ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

山科で逢った山伏

2006年04月17日 | 季節の話題
 今朝は、京都山科に所用があって久しぶりに行った。

 JR山科駅と京阪山科駅が並列してあり、多くの学生と通勤、商用?の人たちが行き来していて、活気がある駅である。

 しばらく駅頭に立って、行き来する人たちを見ていると、中に山伏のコスチューム・>?に身を包んだご年配の方がちらほらと通られるので、日常的にはお目にかかれない出で立ちなので、お声をかけて撮影させていただいたのである。

 ご高齢の御仁は、御歳85歳で山科牛尾山の修験僧としてお山に行かれるのだそうで、ご同輩と共に迎えの車を待たれていたのである。

 私は初耳の「牛尾山」とは、地元では有名な牛尾山法厳寺のことだそうで、亀宝九年、空海よりも古い賢心法師によって開山したそうである。

 当寺本尊は、天智天皇勅作の秘仏といわれていて、年二回のみ開帳法要が営まれるのだそうである。

 今日は、新たな仏像ではなく著名な協力者の銅像かなにかが完成したために、山で行事が営まれるのでいかれるのだそうでした。

 この山伏の御仁は、戦後兵隊から帰ってきた後、この山伏修行に入られたそうで、もう六十年も山伏をしているといわれたのである。

 さすが山伏の修験僧だと思うくらいに、お年のわりには全くお元気そうであり、本業を伺うと漢方も含む薬局を経営されていたそうで、物心共に健康の権化のような方だとお見受けしたのである。

 しばし立ち話をしていると、「お兄さんは何をしとるんかね」と私の仕事を尋ねるられたので、「人のため、世のため、自分のため、いろいろやっています」と応えたところ、「自由業かね、いいねぇ」と一方的に断定されてしまった。

 山伏と言えば、幼い頃の奈良吉野の山上ヶ岳、いわゆる大峰山のことを思い出したのである。

 小学一、二年生の頃だったと思うのだが、大峰山に父親と共に登って、突き出した山の頂から上半身を突き出した形で、父親が両足だけを持って、「親の言うことを聞くか?」「親孝行できるか?」などと聞かれ、スグに返事が出来なければ、少し前へと体を突き出されて、恐怖の中で「ハイ、します!」「わかりました、言うことをキキマス」と無理やり応えなければ、谷に突き落とされかねないカッコで、試されたことを記憶しているのである。

 女人禁制で、今でも論争が耐えない男子のみ登山が許されるという、修験僧のための山であり、山伏の姿をした男達を見たのは、その時が最初だったのだが、何とも怖い印象であった。

 しかし、今日偶然にも山科駅前でお会いできた山伏のお姿のご高齢の御仁は、優しい眼差しの中に、きりっとした情熱とエネルギーを感じさせる民間信仰の強い意思をお持ちの紳士であった。

 今度機会を作って、ぜひ山伏が登られた山科、音羽の牛尾山の牛尾観音と琵琶湖と石山、比良山などの眺望が素晴らしいパノラマ景色を観に行ってみたいと思うものである。

 また東山連山の行者の森で、あのきりりとした山伏にあいたいものである。
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STOP原発!!!

2006年04月16日 | 世界の問題
1986年4月26日に、あのチェルノブイリ原子力発電所の4号炉の爆発事故が起きて、今年で満20年を迎える。

 大量の放射能が全世界にバラまかれて、旧ソビエト連邦のウクライナから約八千キロも離れた日本の地にも放射能が飛来して、甲状腺ガンの原因となる放射性ヨウ素が、日本でも母乳や牛乳から検出されて大問題となりました。

 私は、この原発事故から四年後の1990年五月に、日本チェルノブイリ連帯基金のメンバーとして、多くの仲間達と一緒に、事故後コンクリートの「石棺」と呼ばれる巨大な放射能防護壁に囲まれたチェルノブイリ原発の四号炉を見て、隣の国ベラルーシ共和国で多くの被曝した子ども達と会いました。

