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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

5月14日、紀尾井坂の変

2008年05月14日 | 何の日?
明治11(1878)年5月14日、内務卿・大久保利通が暗殺されます。

この日、東京はいつ雨が降ってもおかしくない様などんよりした空模様だったと伝わっています。
午前6時、福島県令・山吉盛典の訪問を受けた大久保利通は、色々な政策を話し合いました。話が一段落し盛典が大久保邸を辞そうとした時にそれを引き止めて明治年間における30年計画を話しました。
30年計画とは、明治元年から30年までを10年ごとに3期に分けて、
最初の10年は第一期として“創業期”
次の10年は第二期として“内治整理・殖産興業・富国強兵”
最後の10年は第三期として“完成期”
として、利通は第二期も力を尽くし、第三期は後継者による完成を望みたいと考えていたのでした。

結局、この話が最後となってしまったのです。


午前8時、家族・書生に見送られて裏霞ヶ関の私邸を出発する時、いつもは大人しい娘がぐずってなかなか出発できなかったと言われていますが、そんな娘を落ち着かせて二頭立て馬車に乗り込んで赤坂仮御所を目指したのです。
この先はいつも通っている通勤コースを進みました。
その途中に紀尾井坂があったのです。
本来なら紀尾井坂を進まない方が近道なのですが、その為には赤坂見附を通る事になります。
利通は「赤坂見附付近は人が多くて危険だ」と言うことで人通りの少ない紀尾井坂を選んでいたのですが、逆にこれが仇となったのでした。

午前8時30分頃、紀尾井町一丁目に差し掛かった時、書生姿の男が二人、摘んだ様な花を持って道に出てきました。
この二人をやり過ごした後、また別の二人(長漣豪と脇田巧一)が同じ様に花を持って馬車の前に姿を現したのです。
利通の馬車の芳松は馬車から降りて前の二人に道を開けるように言いますが、それを無視して片方が隠していた長刀で馬に斬り付けますが失敗。
驚いた馬が走り去ろうとし、それをもう一度刀を使って馬車を止めました。

その騒ぎが起った直後に馬車の後方から島田一郎・杉村文一ら四人の男が馬車を襲います。この四人は手に短刀を持っていました。
まずは芳松が四人に襲われ二度斬り付けられますが、すぐに逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めに行きます。
御者・中村太朗が異変に驚きながらも馬を走らせようとするのですが、斬り付けられた馬が進まず馬車から飛び降りた所を肩から斬られて絶命。

その直前まで書類を読んでいた利通は異変に気が付いて逃れようとして左の扉を開けました。そこにはこの襲撃のリーダー・島田一郎が立っていたのです。
一郎は開いた扉に手を掛けて素早くこじ開けます。利通が「無礼者!」と叫ぶと同時くらいに利通の右腕を左手で掴み、右手に持った短刀でその眉間から目に至る部分に斬りかかりました。
そして振り下ろした短刀を素早く腰に突き刺したのです。

その直後、右の扉から他の暗殺者たちが利通に斬りかかり、身体を馬車の外に引きずり出したのでした。
それでも利通は立ち上がります、しかしメッタ斬りにされて最後は喉に短刀が突き刺されたのでした。この短刀は地面にまで達していたそうです。大久保利通47歳。
御者・中村太朗の喉にも同じ様に短刀が突き刺さっていたのでした。

しばらくして助けを求めに行った芳松の報告で警官が現場に駆けつけると、島田ら六人はそのまま赤坂仮御所に出頭し自首したのです。

約2ヶ月後の7月27日六人は斬刑となり即日刑が執行されたのでした。


島田らは政府の高官七人の命を狙っていたそうです。
木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良
この内、木戸孝允は既に病没していて、2番目の標的・大久保利通を狙ったと言われています。

ちなみに、この狙われた人々は・・・
木戸孝允・・・既に死去
大久保利通・・・この時に暗殺される
岩倉具視・・・明治7年に暗殺未遂事件に遭う、明治16年胃癌で死去
大隈重信・・・明治22年爆弾テロに遭い右足切断
伊藤博文・・・明治42年暗殺される
黒田清隆・・・夫人惨殺という大事件を起こす
川路利良・・・明治12年病没

この一連の名簿から、紀尾井坂の変の黒幕は西郷隆盛やその側近だったという説もあります。
実際には前の年に西南戦争で西郷の関係者は亡くなっていますが、西南戦争の前に西郷に会って鹿児島から石川県に行った人物に長連豪が居ます、長は島田一郎と共に紀尾井坂の変の首謀者となった人物ですので、西南戦争で西郷隆盛が自害したからこそ、この計画が必ず実行されるべき物となった筈なんです。
それが読み取れるのは川路利良の名前です。
川路は大警視(今の警視総監)という役職には居ましたが、他の6名ほどには大人物ではありませんでした、しかし西南戦争の前に西郷隆盛暗殺団を鹿児島に派遣した人物だったんです。


では本題に戻って・・・
自首した時の事、赤坂仮御所で一台の馬車が島田らの目の前を通っていきました。
そこには4番目に名前の挙がっている大隈重信が乗っていたのです。島田らは紀尾井坂に刀を残してきたので襲うに襲えず地団駄を踏みました、しかしその後で島田の懐にピストルが入っていたのに気が付いてもう一度地団駄を踏んだというエピソードが残っています。


紀尾井坂の変の後、国の最高権力者がどれ程の遺産を残したのか国民の注目の的となりました。すると、利通には財産は殆んどなく八千円の借金があったのでした。当時、千円あれば新築の豪邸が建った時代で相当な借金だったのですが、この借金は財政難に喘ぐ政府のために作ったモノだったそうです。

大久保利通と言えば西郷隆盛を殺させたと言う冷酷な悪人のイメージが強いですが、本当は一流の政治家だったんです。


「彦根とは反発する薩摩藩の、しかも明治の元勲の暗殺事件が何で彦根に関係するんだ、もしかして“紀尾井坂”の“井”が“井伊”だからか?」という質問を受けそうですが、実は紀尾井坂の変には明治の彦根に関わる人物が2人も関係しています。
この時、大久保利通に関わった彦根人に日下部鳴鶴と西村捨三の名前があります。

日下部鳴鶴はこれより2年前の明治9年4月に大久保利通邸に行幸した明治天皇の前で御前揮毫の栄誉を賜ります。そして紀尾井坂の変以降に政治の世界に身を置くことに無情を感じて書の世界に没頭し、明治三筆の一人として賞されるまでになったのです。

西村捨三は共に働いた大久保利通の威徳を偲び、事件より10年後の明治21年5月に紀尾井坂の変現場近くの清水谷に「贈右大臣大久保公哀悼碑」(写真)を建てました、この碑は高さが6.27メートルもあり捨三たちの大久保に対する想いの強さが窺えます。
捨三は、この後も政治の世界に関わり続け沖縄県令・大阪知事などを歴任し、京都の時代祭の発案や大阪湾の築造などの功績を残したのです。
コメント (3)
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