彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月3日、黒船来航

2008年06月03日 | 何の日?
最近、調子に乗って戦国史を書く事が多かったですが『井伊直弼と開国150年祭』開幕記念式典前日ですから、開国に関わる話を書きましょう。


嘉永6年6月3日(グレゴリオ暦1853年7月8日)、アメリカのフェルモア大統領の親書を携えたペリー提督が4隻の艦隊で浦賀沖に来航します。

黒船来航の時にアメリカとロシアが先を争って日本を開国に導こうとしていました。
このアメリカとロシア両国に日本遠征を進言したのはドイツ人のシーボルトでした。
シーボルト事件で日本国内から追放されたシーボルトですが、当時は世界一の日本通だった為にアメリカでもロシアでもその知識を尊重されていたのです。
ロシアでは日本遠征計画を立案したシーボルトに対しロシア人以外では初のウラジミール大勲章を贈られているほどでした。しかし、両国とも外国人であるシーボルトを遠征隊の一員にする事を良く思わなかったようで、遠征の人員には加えられていません。
またシーボルトの行動からアメリカの日本遠征は早くからヨーロッパ諸国の噂になっていて、黒船来航の1年前には、艦隊の数や江戸湾を目的地にする事も記された報告書がオランダ政府から幕府に送られていたのです。
オランダから来た親書に対して幕府の反応はとても鈍いものでした。
当時は12代将軍・徳川家慶が政治の殆どを筆頭老中・阿部正弘に任せていて、阿部はこの親書が届いた時に幕閣を召集して対策を練ろうとします。
この時の他の老中達の第一声は「西洋人達の申す事など信用できない、ここは本気で聞くべきではないのではないか」だったそうです。
これには呆れて物も言えなかった阿部は幕閣を信用しないで外様大名と手を組む事を考え付いて実行するのです。
しかし、少数派の大名達ではどうする事もできずに何事もなかったかの様に無駄に時間を過ごしてしまい4月19日にペリーは琉球に上陸したのでした。
ペリーは当初、琉球を武力制圧して日本進出の中継基地にする予定だでしたが、首里城で盛大な歓待を受けた、また琉球の平和的文化値の高さとヨーロッパでも見る事のできない高度な敷石技術を目の当たりにして武力制圧を取り下げて補給拠点の一つにする事になりました。
こうして準備を整えた一行は江戸湾に向けて出港するのです。

徳川家康が江戸幕府を開幕してきっかり250年経過した嘉永6年6月3日、江戸に近い浦賀湾に四隻の黒い西洋船の艦隊が錨を降ろしました。
その内二隻はモウモウと煙を吐く蒸気船で、旗艦・サスケハナ号にペリーが乗船していたのです。
この艦隊の姿を見た浦賀近辺の庶民はパニックに陥り、その噂は江戸にも広がって江戸城内から江戸庶民までが今にも戦争が起りそうな流言に怯えて我先にと荷物を纏め逃げ出して、大混乱になる…

なんて事は実際にはありません。
アメリカやイギリスの船はこれ以前にも何度も江戸湾近くまで来る事があり、はっきり言って今更驚く事は何一つ無かったくらいです。
この日は蒸気船が初めて江戸の近くまで来航したのでその事を珍しがったくらいだったのだ。
そして、この蒸気船初お目見えというイベントが日本国民でなくペリーを驚かせる事態になる事になっ他のでした。

黒船がやって来た…
この報を受けて浦賀港は大騒ぎになった。
民衆が初お目見えの黒船(蒸気船)見物のために小船に乗って大勢押しかけ、サスケハナ号の周りにも多くの小船でごった返した。
中には芸者などを従えた楽隠居も居て、ドンチャン騒ぎを始めた者も居たそうです。
他の国では見かけなかった庶民の行動にペリーの驚きは大変なものだったと言われています。
実は、黒船来航の一年前にリンデンベルク率いるロシア船が下田に来航した事があったのですが、この時の下田付近の庶民は老若男女問わず次々にロシア船の甲板に勝手に上がり込んで、あっちこっちを見て周り、身振り手振りで船員達と会話を行い、ついには船室にまで入り込んだとか。
そして、「役人が来た!」の一言で潮が引く様に全員が帰って行ったのでした。
日本人の好奇心の強さ(野次馬根性?)は今も昔も変わる事が無い国民性だと言えなくも無いですね~。
何がともあれ、日本人の好奇心(今回は甲板には上がってこなかった…)の洗礼を受けたペリーの下に浦賀奉行の使者がやってくるのです。