 事故後からベラルーシ共和国ならびにウクライナ共和国、ロシア共和国を中心に、多くの子ども達の被曝による甲状腺ガンが続発し、その治療と医薬品不足を補うための日本のボランティア団体が活動を始めたわけです。

 チェルノブイリの子ども達は、突然の原発事故による被曝と言う悲劇の中でも、明るく振舞っていましたが、多くの子ども達が治療の甲斐なく若くして、この世を去っています。

 世界で原子力発電が開始されて以来、アメリカ合衆国のスリーマイル島事故をはじめ、数多くの原発事故が起きており、その影響による生態系ならびに人間の健康被害は相当なものなのですが、国や原子力開発に熱心な企業、団体があるため、その詳細は公表されないケースも多く、事実は隠蔽化されかねません。

 日本でも死者を出した原発関連事故は、東海村のJOC事故や敦賀原発での放射能を含む熱湯噴出事故などがあり、尊い命が直接原発関連事業所で失われています。

 また直接的な事故による被害者だけでなく、原子力発電の間接的な被害者は、原発の底辺労働者である下請け企業や派遣社員等、原発関連会社で働いた人たちの中で、若くして放射能ガンの発症で亡くなった人も数多くいるのです。

 私の友人の一人でもあった敦賀のお寺の和尚も脱原発の運動のさなかに若くして、たぶん放射能による影響と思われるガンで亡くなっています。

 関西電力や東京電力等、電力各社は原子力発電による電気の供給は安全であり、現在の電力の需要の三分の一は、原子力発電によるもので、日本の電力供給には欠かせないと宣伝しています。

 しかし、水力発電や火力発電をセーブしても原子力発電を優先した電力生産、供給を至上命令の如く実施していて、決して原子力発電が無ければ全く日本の電力事情を賄えないわけではないのです。

 新しいエネルギーで安全な電力生産を可能にする、太陽熱、風力、地熱などと共に、脱原発を目指す意欲さえあれば十分現代の科学技術の進歩によるプラントでの電力生産、提供が可能なのです。

 多くの国民、学識経験者達が、この原発問題に口を閉ざしてしまっているために、政府と電力各社と原発に連なる利害企業が、脱原発を許さない体制を固めているだけなのです。

 チェルノブイリ原発事故から20年の現在、再び「STOP原発」を強く要望したいと思います。
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「いざガネ」って何?

2006年04月15日 | 感じたこと
子ども達の何気ない疑問や会話を聞いていて、ハッとすることが幾度もある。

 八百屋のお客様である年配の奥さんのお孫さんの、耳寄りな面白い会話のエピソードを聞いて笑ってしまった。

 小学1年生になる女の子のお孫さんが、おばあちゃんとの会話で「いざガネ」と言う聞きなれない言葉を使って話したのである。

 「いざガネ」とは、孫の家庭でのお父さん、お母さんの造語なのだが、「いざと言う時に必要なお金」の略であり、緊急かつ突然にお金が必要になった時に備えられた「へそくり」の様な予備費のことなのだそうである。

 七歳になったばかりの女の子は、この「いざガネ」に、自分がお正月にもらったお年玉が含まれているのではないかと疑問に感じたので、自分の母親に聞けずに、おばあちゃんに尋ねたのである。

 いつも「内はお金がないのだから」と言っている自分の母親が、みんなの同意を得てペットの子犬を買ってきたのだが、この代金に「いざ金」が使われたらしいのである。

 かわいいワンコが家に来たことは嬉しいが、もしかして自分のお年玉にもらったお金が使われてたら、私のお金が犬に化けたことになるので、自分のお金が無くなっていたのでは困るというのである。

 つまり自分の預けたお金が「いざ金」になっていないかどうか、母親には直接聞けないので、母親の親である、おばぁちゃんに、それとはなしに問うたのである。

 幼い女の子の頭の中では新たに家族の仲間入りをしたペットの愛犬Sの代金が、自分の親に預けたお年玉のお金かどうかが心配になって仕方が無いのである。

 おばぁちゃんは、「大丈夫だよ」と孫をなだめたものの、孫のお母さんに確かめなかったみたいだが、子どもの心の中での不安と葛藤を想像すると、大変な心境なのだろうと察することが出来るのである。

