彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月19日、日米修好通商条約締結

2008年06月19日 | 何の日?
安政5年(1858)6月19日、アメリカ軍艦ポーハタン号の船上において『日米修好通商条約』が締結されました。

4月23日に井伊直弼が大老に就任した時点で、列強との修好通商条約締結はほぼ決定されたものでした。
しかし、幕府は自らの責任を転嫁するために朝廷を利用しようとし、それが「無勅許での条約締結はありえない」という世論を呼ぶ事となったのです。
当時の社会情勢では、日本の大政は江戸幕府にあり、井伊直弼はそのトップである大老の地位にあった訳ですから、本来なら無勅許という問題が起こる筈もなかったのです。
これが、幕府崩壊の原因の一つになるのですから、責任無き政府は怖いですね。

さて、直弼が大老に就任した頃は堀田正睦の失策で時の天皇である孝明天皇は意地でも条約を認めない思いが強かったのです。
これは、当時の瓦版の影響が強く、海の無い京都では異国人は妖怪かエイリアンのようなイメージで語られていたからなのです。

こうして、直弼は勅許の無いままの条約調印を渋りますが、現場サイドで条約調印が行われてしまい、直弼が責任を負う形になったのでした。
この日の夜、直弼は側近に「この上は責任をとって大老を辞任しよう」と弱音を吐いたと言われています。

ちなみに『日米修好通商条約』では、
箱館・新潟・長崎・神奈川・兵庫の5つの港の開港
自由貿易の承認と開港場での居留地の設置
関税自主権の放棄
治外法権
などが締結されたのです。
この不平等条約に対し、明治政府は条約改正に苦労したので、直弼の批判材料となりますが、当時の世界情勢では先進国の列強と未開国の日本の間に結ばれた条約としては常識の範囲内だったという説もあるのです。


余談ですが、
神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港されます。
列強は、これを条約違反と主張しますが、明治になってから横浜を含んだ地域を神奈川県とし、神戸を含んだ地域を兵庫県とする事で誤魔化したのです。

もう一つ余談を書くなら、
兵庫(神戸)を除く4つの港はすぐに開港されますが、兵庫だけは大政奉還が行われた後でした。
これは、異国人に恐怖を感じていた孝明天皇がいつまでも京都に近い港の開港を認めなかったために、孝明天皇の崩御後に開港となったのです。


そして、これらの条約は9月までに、フランス・イギリス・ロシア・オランダとも締結されるのです。


今日は、日米友好150年の記念日であり、これが元となって彦根では『井伊直弼と開国150年祭』が開催されています。
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