ポジターノの海岸の西側、船のチケット売り場の裏手から、フォルニッロへと細い道が伸びています。
これが“アメリカ通り”と呼ばれる小道です。
通りの名前は、第一次世界大戦のころ、
ポジターノからも多くの人が職を求めてアメリカへ渡ったことから付けられたのだとか。
今でこそ華やかな観光地のポジターノですが、当時の人々の心情を察すると、複雑な気持ちになります。
岩肌にへばりつくような道を歩くと、右手には真っ青な海に船が行きかうのが見えます。
当時の人々もここからアメリカへ旅立つ人たちを見送ったのでしょうか。
道の両脇にはサボテンがたくさんの実を付けていました。
イタリアではサボテンの実は“インドのイチジク”と呼ばれ、食用にもされています。
つづら折の道をしばらく行くと、「トラジタの塔(Torre Trasita)」が現れます。
現在では個人の所有物になっているそうで、中を見学することはできませんが、
ポジターノの守りの要だったのでしょう。
通り沿いには、サボテンのほかにも、多くの草木が花を咲かせ、街の喧騒を忘れさせてくれます。
やがて、道の向こうにフォルニッロの浜が見えてきます。
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Hotel Buca di Bacco (ブーカ・ディ・バッコ)
ポジターノの浜辺のすぐそばにある、ホテルに併設されたリストランテです。
味はもちろんですが、リストランテにはロケーションも大切です。その意味ではここは申し分ないでしょう。
アンティパスティは生サーモンのタルタル。
サーモンは確かに海のものですが、アマルフィ海岸らしいかと言えば?です。
プリモはジェノヴェーゼソースのトロフィエ。これも特に南イタリアらしくはないですね。
ちなみに食べかけです。
でも、席から見える眺めを見ると、そんなことはどうでもよくなってしまいます。
サンタ・マリア・アッスンタ教会の真下にあるこのリストランテからは、船着場と海水浴場がすぐ目の前です。
セコンドは2品。いつも頼んでしまう「地魚のフリット・ミスト」と、ナポリで食べ損ねた「ポルペッテ」です。
野菜がほしかったので、付け合せにソレント産のトマトをオーダーしたら、下の写真のようにどっさりと…。
ワインはナポリですっかりクセになってしまったファランギーナ。
セコンドのうちの1品は魚のフリット・ミストなんですが、まあいいかな・・・。
お店のホームページはこちら(ホテルもあります)
http://www.bucadibacco.it/index.html
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ポジターノは“モーダ・ポジターノ”と呼ばれる独特なビーチファッションの発信地です。
特に水着の流行はここから始まる、と言われていたこともあるくらいメジャーな場所です。
浜そのものは、とくに広いわけでも、水が透き通るようにきれいと言うわけでもありません。
でもやっぱり絵になるんですね。私たちが訪れたのは9月の終わりで、もうハイシーズンは過ぎていましたが、
それでもビーチには思い思いにくつろぐ人たちの姿がちらほらと見受けられました。
浜に出て見ると、いわゆる「砂浜」じゃありません。「ジャリ浜」と言ったほうがいい感じの小石の海岸です。
大きな川もなく、岩山からいきなり海岸になっているので、粒が大きくなるのでしょうか。
一応、船着場とビーチに分けられてはいるのですが、
ご覧の通り、あまり快適そうには見えない場所でも日光浴をしている人もいます。
こちらが正真正銘のビーチ。9月の終わりにこの人出ですから、7~8月はどんな感じなんでしょう。
海岸側から見上げたポジターノの街並み。たぶん半分くらいの建物がリゾートホテルです。
マヨルカ焼のタイルのクーポラが印象的な、ポジターノの街の中心に立つ教会です。
このクーポラは、ポジターノのシンボルといってもよいでしょう。
教会は、海岸からつづく土地より一段高いところに建てられていて、ファサードの前は小さな広場になっています。
ファサードと鐘楼のデザインや装飾はいたってシンプルで、アマルフィのドゥオーモとは対照的です。
もっとも、今の姿になったのは、アマルフィのドゥオーモより600年もあとのことですから、
比較するほうがおかしな話かもしれませんが…。
中に入ると、白を基調にした色合いのためか、また採光のための窓が大きくとられているためか、
非常に明るい印象を受けます。
後陣奥の主祭壇には、内装とは少し違和感のある、
金箔をふんだんに使ったビザンチン様式の黒い聖母子の絵が祀られています。
この絵には、ポジターノの町の名前の由来にもなっている伝説が語り継がれています。
昔、海賊がこのあたりを襲い、
戦利品としてこの絵を持ち帰ろうとしたところ、
海が大荒れになり、今にも船が沈みそうになったそうです。