 若い夫婦の会話の中の「いざ金」を子どもが聞き、自分のお金の行方を心配する経済感覚と親への信頼感が揺らぐ中、おばぁちゃんは母親に確かめることなく、「大丈夫だよ」と孫をかばって話されたのである。

 いくら何でも家族のための「いざ金」に、まさか子どもたちのお年玉が使われてしまうことはないだろうが、ちょっと一時的に拝借することはあるだろう。

 でも子どもたちには、「大丈夫だよ」と安心できる様に言っておいてやらないと、子ども達は小さな心で心配してしまうのである。

 とにかく家族のための「いざ金」としての予備費を、どう捻出するかはお母さん、お父さんの知恵と工夫によるのだが、時には子どものための積み立て金や預かり金が化けてしまうこともあるだろうが、借りた金は子ども達の将来のために返しておく必要があるだろう。

 幼い女の子が「いざガネ」の出処の心配と家庭の経済を通して、お金の大切さを知る機会となり、「お金がなければ銀行に行って出せば」と思っていた子どもからの成長を面白ろ可笑しく聞いたのである。
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森の幼稚園と虚空蔵さん

2006年04月13日 | 季節の話題
 京田辺市という小さな6万都市には、いろんな名所がある。

 一番有名なのは一休禅師が晩年を過ごされた「酬恩庵・一休寺」である。
 次は、今年20年目となる同志社大学京田辺キャンパスだろう。

 さて三番目に、私は写真の学校法人雑創の森学園・そよかぜ幼稚園を推す。

 この私学の幼稚園の建物は1977年の創立時に建設された一際ユニークな建造物であり、新進気鋭の建築家、六角鬼丈氏の設計と風と水の彫刻家である新宮晋氏のデザインと教育家、小笠原浩方氏の構想など、三人による作品でもある。

 京田辺市大住虚空蔵谷の小さな森の中に佇むこの建物たちは、初めて観る人たちにとっては、まるで宇宙ステーションか新興宗教の本山の様なユニークかつ威風堂々としたものである。

 特に幼稚園園舎の七つのコンクリートの打ちっぱなしの塔の様な建物には、各々横文字で七つの言葉が刻まれていて、学園の目指す教育の大切なイメージとなっている。

 三つの対になっている言葉の他に、ひとつ余る七つ目の言葉として、「Biocycle」、すなわちビオサイクルと言う造語が刻まれている。

 このビオサイクルこそ地球の成り立ちの基本である、命の循環であり、あらゆる生命体は、この地球上でお互いに関係しあい命の循環の中で生きているということの証を求めて、教育に携わるということなのだろうか。

 実は私は、この雑創の森学園の一角で、財団法人プレイスクール協会という子ども達の「遊び場活動」のリーダーとして12年間、この学園を拠点としたスタッフとして、子ども達と共に遊び多くのことを学ばせていただいたのである。

 四月十三日は、この学園の下の少し谷あいに室町時代から、虚空蔵菩薩を本尊とする大住虚空蔵堂という小さな祠があって、毎年四月十三日には「知恵の十三参り」として有名な行事がささやかに行われているのである。

 創立以来30年目の今朝も、この「そよかぜ幼稚園」では入園式が行われ、35名の小さな三歳児が式に参列した後、恐る恐る谷筋を少し下った、お堂に親御さんとお参りをされたことだと思う。

 まだ数えで十三歳にはほど遠い幼子達だが、知恵授かりの菩薩さんがいるとなると、親としては参らずに帰るわけには行かないだろうし、幼稚園の前の駐車場の横ではプレイスクールのスタッフたちがテントを張って、何やら昔懐かしい「あてもん」や「おもちゃ」のお店を開いていて、子ども達には大人気なのである。