民衆とは反対に、浦賀奉行・戸田氏栄は困惑の極みにありました。
黒船来航時にパニックを起こした場所はこの浦賀奉行所だけだったと言っても過言ではないかも知れません。
約1年前にオランダからの親書が届いた噂を耳にした戸田は、すぐに幕閣に真相を確かめます。
すると幕閣からは「根も葉もない噂」との叱りを受けてしまい、結局は外国船受け入れ対応の準備が全く出来ていないからでした。
一番重要であるはずの現場責任者は何も知らないまま右往左往して江戸と浦賀を行き来する事となった。
やがて、奉行所の役人が黒船に向う事となり、役人を見た民衆は岸に上がって様子を見物する事になったのです。
与力・中島三郎助が率いる役人の乗った小船がサスケハナ号に進むと、同船から一発の爆音が木霊して役人達は大騒ぎになるのです。
他国に入る時は空砲を撃つと言う習慣に託けてペリーが日本の役人をからかった行為でした。
サセケハナ号の真近に来た小船から「I can speak Hollands!」(私はオランダ語を話す事が出来る)という声が聞こえた。
これが公式記録に残る日本側の第一声になるのです。

当時の国際法では訪問船に何名の使者を乗船させるかは迎えた方に人数の決定権がありました。
その時に船上で接待を受けたならば、次は上陸を許可して歓迎するのがしきたりだったが、ペリーはサスケハナ号へ乗船できる役人を3名以内とします。
これは以前に日本に赴いたアメリカ船が国際法に従って日本人を接待したのにその後の上陸が許されなかった過去をぺりーが知っていての事で、高圧的な態度に出る事で役人を脅えさす作戦だったのです。
結局、与力・中島三郎助と通訳・堀達之助のみが乗船を許されたが、ペリー本人とは面会が許されず、副官のコンチ大尉が「あなた達の様な下級役人とは話が出来ない、ペリー提督は貴国と友好を結ぶために、アメリカ大統領の親書を携えて来ているのだから、最高権力者を連れてきなさい。もし親書の受け取りを拒むならば信義が無いとみなして江戸を砲撃する。」と言って2名を追い返したのです。
こうして役人達は肩を落として陸に戻ったのですが、空砲に驚き使者の勤めも果たせなかった役人の姿を岸で見ていた民衆達は幕府の頼り無さをはっきりと知る事になったのです。

6月4日、前日アメリカ側の意向を受けて浦賀奉行の香山栄左衛門(幕閣は大老以外は複数制だったので、同役が何名かいる)がサスケハナ号に乗船。
この日もペリーは顔を出さず、コンチ大尉との交渉になったが、アメリカ側の主張は「親書受取の件を三日以内に正式な返答を頂きたい、さもなくば武力上陸して将軍に親書を渡す」の一点張り。
そして、この時コンチは「もしもの時に必要になるから…」と香山に一枚の白旗を手渡している…
国際法で定められた“降伏”の合図旗―
ペリーはこの白旗を渡し、その意味を教える事で日本政府を恐喝したのです(ただしこの話は作り話だと言う説もあります)。

この白旗作戦はペリーがアメリカを出発する前から考えていたものでしたが、フェルモア大統領に大反対されています。また、受け取った日本側でもこの件の報告を受けた将軍・家慶があまりの衝撃に奇声を上げて倒れてしまい6月22日に没した事から将軍家の面子の失墜になってしまったのでした。
こうして日米両国ともに都合の悪い出来事だった為に公式記録から抹消されてしまい、最近になってやっとその事実が発覚したのです。
降伏旗を受け取った翌日(幕府にしては異例の速さ)、ペリーに面会を求める使者をサスケハナ号に派遣したが、その日が日曜日だったという理由で乗船を拒否されてしまいます。

その翌々日(6月7日)よりサスケハナ号で香山栄左衛門とコンチとの会談が開始。
香山は長崎で会談を行うのが日本の国法だと主張したが、コンチは浦賀での会談を希望。
このままでは話が平行線を辿ってしまうので日本側がコンチの意志を尊重する形で浦賀に近い久里浜で親書を受け取る事を承認したのです(この時には久里浜で受け取りの場所作りが行われていて、長崎行きの主張は一応の建前)。
ただし、久里浜では幕府はペリーから親書を受け取るだけでお互いに一切口を開かない“会見”しか行わないとの意向が日本側から出されたのでした。
一言でも言葉を交したならそれは“会談”になってしまうので、会談を望むなら長崎に向かう様に要求したのだった。
コンチはこの条件を呑むしかなかった。その代わりとして、親書は複製しか渡さない事を提案したが、そうすると会見を何度も行う事になるので香山から拒否されている。
結局、親書を受け取る人物が幕府の高官だという証明書をペリーに提出する事で親書の本物を日本側に渡す事になったのです。
この日の会談でもペリーは表には出てこなかったのですが、コンチに指示を与えていたのは確かだった。
後世の印象ではこの会談で香山がペリーの言うままになってしまった様に見えてしまうのですが、実は日本側の主張が殆ど承認された会談だったのです。
証明書の提出を要求する事だけが唯一ペリーができた抵抗だった。
こうして、証明書を準備するために香山はサスケハナ号を離れ、この日の会談は終了。

