ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

NHK番組改変問題!

2005年01月19日 | テレビマスコミ
 数日前から問題となっている「NHK教育テレビの番組改変」問題について、私も書こうと思っていたが、今朝の京都新聞に私の知人でもあるMさんの読者の欄への投稿があり、的確に、その問題をとらえており、私は4年前の番組そのものは見ていないが、彼女は観た上での感想も書いているので、紹介させていただき、私もほぼ同感であるので賛同の意を表したいと思う。

 「NHKの番組改変解明望む」  亀岡市 M(自由業・45)
 
 テレビ番組の放送前に、自民党の安部、中川両氏がNHK幹部に内容変更を求めていた、とNHKの現職幹部が内部告発した。これに対しNHKは圧力は受けていないとし、安部、中川両氏も内容の変更は求めていない、と否定している。

 問題となっているこの番組は、2000年に開かれた女性国際戦犯法廷を取り上げたもので、従軍慰安婦
問題など戦時性暴力を問うものだ。
 
 四年前、私はこの番組を見て、「なぜ加害者を擁護するコメントが強調され、戦犯法廷で問われたはずの加害責任があいまいな形で表現されているのか」と、強い違和感を持った。

 後で、従軍慰安婦の方の証言がカットされるなど番組が大幅に変更されたことを知り、何らかの圧力があったのだろうと確信していた。

 今回、自らの生活をかけての内部告発を、うそだと思う人はいないだろう。しかし、圧倒的な力を持つ政治家と巨大組織であるNHKが否定したら、彼はつぶされてしまうかもしれない。

 これはお金にかかわる先のNHKの不祥事よりはるかに重要な問題だ。政治の力によって表現の自由や私たちの知る権利が侵されてはならない。告発者の勇気を生かし、徹底的な真相究明を求めたい。

 以上が京都新聞2005年1月19日水曜日、朝刊7面の窓「読者の欄」のトップに掲載された文章である。

 私は、このニュースが伝えられた時から、「あぁやっぱり、そうしたあからさまな圧力や自主規制、番組の偏向的作り替えなどがあるのだ」と思っている。

 最近のニュース映像などでも、NHKの報道姿勢と内容そのものが偏向しており、イラクの自衛隊の映像でも、やたら日の丸を写すし、皇室報道などは全く大日本帝国憲法下の国家体制かと思わせる様な、言動や映像の扱い方にうんざりしている。

 安部や中川が問題視されているが、一番おかしいのは公共放送とか公平、中立等と言いながら、放送される前の番組の内容が国会議員や党関係者の中で問題となり議論されていた、と報道されていること自体が、大きな問題であり、NHKならずとも報道に携わる放送局の自主的な番組制作や編成が既に犯されている証拠である。

 NHKだけでなく、朝日や毎日などの民放テレビ番組制作なども、大きなスポンサー等に関連した番組内容が自主規制されているだろうし、そうしたスポンサーの意見、意向に沿った番組づくりがエスカレートしていることは、今に始まった問題ではない。公平、中立の放送や報道など、既に日本のマスコミ、メディアにはないのではないだろうか。

 


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ガリバー通信の配布

2005年01月18日 | ちょっと可笑しいよ

 久しぶりに議会報告「ガリバー通信」56号を発行し、配布している。
 
 昨年の9月議会と12月議会の一般質問や私の所属する委員会での事務調査としての質問の骨子を中心とした報告である。約6万市民で2万2千世帯の内、約1/3の家にポステイングで配布するのである。

 A4が公文書の主流になっている現在だが、私の場合はA3まで印刷できる印刷機がないため、未だにB4の裏表の大きさで印刷し、B5に折って配布している。議員になって14年が経過しようとしているが、年に4回の定例議会の報告を中心に発行しているので、1年に4号、14年で56号ときっちり発行度数が合ったみたいである。

 議会が終わって、暫くは議会での議決や問題点の整理がまとまらず、2週間程経ってから「議会報告」の記事を書いたり、まとめたり編集作業をする。しかし、まとまらず日が経ってしまうこともあり、今まで議会終了後1ヶ月以内に発行することにしているが、出せなかったこともあり次回にまとめて狭い紙面だが、要点を報告することも今回同様に数回はあった様だ。

 最近の1面のメイン見出しは、結構問題提起型が続いてており、今号は「特権、癒着の行政施策に反対!」であり、前号は「議会は市長と二人三脚でいいの?」その前の号が「元職員の監査委員選任に不同意!」であった。