 大人には、桜餅と抹茶の簡単な野点のお茶席もあり、桜がまだ咲き乱れる大住虚空蔵谷の森の春を愉しむ風情があって、ほっと一息できる場所となっていた。

 虚空蔵谷への参道の小路には大小のお地蔵様が数十体も安置されていて、各々のお顔や姿が、またユニークで愉しましてくれるのである。

 決して室町時代からあるお地蔵様ではなく、ここに雑創の森学園が出来てから、虚空蔵さんを守る会なる有志達が、心を込めて各々のイメージでお地蔵さんを創作し彫ったものなのである。

 皆さんも機会があれば、京都嵐山の法輪寺さんよりも歴史的には古い虚空蔵菩薩が安置されている、大住虚空蔵さんへ足を向けていただけたら、建築界でも著名な雑創の森の建造物も一緒に愉しんで観ていただくことが出来るでしょう。
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みんなガキ大将に!!!

2006年04月12日 | 日本の課題
あれれ、何処のガキ大将がいるのだろう???。

 近くの保育園の入園、進級式に行ったら、まことに賑やかな雰囲気で子どもの声が聞こえてきて、なかなか静かに式は進行しなかったが、何とも懐かしい親しみを感じられたのである。

 そりゃーそうなるよね。まだ零歳児から三歳児くらいの入園児が中心なんだから、母親と一緒に座っていても入園式なぞ何のことかわからないもんだ。

 何だが周囲に見知らぬ大人たちがたくさんいて、前ではネクタイを締めたおっちゃんたちが座っていて、何やらわからんことを喋ってはる。

 じっとシテなさいと言われても、じっとできないお年頃なので、だんだん窮屈になって泣き出す子どももいるし、そこら辺をウロウロしだす子どももいる。

 そんな中で保育園の先生達が手遊びやお歌を歌って、子ども達をリラックスさせて、その内に「手はおひざ!」と導いて、しばしの静寂を招いて式は何とか進行していくのである。

 そんな入園、進級式の途中で、五歳児と思われる写真の男の子が若い男の保育士さんの皆んなへの呼びかけに、ちょっとふざけて応え出して、ひとり有頂天な心に火がついたのである。

 子どもの面白いしぐさと返答に周りの子ども達も大喜びで賑やかさが増しだした。その子どもにとっては、先生との一年間の保育室や屋外でのやり取りで、もう既に信頼感というか、あんうんの呼吸での愉しむコツが出来ているのである。

 久しぶりに「ガキ大将!」と感じる男の子に出会ったのである。彼の鼻は、見事に擦りむいて黒いカサブタがついていて、よけいに「ガキ大将」の勲章のように輝いていたのである。

 最近、こうしたガキ大将と思える子どもの姿を見ることが少なくなった様な気がしていたので、何とも嬉しく、また頼もしくも感じたのである。

 乳幼児の頃から家庭での躾が行き届きすぎてか、みんな「いい子」にさせられてしまいがちで、少し野放図で、ちょっと無茶なことをしでかす様な子どもらしい「ガキ大将」にお目にかかれなくなっているのである。

 幼児から小学生への成長期に、思いっきり個性を発揮して遊び、喋り、ちょっと回りをビックリさせるくらいの元気の良さは、この時期であればこそ許される特権なのではないだろうか。

 一歳から十歳位までの幼児から少年期に、子どもが子どもらしく遊び、体を動かして、少しばかり大人を困らせる程のエネルギーを発揮してこそ、その子の個性が磨かれるのである。

 中途半端に小さい頃から、その元気や個性を抑制されたり叱られっ放しでは、伸びる個性も縮むし、生きるエネルギーも中途半端なママ、面白みのない大人にしか成長できないのではないだろうか。

 私は、もう一度、子どもが子どもらしくエネルギーを発散して、少しくらいは大人の都合の子育ての枠をはみ出すくらいの「ガキ大将」の再来を期待しているので、先日の入園式で会った彼のやんちゃぶりに、しばし見とれつつ将来への期待感すら持つ心境で、楽しく見つめていたのである。

 みんなガキ大将であれ!!!

