彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『井伊直弼と開国150年祭』開幕記念式典

2008年06月04日 | イベント
平成20年6月4日。

2日前に梅雨入りのニュースを受けた彦根では雨の心配もありましたが、晴れ渡った青空の中に3割程度の白い雲が浮かび、心地良い風が人々の間を通り過ぎるような気候にも恵まれた午後に『井伊直弼と開国150年祭』は開幕しました。

【彦根鉄砲隊開幕演舞】
午後1時半過ぎ、表門付近から彦根城博物館の土手に目を向けると、彦根鉄砲隊が稲富流砲術の演舞を披露し、会場は彦根城博物館能舞台へと移ったのです。


【開幕(井伊直弼大老就任150年)記念コンサート】
能舞台では“ひこね第九オーケストラ”のメンバー4名による記念コンサートが開催されました。
井伊直弼が生きたのと同じ時代に活躍したベートーベンの『よろこびの歌』に始まり、1855年から20年をかけて作曲されたちょうど日本の開国期に重なる時の曲であるブラームスの『ハンガリア舞曲第5番』。そして今年が生誕150年となるプッチーニの『誰も寝てはならぬ』と150年祭に関わるような曲が演奏されました。
続いては、井伊直弼が大老となった年の1858年に初演されたオッフェンバックのオペレッタ『天国と地獄』。
このような曲を紹介してくださっているのは“ひこね第九オーケストラ”のヴァイオリン奏者であられる澤純子さんですが、曲への想いと同時に井伊直弼に関わる歴史も調べて居られてこそ伝えてもらえるものだと思うと、何気なく語られる曲紹介の後ろに見える心に感動を覚えます。
そんな開国に関わる曲として次に披露されたのが、フォスターの『主人は冷たい土の中』『懐かしきケンタッキーの我が家』『草競馬』でした。
『主人は冷たき土の中』は、1854年のペリー再来航時に幕府の役人を招いた日米の交流会が行われ、その時に船員たちが披露した曲だったのです。
余談ですが、この時にタップダンスも踊られて日本人も大いに楽しんで笑ったという記録がありますので、音楽は例え言葉が通じなくても万国を繋げる力があるのかも知れませんね。
そして“ひこね第九オーケストラ”最後の曲はJ.シュトラウスの『トリッチ・トラッチ・ポルカ』この曲もちょうど150年前の1858年に作曲された曲だそうです。
「ヨーロッパからアメリカ、そして日本。段々世界が広がる流れを考えられた」との澤さんのお言葉でした。


【開式の辞】
井伊直弼と開国150年祭に関わる方々のご挨拶を読みやすい短さに略しながらご紹介します。

○井伊直弼と開国150年祭実行委員会会長 北村昌造さん
 6月4日は、150年前に井伊直弼が大老になった日、そして7月29日には『日米修好通商条約』が調印されました。井伊直弼が大老だった22ヶ月に合わせて150年祭が開催されます。
日本を開国に導いた井伊直弼を正しく評価し、また政治家だけではなく文化人としての一面も彦根から発信していきたい。彦根に訪れた方々に井伊直弼を知っていただき、昨年の『国宝・彦根城築城400年祭』でつちかった市民の力で盛り上げ、縁ある土地や人々との交流をしていきたい。
150年祭が市民の誇りとなって元気な彦根を自慢し若い世代に伝えていきたい。

○井伊家第18代当主(彦根城博物館館長) 井伊直岳さん
彦根は関ヶ原の戦いの後に井伊直政が入封以来、江戸時代を通して彦根の藩主でありつつけ、明治以降は直憲が教育・産業・医療に尽力しました。
昨年は彦根城という建造物が主役でしたが、今年は井伊直弼という人が主役です。
井伊直弼は、
1.開国の元勲 と呼ばれる肯定的な評価
2.国賊・強権政治家 と呼ばれる否定的な評価
があり、『日米修好通商条約』『安政の大獄』は共に直弼が大老の時に行われました。
藩主としての功績は、弘道館や湖東焼の経営などの改革を行っていて、直弼像の見直しの機会です。
また、直弼のみではなく前藩主の直亮の頃から盛んに洋学が研究されていました。

藩主・政治家だけではなく文化人でもあり、人間味があり、茶会の記録からは家族愛もうかがえます。
150年祭の期間中に市民だけでなく多くの方にそれぞれの直弼像を持ち、直弼のみでなく郷土を知って欲しい。

ここで直弼の2つの和歌を紹介します。
1.世の中を よそに見つつも埋もれ木の 埋れておらむ 心なき身は
2.あふみの海 磯うつ波の幾く度か 御世にこころを くたきぬるかな
“1”から“2”の間には約30年の月日が流れます、“1”は決意であり“2”はある種の充実感があり、この期間での変化が象徴される句ですね。