 いつも十日程かかって各戸配布するわけだが、数人の協力者の手も借りてはいるが、自分一人で6千部以上の配布は大変である。しかしこれも仕事でもあり、ものは考え様で、いい汗をかかせていただき、健康にもいいし、地元の住宅街や町を見ながらの配布は、とってもいい刺激と出会いがある場合もある。

 「ガリバー、なかなかええこと言ってくれたね」とか「いつも愉しみに読ませてもらってるよ、頑張ってね」とかの励ましや反応をいただく場合もあって、やはり嬉しいものである。しかし中には議会での質問や議論の中身ではなくて、毎回紹介している「議員報酬収支報告」と「私の主なうごき日誌」についてお電話をいただくこともある。

 つまり「議会報告」を配布して、どれだけの方が目を通していただいているかは分からないが、一番の関心は、議員の「お金と行動」らしい。「何日に参加した何々とは何なんですか」とか「年金支払いの金額はおかしくないですか」とかという、私にとっては過去のことであり、あまり議論や考え方とは関係のない枝葉末端のことなのだが、読まれる一般の市民の方には一番関心があるらしいのである。

 今日も午前中と午後に分けて市内の新興住宅地を中心に、予定より多く1300部程をせっせと配った。
冬場ではあるが、途中に3回も汗びっしょりになった下着とシャツを着替えて配布に専念した。

 議員としての仕事の証しでもある、市民に報告する個人の議会報告は、自己満足かも知れないが欠かすことのできないものだと肝に銘じて、今後も多くの市民に「わかりやすい報告」を心がけながら精一杯の議会活動と問題点を伝えていきたいと思っている。
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えらい叱られた!記憶が・・・。

2005年01月17日 | 感じたこと

 今朝ちょうど5時に何故か目が覚めた。そうだ、あの阪神淡路大地震から10年が経ったメモリアルデイである。10年前の今朝は、私は京都の自宅で寝ており5時46分の大きな地震による揺れに布団の中から、すぐ横にある本箱が倒れない様にと手で支えながら、この地震を経験したのである。

 その翌日から地震の被害の大きさと被災者の多さに圧倒されながら、救援物資を積んだワンボックスカーを二度、神戸の東灘区と長田区に走らせたことを記憶している。

 目覚めた時に、簡単に多くの犠牲者の魂に祈りをささげて、再び寝床にもぐりこんでしまった。しかし早朝から兵庫県を中心とする各地で、記念式典や慰霊祭や復興の町の現状と人々を特集した新聞記事やテレビ、ラジオ番組が目白押しだったようである。

 数日前はメモリアルデイには神戸に行って、震災メモリアルウォークに参加しようと考えていたのだが、今回は私は行けなかった。昨秋の新潟中越地震や昨年暮れのスマトラ沖地震によるインド洋大津波など、阪神淡路大震災の10周年の前に、再び大きな地震による被害が多くの被災者を出し、この10年の大きな教訓と意義がますます生かされるべき課題として高まっている。

 しかし私はのんきなもので今朝は、昨日当選が発表されたお年玉年賀葉書の4等当選の葉書と書き損じたたくさんの葉書の引き替え交換に、小雨の中を近くの郵便局を訪ねた。当選商品である切手シールをもらって、書き損じ葉書はハガキと切手に替えてもらったのである。

 その郵便局でご近所のIさんに久しぶりに出会ったのである。私は他のお二人の知人とと挨拶を交わした後、このご婦人と軽い会釈で挨拶を済ませたが、何故かIさんはお持ちになっていた、他人宛の封筒の中からご主人の自主出版の歌集を取り出されて、私に手渡されて「こんなところで失礼ですが、主人の歌集です。別の方に郵送しようと持っていたのですが、もらって下さい」とおっしゃるので「お言葉に甘えて」と言って、その歌集をいただいたのである。

 実は、「えらい叱られた」のは、このIさんだったのである。もう1年近く前になってしまったが、このご近所のIさんのご主人はパーキンソン病で長く患っておられ、車椅子生活を余儀なくされておられて、奥様であるIさんが日夜、献身的に介護とお世話をされていることを知っていた方のである。