 正直に告白すると、もうずいぶん昔になるが我が幼い頃のやんちゃぶり、すなわち自らのガキ大将的存在を思い出したのである。
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近くの寄り合い花見

2006年04月11日 | 地域の話題
 今日は市内の幼稚園で入園式が行われ、春の小雨が桜の花々を少し散らしかけていたが、何とか幼い子どもたちを祝するために長持ちして、この日を待っていたように桜の花に囲まれた入園式であった。

 三歳児の入園は母親と共に会場であるプレイルームに入ってくる形式で行われ、担任の先生に名前を呼ばれても、しっかり返事ができる子どもは少なく、初めての集団生活への第一歩は頼りない限りであった。

 しかし一緒に式に参列し歓迎の歌を披露した一年先輩の四歳児は、たった一年の違いなのに、しっかりお兄ちゃん、お姉ちゃんと言える成長を示していて、この一年の経験の偉大さを感じさせていた。

 かわいい幼児の入園式から帰宅し、すぐに地元の小さな公民館で開かれていた「ふれあい茶房」のお花見会に足を運んだのである。

 決して広くないフロア一杯に、地域の顔見知りの高齢者が40名程、テーブルに並んだ各種のおにぎりやお汁、卵焼きに切干大根、漬物などのおかずとお菓子が並んでいて、楽しそうにお喋りしながら食べておられた。

 民生委員さんたちが、地域のお年寄り達に参加を呼びかけて「ふれあい喫茶」を月に二度づつ始められてから、早五年以上の歳月が経って徐々に口コミを主な伝達手段として参加者が増えて、今日のような食事が出る「お花見」には、たくさんの方々が来られていた。

 新興住宅地には約1500軒の家があり、1970年代の後半から府の住宅供給公社が開発分譲し、当時は30代を中心とする若い世代が主に入居し、私たちもその一員として80年に引っ越してきたのである。

 それから約25年が経過し、主な世帯の中心世代も50代後半から60代を越え高齢化が進み、2007年問題と言われる団塊の世代も、もうすぐ定年を迎えて高齢化も飛躍的に増すことだろう。

 そんな状況の中、地域の民生委員さんたちのボランティア精神と心遣いで、地域のお年寄りが気楽に寄り合いお茶を飲みながら、ひとときを楽しめる機会としての「ふれあい茶房」が始まったのである。

 日頃は高齢者世帯や一人暮らしの方も、日常の買い物くらいしか外出されないので、なかなか他人と話したり一緒に愉しむ機会が少ない方も多くおられるので、こうした機会は大変地域のお年寄りにとっては大切な時である。

 現代社会は近隣のご家族の動向や健康状態などもわかりにくく、改めてお尋ねして聞くことも難しいので、民生委員さんや地域の老人会の人たちが相互に尋ねあったり、ちょっとした企画の集いにお誘いすることで、お互いの安否や健康などの情報交換も出来るのである。

 ある元気なお年寄りはデジタルカメラで地域のイベントや学校の行事、また老人会とサークル活動などの情報と写真をホームページで公開されていて、その映像をパソコンから会場のスクリーンに映写したりしながら、和気藹々のお昼時を過ごせたのである。

 これから益々高齢化する地域社会の中で、こうした集いを企画し世話いただく関係者に感謝しつつ、縁あってこの地に生活する者として、これからも地域の高齢者や民生委員さんたちともお話できたらいいなと感じたものである。

 近くの寄り合いで気さくに花見をと思ったが、今日はあいにくの小雨のため、公民館の窓からの花見になり、やっぱり「花より団子」の感の花見が、楽しく行われたのである。
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その場しのぎのツケ

2006年04月10日 | とんでもない!
 どんな話題で話していても、最近はいつのまにか世の中が暗い方向に間違いなく向かっているとの話題になってしまう。

 決して悲観論やマイナス思考ではないのだが、いろんな話題の行き着くところが「先行き不安」とでも言おうか、全く楽観できない日本社会について、異口同音に憂いと共に心配だとなっているのである。

