彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月17日、阿部正弘死去

2008年06月17日 | 何の日?
安政4年(1857)6月17日、前の老中首座だった阿部正弘が病没しました。享年39歳。

大河ドラマ『篤姫』で今までの幕末ドラマの中では初と言っても過言ではないくらいにその政策が丁寧に描かれた阿部正弘とは一体どんな人物だったのでしょうか?

正弘が幕府老中に就任した時、老中首座は「天保の改革」で有名な水野忠邦でした。つまりは、まだ遠山の金さんが活躍していた時期だったのです。ちなみにこの時、正弘はまだ25歳だったのです。
天保の改革の失敗で一度失脚した水野忠邦なのですが、オランダ国王が日本の為にわざわざ船を走らせて届けられた国王からの親書に「アメリカからの開国請求が行われる」との手紙に驚いた将軍家慶によって再び老中首座に返り咲いたのです。
そんな対外問題に対して忠邦の補佐をしたのが若き阿部正弘だったのです。

しかし、水野忠邦の時代は既に終わっていて、その責任をとって辞任した忠邦と同じ様に老中たちが辞めて行き残った正弘が老中首座に着任したのでした。若くて二枚目だった正弘は大奥でも人気が高く支持率があったと言われています。
阿部政権(って現代みたい・笑)の最大の仕事は対外政策だったとい言って間違いないでしょう。
オランダ国王に対する返事から始まり、親書にあったアメリカ東印度艦隊司令長官ジェームス・ビドルが2隻の帆船(蒸気船ではない)で浦賀来航。この時に開国ができていれば幕末の騒乱や幕府崩壊も回避できたのかも知れませんが、幕閣の猛反対に遭い追い返してしまうのです。
嘉永6年の黒船来航時にペリーが恐喝外交に出たのは、この事に由来します。


こうした外交問題から、黒船来航前より譜代大名以外にも広く意見を求めるように幕政改革を始めた阿部正弘。
これによって、御三家である水戸斉昭や親藩の松平慶永、外様大名の島津斉彬・伊達宗城などが幕政に意見するようになったのです。
譜代大名たちがこれに反発して外様大名たちに罰を与えようとした時に黒船が来航し、内政はうやむやになったのです。

一度浦賀を去った黒船の再来港に備えて品川沖に砲台場(今のお台場)設置を江川英龍に命じ、家柄に関係なく幕臣を登用したのでした。ここで採用された人材の一人が勝海舟なのです。

安政元年(1854)3月3日、神奈川条約と言われる『日米和親条約』を締結し日本とアメリカの交流がスタートしました。これを開国とする意見もあり、開国は井伊直弼ではなく阿部正弘の功績とする動きもあります。

国内では12代将軍家慶が亡くなり、病弱といわれる家定が13代将軍に就任するのですが、その直後から将軍継嗣問題が勃発したのでした。
正弘は一橋慶喜を推す“一橋派”に属しますが、対外問題の責任を負わされ、また安政の大地震の混乱もあり老中首座を退いたのです。

阿部正弘の後任は開国派で“一橋派”にも、井伊直弼を中心とした“南紀派”にも属さない堀田正睦に任せたのですが、堀田は生まれながらの官僚気質で重大な決定をする勇気が無く、幕府は一時期停滞したのです。

そんな堀田よりも阿部の再任を望まれた頃、正弘は病で倒れて没するのでした。39歳
その若すぎる死から世間では様々な憶測を生み、少し前に迎えた若い側室(16歳)との閨が過ぎた衰弱死や井伊直弼の毒殺説などが伝えられています。
コメント
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