6月8日、香山が持ってきた証明書はありがたみも何も無い物でした、将軍のモノと思える大きな押印があったのでコンチはそれを認めるしかなかった。
結局この時将軍に委任された高官は浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道。
さて、証明書を渡す事で会談を終えた香山はそれまでの厳しい表情とうって変わってコンチと笑談を始めました。
好奇心旺盛な日本人の一人である香山の質問は、まずはサセケハナ号が太平洋経由で来たのか大西洋からアフリカ・アジアを経由して来たのかを質問。
現在の感覚では黒船は太平洋を真っ直ぐ来た様に思えますが、実は大西洋から地球を一周しています。
この答えに感心した香山は「今、工事中のパナマ運河が出来たら楽になりますね」と言ったとか、しかも、アメリカの大統領がフェルモアだという事も正確に知っていた。
これはオランダから入ってくる情報を全て使用したフェイントでしたが、この話を影で聞いていたペリーは日本人の情報力に少なからず動揺したと記録されています。

6月9日江戸幕府は200年以上続いた鎖国政策を破ってペリー一行の上陸を迎える事になったのです。
この時に久里浜に上陸したアメリカ人は300人程であったのに対して、迎えた幕府役人は少なくとも5000人以上だったとペリーの記録に残っている。
ペリーが日本人の前に姿を現したのはこの時が初めて。
会見の方は、ペリーから浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に対して、フェルモア大統領の親書とペリーの信任状及びそれらのオランダ語と中国語の訳文が無言で手渡された。
こうして、5300人以上の人間が集まった会見は20分位で終了。
その後、サセケハナ号に戻ったペリー一行は中々帰る気配を見せずに江戸湾を測量したり、船を江戸湾の奥まで進めようとして役人をからかってみせたりしています(子どもだなぁ)。
この時の役人の狼狽ぶりが有名な川柳になっている。
“太平の 眠りを覚ます 正喜撰
たった四杯で 夜も眠れず”

さて、アメリカ大統領の親書を受け取った幕府は、これを将軍に報告するために日本語訳の作業を行ないます。
この時、江戸城内蛮書取調室(外国書専門機関)で大きな問題が発生します。“President”をどう訳すか?という事でした。
今まで便宜上使っていましたが、実は“大統領”という言葉は親書受け取り時点ではまだ生まれていなかったのです、この時に一番最初に候補に上がった日本語訳は“国王”でした。
しかし、林大学頭は「フェルモアは町人の出身であり、王号で呼ぶのは間違っている」と異議を唱えて別の訳語を考える事になったのです。
この頃の世界情勢では王も皇帝も存在しない国家というのは常識外のもの、しかしそれが存在する以上は「町人で最高位」の呼び方を探すしかなかったのです。
ここで候補になったのが“親方”“元締”“酋長”“親分”“大将”“頭”等だった。
どれが候補になっても面白かったんですが、結局は“大工の棟梁”が採用され、略して“大棟梁”になり、字を変えて“大統領”という言葉が作り上げられたのでした。
嘘のような本当の話で出来上がった“大統領”という日本語ですが、この後西洋文化の大量輸入と共に新しい日本語が沢山作られるようになる(例えば“自由”“著作権”も福沢諭吉の造語)。

そんな紆余曲折を経て出来上がった日本語訳を将軍・家慶が見る事はなかったのです。
6月22日、白旗事件のショックが癒えないままに家慶は他界してしまう。
享年61歳。
本来ならこの後1年間のもに服すのが幕府の慣例になっていますが、翌年の黒船再来航の宣言を受けている以上はそんな事も言えず、簡単な儀式の後に将軍の座は後継ぎの家定に譲られる事となったのでした。
しかし、家定は少し知恵が遅れた人物でだったと言われているのです。
大河ドラマ『篤姫』では新たな解釈がされていて面白いですが、今のところ歴史的には暗愚となっています、そうではない家定を描いた小説に星亮一さんの『井伊直弼』がありますが、なかなか手に入りませんので偶然にでも入手された方はぜひ読んでみてくださいね。
コメント (2)
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