 ある大手スーパーのパート職員の中年の女性との会話の中で、職場での多種多様な問題に対しての対応、つまりトラブルが発生した場合の対処の仕方が話題となったのである。

 いろんな原因があって結果的にお客様からのクレームがきたり、指摘があったりするのだが、上司は殆どその解決策を根本的には考えないで、その場しのぎの対応で済ませてしまうのだと言う。

 つまりお金の勘定が合わなかったとすると、何処かで誰かがレジを打ち間違えたか、価格や割引を忘れたのか、つり銭を間違えたか、とにかく原因があるのだが、上司は上に報告して叱られたり、問題を指摘されて嫌な思いをするよりも、自腹を切ってでも、トラブルや問題が無かったかの様に誤魔化してしまうのだそうである。

 人間の対応やシステムにも「絶対はありえない」のだが、さも「間違いがなかった」として、その場しのぎの対応を繰り返して、ちっとも根本的な改革や見直しはしないで「先送り」してしまうことが習慣または常識になっているのだ。

 誰もが最初は可笑しいと思うのだが、「ここではこうするのだ」と上司に言われて止むを得ず、上司の命令もしくは対応に従っているうちに、「最初は可笑しいと思った」ことが、そのうち「それでいいのだ」となってしまうのである。

 そして、どんどん問題は山積されて、ちっとも解決への糸口を見出せぬまま、表面的には問題なしが、しばらくは続くのであろう。

 しかしである。やはり問題や原因があってトラブルや苦情が生じているのだから、いずれその問題が大きくなり爆発するが如く、とんでもない大きいトラブルになってしまうのである。

 その場しのぎの誤魔化しや対応で「先送り」された「火種」が、いずれとんでもない「大きなツケ」となって具体化した時には、ちょっとやそっとでは解決できない大問題となっているのである。

 日頃は誰もが「難なく問題なく」過ごしたいものである。しかし小さな問題を問題化させることを嫌って誤魔化したり、きれいごととして対処して自分の犠牲やチーム内での常識にしてしまうことは、いずれ大きな事故や取り返しの付かない大問題を生み出していることと同じなのである。

 小さなトラブルから素直に、その原因たる問題に気づいて反省し、システムや仕事の仕方、スキルなどを見直して、再出発する勇気と熱意があれば、結局はスタッフも仕事しやすく、お客様にも喜んでいただけるサービスや仕事に近づけるのである。

 どんな問題でも、その場しのぎの対応で終わらせず、何故問題が生じたかを小さなトラブルでも誤魔化さずに、その時に反省と因果関係を明確にして、真剣に見直し改革することで、新たな仕事への意欲や遣り甲斐を感じられる、真の人間の向上心へと結び付くのだろう。

 
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4と9はラッキーナンバー!

2006年04月09日 | ファミリーイベント
 今日は4月9日なので、ふつうの日本人は4と9の付く日として、ちょっと嫌な感じを持つ方がいただろうと思われる。

 特に病院やホテルなどでは、4(死)や9(苦)をイメージするため、四階九階の表示がなかったり部屋番号なども4や9が嫌われて無かったりする。

 私にとっては全く逆で、いつ頃からか他人が嫌がる4や9がラッキーナンバーと思える様になり、現在も好きな番号として四と九をあげるのである。

 昔、昔の小学校の何年生の時だったか忘れたが、ある学年の学芸会での出し物で電話番号遊びで、舞台発表していたことを今も鮮明に覚えているのだが、4444の番号を死、死、死、死と読まないで、よし、よしと読んだら病院でも問題はないと言うのである。

 私は、その発想にえらく感動したことを覚えており、私に関する数字についての意識の記憶では、自分が設立した事務所の電話番号が9684であり、「苦労はしよう」と呼んだのが最初で、一年ほど経って仕事が順調に展開し、事務所を移転したら電話番号が変更され今度は4714、すなわち「しないよ」となったのだが、どちらにも4と9があったのである。

 また自宅の電話番号や自動車の登録番号など自分に関わる番号に、何故かことごとく4や9が混じっていることに気が付き、この番号が自分にとってはラッキーナンバーなのだと思い始めたのである。