そのとき、海賊は「Posa、Posa」
(置いていけ、置いていけ)という不思議な声を聞き、
この絵を浜に置き捨てたところ、
海は見る見るうちに静まり、海賊はそのまま逃げ帰った、
という話です。
そのため、この土地は「Positano」と呼ばれるようになり、
町を救った聖母子像を大切に祭ってある、ということです。
なんだか「おいてけ掘」みたいですね。
ポジターノの街は、他の南イタリアの海沿いの町と同じように、外敵の侵入に備えて、
迷路のように細い路地が入りくんでいます。
おまけに平らな土地が少ないので、階段を登ったり降りたりと大変です。
まずは、海に近い平地から街歩きを始めてみましょう。
街の真ん中、ブティックとブティックにはさまれるようにして、タベルナコロがありました。
この路地はさっきも通ったような…。
平地は本当にネコの額ほどの広さですが、似たようなしっくいの白い壁が続いています。
“ポジターノファッション”の発祥の地にしては、地味な感じです。
“ネコの額”といえば…やっぱり浜辺の町、あちらこちらで猫の姿を見かけます。のんびりくつろいでいますね。
路地を抜けて、海岸に出るとうって変わって開放感を感じます。やっぱりリゾート地なんですね。
それにしても、こんな険しいところにたくさんの建物が…。
プルマンの停留所からポジターノの街へ下っていく道は、クリストフォロ・コロンボ通りと名づけられています。
そう、あのコロンブスです。なんでコロンブスなのかなぁ?
コロンブスは当時のアマルフィ共和国のライバル、ジェノヴァ出身のはずなのに…。
などと思いながらも、美しい風景にひきつけられて、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまいます。
崖の一番上まで、色とりどりの家がへばりつくように建てられているようすは、
まるでデコレーションケーキのようです。
そして、少し下に視線を移すと、
マヨルカ焼のタイルが印象的なサンタ・マリア・アッスンタ教会のクーポラが間近に見えます。
ムリーニ広場を左に折れると、やがて道幅は狭くなり、ムリーニ通りと名前を変えます。
建物の多くを見上げるようになると、まもなくポジターノの中心です。
アマルフィからポジターノへ向かうには、陸路と海路の2つのルートがあります。
私たちは、行きは陸路(バス)を、帰りは海路を選択することにしました。
バスはアマルフィに到着したときと同じように、切り立った崖にへばりつくような道を走ります。
アマルフィ海岸は、いわゆるリアス式海岸。
崖上のわずかな土地に、また崖下の小さな入り江に、小さな集落が点在しています。
そんな中を縫うようにして、道が続きます。
見通しの悪いカーブでは、バスは大きなクラクションを鳴らしながら走ります。
万が一対向車が来たときのための用心です。遠くのカーブからも、クラクションの音が響いてきます。
やがて遠くのほうに崖にへばりつくようにたくさんの建物が密集している町が見えてきました。
ポジターノです。
ポジターノの町へは大型バスは入ることができません。
市街のはるか上のバス停でバスを降りると、
そこにはポジターノの街と海のすばらしい眺めが広がっていました。
ナポリからアマルフィ海岸へは、さまざまなアクセス方法がありますが、
私たちはプルマンを利用することにしました。
プルマンの発着場は、港の古い船着場、Molo immacolatellaにあります。
特に停留所のようなものはなく、どこ行きがどこに停車するといった決まりもなさそうで、
到着したバスは空いているスペースにかなり適当に止まっているように見えます。
このあたりがいかにもイタリアらしいところです。
近くにいる人に聞いても、行き先をわかっている人はいないようで、返事は決まって「non lo so」です。
切符売り場は、駐車場の脇にぽつんと立っている建物で、ここも不親切極まりない感じです。
まあ、イタリアにいてそんなことにいちいち腹を立てていてもはじまらないので、
ついでに自動販売機で水を買って、のんびりとお目当てのバスが来るのを待ちます。
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いったんバスが到着してからは、ナポリの渋滞に巻き込まれることもほとんどなく、
バスはスムーズに走ります。
市街を抜けると、ヴェスヴィオの雄大な眺めを車窓から見ることができます。
このあとは少しウトウト…。
気がつくとバスは山間をぬって、アマルフィ海岸へと下っていきます。
このあたりは、ちょうど修善寺あたりから西伊豆へと抜ける道に雰囲気が似ています。
バスは海に面した山の中腹につくられた道路を走ります。
ところどころに小さな集落を見ることができます。
急斜面に建てられた家々が目立つようになると、アマルフィはもうすぐです。
いよいよアマルフィの町が見えてきました・・・。