たものではない上に『信長公記』は信長の死後の編纂でこの頃の記述は本編の前のプロローグにあたる部分ですから、地元で聞いたそのままを書き取っているだけなのです。
「~そうだ」程度の記述には地元で義元を辱める為の噂として広がっていた可能性が高く、2.3キロ先には合戦を行っている場所がある軍の大将の行動としてはありえないのです。


ここから、信長は佐々政次(佐々成政の兄で、曾孫は水戸黄門で有名な助さん)と千秋季忠に命じて今川軍に攻撃を仕掛けますが両名は討死します。
この両名も定説では信長の命を無視して今川軍に挑んだ事になっていますが、実は信長の命だった事がしっかりと記録に残っています。
この時点で信長の下には2千の兵が居ました。

そして次の攻撃を行う前に信長は「首は取らなくてもいいからとにかく追い払え」と命じたのですが既に突撃を行っていた前田利家たちが敵の首を取ってきてしまったのでもう一度この旨を言い聞かせたのです。
つまりこの時には佐々政次らの第一陣と前田利家らの第二陣が既に今川義元軍との戦いをしていたのでした。

そしてついに信長が自ら兵を率いて三度目の戦闘が行われます。
『信長公記』には信長軍が山裾に兵を進めると、大きな雹(氷雨)が降って驚いた今川軍の前線が崩れ、これをチャンスと考えた信長が全軍に突撃を命じた。
今川軍はその勢いに押されて総崩れとなった。
と書かれています。こちらは織田方の記述ですので、見えない今川軍の噂話とは違って信憑性が格段に高くなります(だって経験者がたくさん残っているわけですから・・・)。
そんな当時の記録の中に既に「山裾(正式には山際)」という言葉があるのですから、信長軍は谷を駆け下りたのではなく、山に向かって駆け上った事がわかるのです。
こうして今は、桶狭間は谷ではなく山だったと訂正され、攻撃も奇襲ではなくて正々堂々とした正面攻撃だったと定説が変わっています。

信長は、堂々と今川軍に挑み、雹と言う自然の助けで今川義元の首を奪ったのでした。


しかし、信長にとって義元の首が取れたのは予想外の出来事だったと言えます。当事者ですらそんな状態なのですから後世の人々がこの不思議な勝利の原因を探して油断と奇襲を当て嵌めても仕方なかったのかも知れませんね。


ちなみに、松平元康は義元の命で18日夜に大高城に入っていたために桶狭間の戦いには加わらずに命拾いをし、この後すぐに岡崎城に入って今川家から独立します。
井伊直盛は、前日まで朝比奈泰朝とともに鷲津砦を攻めていたのですが18日に義元に呼び戻されて本陣近くにいて義元戦死の報を受けて自害して果てます。
朝比奈泰朝は無事に帰国し、義元没後の今川家を支えますが、桶狭間の戦いの3年後には井伊直盛の跡を継いだ直親を今川家に対する謀反の疑いで掛川で殺害してしまうのです。



さて、桶狭間は愛知県の事ですしこの時はまだ井伊直政すら生まれていない話が彦根とは何の関係があるか?
と言われると実は何もありません、しかし所々に登場した“井伊直盛”は井伊家と関係があるのです。
井伊直盛の跡を継いだのは従兄弟の直親ですが、この直親の息子が井伊直政です。
また直盛の娘である直虎(次郎法師)は直親が暗殺された後に井伊家を継いで女地頭として井伊領を治め、直政を徳川家康に引き合わせるきっかけを作った人でもありました。
コメント (2)
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