 ある時、以前お見かけしていたご主人を暫く見かけないので、バス停付近で偶然お会いした時に「おじいちゃん如何ですか?}と挨拶代わりに声をかけたところ、Iさんから強く叱られたのである。
 「おじいちゃん、なんて呼ばないで!あなたのおじいちゃんじゃないでしょ。私の主人ですから」と厳しい表情と言葉で叱られて、それ以来ちょっとバツが悪く思っていて、幸いお会いすることもなく1年近くが経っていたのである。

 私にとっては深い意味もなく、外見上の高齢の男性だったので「おじいちゃん」と呼んでしまっただけなのだが、彼女にとってはご主人そのものであり、他人からおじいちゃんと呼ばれる存在ではない。その通りであり、私の軽率さと彼女のその時の心境を察することの出来なかった、うかつさに私自身深く反省させられた、ちょっとした事件だったのである。

 世の中に、おばさん、おじさん、おじいさん、おばあさん、またはおねえさん、おにいさん、おかあさん、おとうさん等の呼び方が当たり前の如くあるわけだが、自分にとっての間違いない存在としての呼び゜なは結構ではあるが、他人や見ず知らずの方に対して、うかつに軽率に勝手に、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶのは,慎重にして配慮を要することを、初めて知らされた、とっても貴重な体験であった。

 ごめんなさいiさん。失礼だったのは私の方です。なのに1年近く経って久しぶりに会った私に対して、失礼の数々をとおっしゃりながら、私がおじいちゃんと呼んでしまったご主人の歌集を下さった大きなお心に感謝すると共に、ゆっくりと歌集を読ませていただきたいと思っています。

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幼稚園児の絵画展

2005年01月16日 | 地域の話題
 正月も半月が過ぎた。今朝は地域の公民館の掃除に始まり、「とんど」と呼ばれる、正月のしめ縄飾りなどを近くの公園で、みんなで燃やしながら、民生委員さんたちのお世話で甘酒や善哉を振舞う行事があり、私も遅ればせながら駆けつけて、おぜんざいと甘酒を美味しくいただき、「焚き火」を囲んで、地域の人たちと新春のよもやま話をしました。

 その後、市役所の横のコミュニティホールへ出かけて、幼稚園児による絵画展を観ました。

 三歳児から五歳児までの市内8幼稚園の、園児たちのたくさんの作品が所狭しと並んでいて、なかなか見ごたえのある絵画展であり、私は新春の楽しみの一つとて毎年じっくりと時間をかけて鑑賞させていただいているのである。

 今年もほんとに時間を忘れる程、愉しい絵や表現の作品がたくさん並んでいて、すごく感動させられた作品に多く出会いました。

 今年、特に感動というか、関心を持って見せていただいた子ども達の作品に三つの大きなテーマがありました。

 ①ぞうさんやキリンさん等の特に大きく特徴のある動物を描いた作品に圧倒されました。子どもたちが想い想いの感性と目と体で、ぞうさんの体、足、耳、鼻を描いており、キリンさんの首の長さも、とっても印象的に描かれていて、迫力満点の子どもにしか描けないユニークな線と色と形の造形でした。

 ②身近にいる大人である、お母さん、お父さん、せんせい達を描いた作品は、意外と太い線やイラストっぽいものも多くありましたが、簡素な線で描かれたものも、しっかりと自分を見つめる大人たちの笑顔が表現されていて、とっても温かな作品になっていました。

 ③お芋掘りに出かけた時の「サツマイモ」を描いた絵は、個人、個人違う表情ではありましたが、紫色のとっても美味しそうなお芋のひとつ、ひとつに可愛い顔が描かれており、焼いもにして食べるには、ちょっと偲びがたい感じの作品が多くありました。

 他にも子どもならではと言った作品が、たくさん並んでおり、ひとつ、ひとつ、その作品を描いた子ども達に説明してほしいくらい、どの作品もパワフルでとっても暖かいユニークな主張があり、観ている私たちに不思議なパワーをくれるものでした。

 子どもの感性と表現力が、こんなにも自由に発揮されている幼稚園児の絵画展は、新春恒例の私の楽しみのひとつになっており、今年も充分満足することが出来る多くの作品に出会うことが出来て、大変嬉しく感じました。

 会場で出会った幼稚園のベテランの先生と若い2年目の先生とも、作品の感想を言いながら、お話を聞きましたが、先生方は子ども達が選んだ色で、子ども達個人、個人にある特色ある表現力と描き方を最大限尊重して、絵を描きたくなる環境を整えることに努めているとのことであった。

