2011.11.12(土)曇
洞峠(3)で明智光秀と洞峠の因縁について説を思いついたので予告をしましたが、あまりに奇妙と云うか珍説なので躊躇しておりました。洞峠だけにホラ話でしたというような感じで軽く流してください。
珍説に入る前に、洞峠下の石室の件ですが(10,19 洞峠(2)参照)、実際に存在するそうです。是非来年の風に吹かれる会で探してみたいと思っています。
また、福知山観光協会から光秀公ゆかりの地を巡る三郡マップというものが発行されています。上林地区では井根町の日圓寺が紹介されています。観光案内所などで無料配布されていますので、ゆかりの地を巡るのも一興です。
三郡マップは天田、何鹿、氷上各郡の光秀ゆかりの地が紹介されています。写真は日圓寺観音堂。
峠について記述されている方はロマンチストである場合が多いようです。多くは登山家、岳人なのですが、頂上(peak)が人の生活と無縁であり、人を拒絶してきたのに反し、峠(pass・col)は人の生活の一部分です。だからこそそこには人の歴史が残っているし、事件も伝説もあるのです。自転車で峠を目指すのをパスハンティングと言うそうです。私はピークハンティングは許せるのですが、パスハンティングは許せない気持です。
話がそれてしまいましたが、井出孫六氏の著書に「歴史紀行 峠をあるく」と言うのがあります。内容についてはいづれ雨読で紹介いたしますが、その中に洞ヶ峠(ほらがとうげ)というのがあります。峠紀行文多しと言えども洞ヶ峠について書かれた文は珍しいと思われます。洞ヶ峠という諺はどなたも知っておられるとおり、日和見のことです。
大和郡山城主の筒井順慶は光秀が信長を討ったときは光秀を助け、秀吉が東上するとなると態度を曖昧にし、洞ヶ峠で戦況を眺め秀吉有利となると秀吉側について大功をたてたという話からきている諺です。史実は順慶は郡山城を一歩も出ていないということで、とんだ濡れ衣ということですが、洞ヶ峠が山崎方面を見渡せ、戦況を見るには格好の地であることは間違いありません。
大方の人は洞ヶ峠を知らないと思いますが、井出氏もその位置が解らず案内されて驚かれた様子が書かれています。私は以前家を建てるときに建築会社の工場が洞ヶ峠の大阪よりのところにあり、家財を置かせてもらったので幾度となく通うことになりました。そんなことがあって重々知っているところなのですが、それは国道一号線の京都大阪の境にある峠なのです。つづく(洞峠(3)は2011.10.20)
【作業日誌 11/12】
じょんのび水道修理
今日のじょん:今月のじょんカレンダーは大岩の滝だ。今年は紅葉が遅くて、イマイチだそうだが、昨年はなかなかの景色だった。来年はカレンダー止めて、フォトアルバム「じょんのび村の仲間たち」を作製予定、また実費で提供するつもりだ。