 それからというもの何かにつけて選べる番号の場合は4か9を選ぶし、与えられた場合もほとんどの場合4か9が混じっていることが多く、なんとなく嬉しく思える様になっている自分に気づきだしたのである。

 4と9の効能は「49を良く」と読む以外にもたくさんあって、四苦八苦などと言うけれど一生懸命物事にチャレンジする時などは四苦八苦してこそ、いい結果や成果が与えられるものなのであり、楽に物事が成就したり成功したりすることはまずいのである。

 私の八百屋の宅配用に使用している軽四輪ワンボックスと家人が乗っている軽の乗用車の両車両とも中古車として購入した時から、何故か9713(苦ないさ)と
9684(苦労はしよう)で、正反対の意味なのに4や9が含まれており、私にとってのラッキーナンバーが続いていたのである。

 しかし、今年に入って自家用中古車を乗り換えることになり、八百屋の営業車を8081(八百屋一番)で登録し4や9と縁がなくなると心配だったのだが、家人用の車は展示時から819(俳句)だったので、9があるのと覚えやすさでそのままで登録変更することにしたのである。

 私の住まう住居表示は4丁目だし、自宅の電話番号にも4049(世を良く)と4と9が入っていて、これからも4と9と仲良く付き合っていきたいと思っているのである。

 数字を何かにナゾラエテ読むことで、もっと人生や生活を愉しむことも出来るので、皆さんも4や9を不吉な番号としないで仲良く付き合えば、四苦八苦の末でもラッキーが舞い込むこと請け合いですよ。
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そもそもが間違っているのだ。

2006年04月08日 | 日本の課題
 沖縄県宜野湾市にある米軍普天間飛行場を、名護市の米軍のキャンプ・シュワブ沿岸部へ移設する案を巡って、名護市長は滑走路を二つにし住宅地への影響を少なくする案に合意したが、沖縄県知事は99年に政府が閣議決定した、辺野古沖の海上埋立て案の計画推進を求めて沿岸案には反対の立場で対立している。

 先日当選したばかりの名護市新市長は、選挙公約とは裏腹に名護市のキャンプ・シュワブ案に修正同意し住民の反感をかっているが、たぶん額賀防衛庁長官の説得に屈したのだと思われるが、一方の稲嶺沖縄県知事の反対の立場も決して沖縄県の住民の思いではない。

 現在の米軍普天間飛行場の早期撤去を訴えている地元の伊波宜野湾市長は、決して沖縄県内への移設や本土で新たな米軍基地をつくる様な代替え策ではなく、米軍基地の撤退を要求されているのである。

 私は今年1月に沖縄に行き宜野湾市長の明確な政治姿勢を聞き、ほんとうの自治体の長としての、しっかりとしたメッセージとして「米軍の撤退」を打ち出されていることは、沖縄県民だけでなく多くの国民の意思であると感じたのである。

 そもそも戦後60年も経っているのに、いまだに占領軍に占拠されている様な実態が続く日本の米軍基地のあり方が異常なのであり、普天間基地の県内移転や厚木基地機能の岩国移設などという解決策などを住民は望んでいないのである。

 昨今の政治的課題や議論が、そもそも論を抜きにして核論と言うべきか、出口での選択論議に終始していることが多く、意図的にそもそも論としての総論を無視している帰来がある。

 すなわち、普天間基地や厚木基地の移設、移転ではなく、日本からの米軍の撤退が必要な政治的ベクトルであるはずなのに、米軍ありきで議論が進められており、既得権や前提が固定していて、国民の多くが望む真の日本の平和外交とはギャップがあるのである。

 また天皇制に関わる皇室典範の改正論議も全く同じで、女帝を認めるか否かや、男系天皇の継続を守るなどという論議以前に、天皇制そのものの継続の是非のそもそも論が必要なのではないだろうか。

 すなわち、根本的な基本理念や哲学、考え方には触れずに、出口としての手法や選択枝だけを問題にするやり方は、一種のすり替えであり、マスコミも含めて根本的議論を意図的に避けて通ろうとしているとしか思えないのである。

