彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月26日、島左近亡くなる

2008年06月26日 | 何の日?
寛永9年(1632)6月26日、島左近が亡くなったとの記録が京都にあります。

島左近といえば、石田三成の軍師として活躍して関ヶ原の戦いで黒田長政軍の鉄砲隊の発砲を受けて戦死した事になっていて、その黒田家の家臣たちが数年後に関ヶ原の戦いのことを語り合った時に島左近の「かかれ、かかれ」という声が耳に付いて離れないがその時の左近の出で立ちについては、皆がバラバラの事を言ったので関ヶ原の時に三成の家臣だった者に確認すると黒田家家臣は全員間違った記憶を持っていた事が解り「ヨクウロタエタルヲ、悔シキ事ナリ」と自分たちが恐怖で左近の姿を凝視できなかった事実に左近の武勇を改めて思い知らされた。との逸話が残っています。


つまりは、黒田長政軍の鉄砲隊に撃たれたとは言うものの黒田家ではその首をあげる事が無く、他にも左近の首を取ったと確実に解る記録は残っていないのです。

そこで「島左近は関ヶ原では死ななかったのではないか?」との伝説がうまれたのです。
島左近生存説を上手く組み込んで隆慶一郎さんが『影武者 徳川家康』で島左近を活躍させて居ますが、このような小説以外にもにも数多くの話があり京都では目撃談も多く残っています。

まずは奥川並村(滋賀県の余呉町)。
ここは川上から茶碗が流れてくるまで下流の人は上流に人が住んでいる事を知らなかったとの言い伝えがある村で、左近が匿われて居たとされる「殿かくしの洞」があり、人々の親身な介抱に感動した左近が島姓を贈り、村人はそれでは畏れ多いとして“島”の前に一字を付けて“下島”“中島”“上島”の姓を名乗ったとされています。
しかし、ここが彦根藩井伊家の所領になったので、発覚を恐れた村人が左近を殺害したとも、逃がしたとも言われています。

次に、左近の出身地とも言われる対馬。

または静岡県、岩手県などなど全国に広がるのです。
一説には幕府に仕えたとも言われています。

そんな中で京都での目撃例と合わせて語られるのが京都市上京区にある立本寺の墓なのです。
ここには表に“妙法院島左近源友之大神墓”裏には“寛永九壬申年六月二十六日歿”そして表の台座には“土葬”と彫られています。
ちなみに、石田三成の旧領である彦根の妙源寺(花しょうぶ通り商店街内)でも左近の命日は寛永九年として扱われているのです。


果たして島左近は関ヶ原で生きていたのでしょうか?亡くなったのでしょうか?
管理人の考える事は、全てが本物の“島左近”だったのではないか?という事です。
もし、島左近が伝わっている通りの人物なのだとしたら様々な謀略を巡らすのではないでしょうか・・・

「関ヶ原で死んだ筈の島左近が、領内で生きていた」なんて噂が自分の領国で聞こえたら藩主は枕を高くして眠れませんよね。
それが島左近(と思われる人物が)亡くなった後にしても、領内であの島左近が生活していたという恐怖は相当な物だったと思われます。
島左近が関ヶ原で指示した策は、自分の家臣や影武者(たぶん居たと思います)に本物の自分の持ち物を与え、それを証拠としてほとぼりが冷めた頃に島左近を名乗らせる。
その時期は、それぞれのタイミングに任されていたのかも知れません。

関ヶ原の戦いと大坂の陣という大きな戦いを終えて、平和な時代を迎えた徳川幕府。
しかし、四代将軍家綱の時に起きた“由比正雪の乱(慶安の変)”では長宗我部盛親の子と名乗る丸橋忠弥が正雪の片腕だったりと、豊臣時代の名残がいつまでも幕府に揺さぶりをかけていたのでした。
左近もそんな恐怖を徳川家に残し、もしかしたら自身もそんな策の一人になっていたのかもしれませんね。


ちなみに、島左近はこういった替え玉策を以前にも用いた事があったと言われています。
それは「元の木阿弥」という諺として残っている出来事です。
左近が大和国(奈良)の筒井家に仕えていた時。
その時の当主だった筒井順昭は天文20年(1551)に2歳の嫡男・順慶を残して亡くなったのです。臨終に際して左近などの家臣を枕元に呼んだ順昭は、順慶への忠誠を誓わせました。
そして順昭そっくりの盲目法師の木阿弥を替え玉としたのです。
木阿弥は暗い部屋に寝かされて、順昭が病で寝入っているように見せ順昭の死を1年間隠し続けたのです。

そして1年後に順昭の喪が発せられ、木阿弥は一国の領主から元の法師になったのでした。これが「元の木阿弥」の故事なのですが、これを差配し続けた重臣の一人が島左近だったのです。

左近という人物は、どこまでも謎とロマンに満ちて居ますね。