○滋賀県知事 嘉田由紀子さん
近江の国と呼ばれた滋賀県は、縄文・弥生時代から歴史ファンを魅了する歴史の宝庫。彦根には威風堂々とした彦根城があり昨年の400年祭では来場者が76万人を越え、本日、大老井伊直弼の人物像に焦点を当てた150年祭の開幕をたいへん嬉しく思います。
直弼は勇気を持って日本を開国に導いた人物。
先ほどの“ひこね第九オーケストラ”を直弼が聴いたらどう思うでしょうか? 西と東の文化が出会う出発点を直弼は開いたのです。

昨年、400年祭を成功させた力で彦根の魅力を発信して欲しい。
また、これを機会に今の私がどこから来たのか改めて考えてみては如何ですか?
(嘉田知事の)260年前の先祖は、江戸の屋敷で彦根藩の家老と出会い、陸運車(陸舟奔車か?)の図面の情報を伝達した。という繋がりがあるのです。

○文化庁文化財部記念物課調査官 三宅克広さん
150年を経過した開国。直弼により成し遂げられた偉業を思い起こし再認識して欲しい。
幕末期は様々な思惑の中で世の中の動きが加速され、はからずもその渦に巻き込まれた直弼。信念に基いて完結させた事は見事でした。
今の時代は幕末に重るかもしれません。日本史上最大の英断を行った直弼から何を学ぶべきでしょうか?

大河ドラマ『篤姫』には井伊直弼も登場しています、これからの直弼がどう描かれるのかも楽しみです。
直弼のイメージは舟橋聖一さんの『花の生涯』の印象が大きいですがもう一度直弼を考え直し、新たな直弼像の構築にも期待します。

江戸以降の彦根の歴史は井伊家と主に歩んできました。近世大名文化を多目的の見れるのも大きな魅力です。また天守からの琵琶湖の雄大な風景も彦根の誇りではないでしょうか?


【リレートーク『直弼を語る』】
井伊直弼と開国150年祭の開催にあたり、様々な視点での直弼像の紹介もありましたので省略しながらお伝えします。

○『日米修好通商条約と直弼』 渡辺恒一さん
安政5年6月19日、日米修好通商条約が調印されました。この時に下田・箱館に続き神奈川・長崎・新潟・兵庫が開港される事となったのです。
これ以前に調印されていた『日米和親条約』はまだ鎖国の延長ともいえる条件でしたので、『日米修好通商条約』は幕府の方針が変わった実質的開国となり、他の列強とも条約を結んでいったのでした。
井伊直弼は最高責任者として関わりました。
当時は天皇の許可である勅許に関心が集まっていましたが、勅許を得ないままに調印を行った為に後に直弼は「違勅の臣」として非難を受けるのです。一方、近代的な観点からは「開国の恩人」でした。

当時は列強に対し“積極的開国”“攘夷”の両極端な外交思想の間に様々な意見が乱立している状況でした。
そんな中、直弼は幕府の中心に居たことから正しい情報が早く手元に入り客観的な現状認識ができたのです。それと同時に幕権の維持を重視していました。こういった意味で“鎖国に戻す”“開国”の両方が重なった考えを持っていたのです。

直弼が大老に就任した時には、14代将軍をめぐる将軍継嗣問題と外交問題が持ち上がっていた時で、直弼は将軍継嗣問題を解決させてから天皇の勅許を得て条約調印というプランを考えていました。
しかし現場ではハリスに押し切られる形で『日米修好通商条約』に調印してしまい、やむなく調印するのは仕方ないとOKを出していた直弼としては計算外の事だったのです。
調印当日、直弼は家臣に「あやまった」と漏らし大老辞任も考えたそうです。

ただ、当時の幕府の対応としては評価できるものでした。しかし世の混迷は収まらず一橋派が反発し、安政の大獄から桜田門外へと進んでいくのです。

死後の直弼にはマイナスのイメージが付き纏います。
これは、
1.幕末から戦前に天皇の権威や勅許の価値が上がった為に、違勅は大きな罪になった。
2.明治期の外交で不平等条約の解消が問題となり、直弼は弱腰外交として一方的に断罪された。
からです。
しかし、当時の国際関係からは妥当であり、戦争を回避した評価もされるべきなのです。

直弼は死後にマイナスのレッテルが大きくなりましたが、ここから歴史が歪められる恐ろしさを学ぶべきです。

○『直弼の茶の湯』 小井川理さん
安政4年、直弼は『茶湯一会集』を書き上げました。
ここでは「一期一会」という茶人の心構えを説くと共に、人の生き方を示す言葉が使われています。元々は千利休の周辺で語られていましたが世間にも示し、所作・作法・精神を極める知識をも示したのです。井伊直弼は稀代の茶人と言えます。

当時、大名の子として必須だった石州流を学んだ直弼は、埋木舎で片桐貞信に学び埋木舎時代には澍露軒という茶室を造ったり、楽焼の製作も行っていたのです。
直弼の茶の湯は、31歳で一派(宗観流)創立の宣言を行うところまでになりますが、その翌年には彦根藩世子になり4年後には藩主の座に就くのです。
これは直弼にとって大きな転機でした、こうして彦根藩家伝の書を読み、自分で書物を収集する事もできるようになったのです。また片桐宗猿との出会いもありました。