 私は最近のマスコミに真のジャーナリステックな切り口や論評がほとんどなくなり、記者発表などの権力側の都合のいい情報や内容だけを、無批判に報道しているテレビ、新聞の姿勢に、危機感すら感じるものである。

 憲法改正論議にしても、そうである。そもそも憲法が現実に合わなくなったのではなくて、憲法違反や憲法無視の政治勢力が、ごまかし切れなくなったために、憲法が現代に合わなくなったという欺瞞で、憲法改悪を試みようとしているに過ぎないのである。
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兄妹の後姿の写真に出会う。

2006年04月06日 | 感じたこと
 宇治に「ゆめハウス」という障害を持つ青年達の小規模作業所がある。

 私は縁あって、いつ頃からか有機八百屋ガリバーとして、この宇治橋通り商店街の入口にある彼らの作業所を土曜日の午後に訪れることが、週に一度の日課の様な楽しみとなっているのである。

 最初は社会福祉会館のお風呂掃除をしている私の友人親子を訪ねての行商だったのだが、小規模作業所として「ゆめハウス」が開設されてからは、この場所に顔を出すようになり、彼らと友達づきあいをする様になっているのである。

 たまには数名の顔見知りの通所の青年達がいない日もあり、どうも誰にも会えないと拍子抜けしたような気持ちになる程、今では「ゆめハウス」に立ち寄るのが楽しみになっているのである。

 特に出会って10年近くになる難聴のH君と、私の顔を見ると必ず「珈琲飲んだ?」と聞いてコーヒーを入れてくれるS君と出会わないと、宇治に行った気がしないのである。

 そんな心和む3時前後のおやつタイムに、ゆっくりと休憩もさせてもらっている「ゆめハウス」では、数人の通所生といつも大きな声でいろいろと話をしているのである。

 仕事のこと、テレビのこと、彼氏や彼女のこと、お母さんや指導員の方達のことなどと、特にパープルサンガ好きのH君と野球に詳しいMちゃんがいるので、サッカーや野球の話も盛り上がるのである。

 そんな会話の中からから、ひょうたんから駒の如く阪神甲子園球場のナイター観戦の企画が急遽まとまったのである。

 2ヶ月後の7月11日の広島、阪神戦を一塁アルプス席から、みんなで応援することとなったのである。

 そんなこんなで、いつも笑いが耐えない楽しいティータイムを過ごさせていただいている、「ゆめハウス」で、先週は新しい仲間の顔にも出会えたが、私はユージン・スミス氏の写真展のポスターを切り取った写真に目が留まったのである。

 暗い森の中から明るい方向に向かって、ちょっとお兄ちゃんと思われる男の子と妹みたいな女の子が手をつないで歩いて出て行く写真であった。

 「楽園への歩み」と題された世界的な写真家ユージン・スミス氏の1946年の作品らしいのだが、私には自分が二卵性の双子として生まれて2年数ヶ月経った頃の生駒山の山頂で撮られた私と双子の妹の姿とダブって見えて、この写真に魅せられてしまったのである。

 作業所の責任者である私の古くからの友人でもあるH君のお母さんに、私の印象を伝えて、この写真のポスターを譲ってほしいと所望したところ、快く安価で譲っていただけたのである。

 何事にも出会いがあり、人との出会いは人生をも大きく変えることも有るのだが、この写真との出会いも、「私に連れて行って!」とでも写真が言っているが如く私には感じられた出会いだった。

 この一枚の写真との出会いから幼き頃の自分と妹、そして写真には写ってはいないが両親や周囲の時代的風景をもイメージすることが出来る程、写真は力と表現力を持っているのである。

 ユージン・スミスと言うアメリカの写真家が何処でこの光景をキャッチして撮影したのかは全く知らないが、日本では戦後直後の貧しい時代に新しい「楽園を目指して歩く幼い兄妹」の後ろ姿は、光輝く希望と未知への強い意志が感じられて、現代を生きる私達にも力強いメッセージを秘めているのである。

 一枚の写真に素直に出会えた喜びに感謝する。
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