晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠志古田道 11/18

2011-11-18 | 山・峠

2011.11.18(金)曇

 念願の大栗峠志古田道に行けることになりました。上粟野から志古田道は元来の京街道であると考えていたのですが今回佐々木さんが車で上粟野まで送ってくれるということで実現しました。車に乗れる限定4名で参加者を募ったところ、土筆庵井上さんが行けるということで、桜井克さんとわたしと三人の参加となりました。
 天気が怪しいのと期待感でなんとなくソワソワと準備を始めました。

  8:00 志古田集合 佐々木さんの車で上粟野へ
 9:05 林道入口(山の家前バス停)スタート
 9:55 登山道入口着  10:05 発
10:30 尾根道に到着  10:40 発
10:55 地蔵堂跡
11:25 大栗峠着     11:50 発
13:04 志古田林道着
13:22 山の神着
13:35 佐々木邸着

 上粟野は上和知川上流にぽっかり開けた集落です。和知山の家があり、かつては随分賑わったそうですが、最近は利用者が少なくなっているそうです。若者のレジャー指向が変わってきたのかも知れませんが、それなりに対応した施策が必要なのでしょう。
  林道の入口に池本寺観音堂というのがあります。その前の谷の右岸の道が旧街道のようですが歩かれていないので、左岸の林道を行きます。地形図和知にはこの右手の尾根に登山道が載っており、わたしたちがシデの山と言っているピークに突き上げています。P1000367 P1000366
 
上粟野とバス停、
大栗峠あやべ山の家の案内有り。



 林道を行くと、立派な防獣のネットが張ってありゲートを開けて入ります。なんとなく幽界に入っていくようで気持ちのよいものではありません。いきなり鹿の全骨格が横たわっていました。バス停から2Km弱で右手に支沢が出合います。更に500m程で支沢があり、道の下に地蔵堂があります。地蔵さまの姿はなく、逆に殺伐とした気分になります。街道はこの沢を北に登って行くのでしょうが、林道は左に大きく迂回して北に向かいます。右側にあった沢が左に移ると間もなく「ふれあいの森散策道」という看板が見えてきます。この看板は昭和55年に綾部山の家とを結ぶハイキングコースが整備され、その際に作られたもののようです。猟銃の弾痕が三ヶ所有り、こんな輩が銃を持っているのかと思うとぞっとします。P1000370 P1000373
 
地蔵さんのいない地蔵堂と
弾痕のある看板


 ここでしばし休憩して、登山道の谷を詰めていきます。ところが谷道は荒れてきて、すこぶる不明瞭になってきます。
 「北山の峠」では300m程で自然に右手の尾根に取り付くジグザグ道がある、と書いていますが、それは看板からではなくて、当時の林道終点からのようです。
沢から取り付く道のようなものは見当たらず、やむなく植林の急な斜面を無理矢理ジグザグに登っていきます。ハイキング道は植林のために消えてしまったのでしょうか。少なくとも元の街道は看板の手前の支尾根の末端ではなかろうかと思います。あえぎあえぎ尾根に這い上がると、尾根上にハイウェイが走っていました。なんとも罪な看板です。P1000375 P1000376_3

尾根に這い上がった地点
二ヶ所でくっついている妙な木


 ここで休憩しますが、這い上がった地点にテープが2ヶ所うってあります。やはりここがハイキング道の降り道なのかとも思われますが、もしそうだったとしてもこの斜面は降りない方がよろしい。
 尾根上の道は弓削道同様広くて、歩きやすい道です。倒木などは弓削道より少なく、闊葉樹のプロムナードと言ったところです。松の木が多いのも気分を良くさせてくれます。
 道中大栗峠まで0.7Kmなどの看板が出てきます。P1000377 P1000378 つづく






【作業日誌 11/18】
薪割り

今日のじょん:帰りに寄った佐々木さんちのハナちゃんはとっても人なつっこい。ベロベロスリスリするもんだから、帰ってからじょんが嗅ぐこと嗅ぐこと。P1000414_2

井上さんもタジタジ。 

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雨読 峠をあるく(2) 11/17

2011-11-18 | 雨読

2011.11.17(木)晴

 笛吹峠は津波の被害の大きかった岩手県釜石、大槌(おおつち)方面から遠野市に越える峠です。自転車旅行中もっとも思い出深い峠です。2006年10月17日宮古を出発し、釜石から仙人峠を越えて遠野に行く予定でした。ところが陸中のアップダウンの海岸線を南下する間、猛烈な南風、つまり向かい風に遭いました。自転車走行にとってつらいのは重荷でも急坂でもなく向かい風です。吉里吉里(きりきり)のあたりではすっかりくたびれてしまって、予定より一本北の峠道に入ったのです。これが笛吹峠への道でした。Img_1238
 
あの山の向こうが遠野です。気が遠くなりそう。


 方向が西に向いた途端風は無くなりやれやれと思った途端、困ったことに気付きました。食料品を買う店がないのです。もともと釜石市街を通る予定だったため極少量の行動食しか持ち合わせがありません。発電所のところで最後の食料を食べて登りにかかります。それがまた、でかい峠なのです。西日本では峠と言ってもしれてますが、東北の峠はスケールがでかい、しかも急登なのです。
 悲惨な思いで越えた峠なのですが、この峠こそ弘化四年(1847年)の第一次の三閉伊一揆(さんへいいいっき)の二千人にもなろうかという農民が遠野の城下目指して通った峠道なのです。
 三閉伊一揆とは南部藩に対する一揆で、弘化四年と嘉永六年(1853年)に起こり、大規模で且つ用意周到でいずれも農民が勝利しているという希な一揆であります。そして地元では今日でも一揆のことを語り継ぎ、誇りに思っておられるようです。農民が蜂起した田野畑村には三閉伊一揆を中心にした民俗資料館があります。わたしはたまたま通りがかりにこの資料館に立ち寄り、至極感動いたしました。後にも先にも一揆をテーマにした資料館はありません。Img_1188 Img_1237
 
田野畑村の資料館と栗林村の供養碑。


 笛吹峠の麓、栗林町(現釜石市)にも嘉永六年の一揆の指導者三浦命助の碑があります。いかにこの地が三閉伊一揆を大切に思っているかが判ります。
 さて井出氏の着想はというと、遠野物語で遠野に関する事柄はもちろん、遠くこの笛吹峠の向こうのことまで書いている柳田国男氏が、三閉伊一揆について何も書いていないことです。つづく

【作業日誌 11/17】
テーブル用収納棚作製7日目

今日のじょん:本日の来じょん、久太郎、Q太郎かな?15才とか聞いたけど、イタチと格闘し、お腹を大手術したとか。とても元気で生命力アリソー。P1000361

 

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