直弼は、藩主や大老という激務の中でも茶会を多く開いて後身の育成にも努めました。直弼が大切にした茶会は茶人にとっては実践の場でもあったのです。一時の茶会を有意義にするために日々の稽古を重ね、茶会の実践を振り返って理論と実践を学んでいくのでした。

また、直弼は多忙な時でも茶道具の製作を続けています。作製された茶道具は弟子に与えて、新たな交流を生みました。
そして、見立ても行われたのです。見立てとは茶道具ではない物を茶道具として利用する事です。
直弼の茶道具は作製も上手とは言えず、見立ても洒落っ気はありませんが、先人に学ぼうとした一生懸命さが見て取れるのです。本当に茶の湯が好きで悪戦苦闘していた様子を想像すると微笑ましくなります。
これが直弼の美意識を育てました。

こうした努力から、理論の深まり・実践・美意識を総合した『茶湯一会集』が完成し、「一期一会」は150年の時を越えて残る言葉となったのです。

○『湖東焼と直弼』谷口徹さん
最近は市民権を得てきた湖東焼きですが、2.30年前はあまり知られていないために「幻の湖東焼」とも言われていました。

湖東焼は江戸時後期に絹屋半兵衛という古着屋が焼き物を思い立ったのが始まりで、今の言葉で現すなら「ベンチャー」だったのです。
この時から13年は絹屋が湖東焼を扱っていましたが、難しかったのが販売でした。その為に彦根藩に2度の借金を申請し、2度目に彦根藩に召し上げられたのです。
湖東焼を彦根藩窯にした時の藩主は直弼の兄の直亮でした。直亮は美術品愛好家でもあったので湖東焼は高級品として引き継がれていったのです。

直弼が藩主になると湖東焼は黄金時代を迎えます。
佐和山のモチノキ谷に窯があり、赤絵・金細・染付などの技術が使われ、生産も拡大し、50人を超える職人で賑わいました。そして全国に知られるようになったのでした。

直弼は焼き物の経験があった為に湖東焼に注文を付け、それがますます湖東焼を発展させたのです。
直弼の注文には
1.赤絵
湖東焼は鉄分が多い土を使っていたので青味を帯びるのですが、赤絵をのせると赤黒くなってしまうので青色を抜く工夫がされて、赤が鮮やかになります。
2.茶道具の発注
注文書には丁寧な絵を添えて作家の銘の場所も指定しました。
この事から直弼が細やかな性格だった事が窺えます。

そんな湖東焼を愛した直弼は桜田門外に斃れ、スポンサーを失った湖東焼は民間に移り明治期には雑器と呼ばれる日常品になってしまったのです。

このような湖東焼と直弼の関係を見ると、安政の大獄を行う豪胆さと、焼き物を扱う時のデリケートで細やかな性格。
どちらが本当の直弼なのでしょうか?

○『明治以降の直弼』小林隆さん
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の死後にはその評価は著しく低下し、彦根にとっても「井伊直弼の彦根人だから出世できない」といった自虐的な悪い評価が出るまでになっていたのです。
しかし、直弼の汚名返上に努力した先人もいたのです。

1.井伊直弼御誕親祭
井伊直弼の誕生日に直弼の偉業を偲び、直弼の肖像を掲げて神として祀り旧彦根藩士たちは思い出を分かち合ったのでした。
やがて、学生や女学生も参加する大きなイベントとなります。

2.書籍
島田三郎の『開国始末』が発表されたり、『世界の平和をはかる 井伊大老とハリス』という本が発表されたりしました。
『世界の平和をはかる 井伊大老とハリス』では、井伊家は南北朝時代から天皇家との結び付を大切にしていた事を示して、「井伊直弼が天皇の意向を無視するつもりではなかった」事と、「薩長側から書かれている幕末維新の見方を改めるべき」と主張されているのです。

3.井伊直弼朝臣顕彰会
昭和14年に井伊直弼没後80年を迎えるにあたって市役所内に井伊直弼朝臣顕彰会が発足しました。
翌年には直弼没後80年として偉業を偲ぶ行事が行われ、『井伊大老』という冊子が配布されたのです。
そして昭和17年には、教科書における偏った直弼の書き方についての意見書を文部省に提出しています。ここでは“違勅の反論”や“安政の大獄は当時の法では正当だった”事が主張されたのです。

戦前の彦根市民はこうして直弼を語り続け今に伝えています、舟橋聖一さんの『花の生涯』でその評価は大きく変化しましたが、未だに悪いイメージは消えたとは言えず、直弼をもっと知ってきっちりと受け止めて市民が伝えていく努力をし、新しい彦根の文化を創りましょう。


この後、ひこねお城大使による「はじまり宣言」と開催市長のお礼の言葉で『井伊直弼と開国150年祭』の開幕記念式典は無事に終了したのです。