 願わくば、このような子ども時代のエネルギーあふれる表現力と全く大人では発想できない様なイメージの世界を、小学生、中学生になっても失わぬように、先生方も保護者の方々も、大切に育んでいただきたいと思ったのは、私だけではないだろうと思います。

 子ども時代の絵の数々を観ていると、全ての子ども達は天才ではないかと思うほどである。こうした彼等の感性と表現力は、これからの人生でも大切に保有し、生きる力、人間力として尊ばれるものとなりうる、とっても輝く宝物である。

 会場を後にして、さわやかな気持ちのいい風が、心の中に温かさと優しさを運んでくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになった。

 ありがとう。子ども達。ひとりひとりの幼児達の驚くような発想や想像力に、圧倒されることも多くあったが、子ども達の笑顔が浮かぶ作品にたくさん出会えたことに素直に喜びを感じて、家路に着いた。

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私の恩師、S先生。

2005年01月15日 | 感じたこと




 私にとって「恩師」と言える先生は、ただひとり小学1.2年生の時の担任だった女性のS先生だけである。

 幼稚園から、小学、中学、高校、大学と多くの先生方に担任や、担当科目の先生として出会っているが、他の先生たちには申し訳ないが「恩師」と言えるのはS先生だけなのである。

 現在S先生は91歳になられて大阪にいらっしゃるのだが、ここ数年の老人ホーム生活の間に、肺炎や病気を患われて、病気療養中であると聞いており、お体の具合が如何かと心配している今日この頃である。

 私たち1947年生まれは「団塊の世代」と70年代頃から称される様になった、いわゆる戦後のベビーブームの落とし子であり、小学校入学当時から人数はとっても多くて、一学級何と60人近くいたことを今も鮮明に覚えている。

 私はその中でも、とびっきり背が高かったので、いつも背の順番での整列は一番最後であり、教室でも一番後ろに座席があった。その当時はまだ木造校舎の教室には、木製の二人がけの机が所狭しと窮屈に並んでいた。

 だから、やんちゃ坊主たちの体の大きい子どもは教室の後ろの方で、結構先生に叱られるようなことや、いたずらをしたものである。S先生は教壇の前から大きな声で叱られても、なかなか後ろの座席までは来ることが出来なくて、時には教室の前の扉から一端廊下に出て後ろのドアから、も一度教室に入って直接注意をと先生が廊下に出た隙に、やんちゃ児童たちは教室の窓から校庭に飛び出して逃げるなんてことも稀にあったように記憶している。

 しかし、こうしたすし詰め状態の教室に、たくさんの児童がいたにも関わらず、先生と児童生徒との関係は、結構密にあった様に記憶しているのは何故なんだろうか。そこにS先生を「恩師」と感じる秘密が多く隠されているのである。

 私のS先生とのエピソードを2.3記すことにする。

 夏休みが終わった二学期の始業式の日、先生は大きなリュックを担いで教室に現れた。中から取り出されたものは奄美大島に行かれて、私たちへのお土産として持ち帰られたサトウキビの束だった。教壇の上で包丁で10センチ程度に切って全員に渡され「これがお砂糖の原料のサトウキビです」と。我々欠食児童は、サトウキビの繊維だけになるまで、その甘さを味わったものだった。

 また私がお正月の凧揚げでの扁桃腺から腎炎になり、自宅で療養中には男女の児童を連れてお見舞いに来てくれた。いろいろ病気や学校のことを話した後、お見舞いの土産にと、学級全員が描いた絵日記風の手紙の束、八つ切り画用紙の手紙を下さった。私はみんなが帰ってから、一枚一枚、友達の言葉と絵を眺めようとしていたら、その重みで手がだるくなったことを今も鮮明に記憶している。

 「S先生、私たち子どもたちへのたくさんの愛をありがとうございます」あれ以来50年近く続いている有志による同窓会の様な集いを、今年も先生のお誕生日、四月十日に出来ますようにと、先生のお元気な顔が見ることができますようにと心から祈る、今日この頃である。




 
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プレイリーダーって知ってますか?

2005年01月14日 | 日本の課題

 

 「プレイリーダー」って知ってますか? 今朝の京都新聞の朝刊の1面、朝日新聞なら「天声人語」と同じコーナー「凡語」に東京世田谷の羽根木プレイパークとその初代のプレイリーダーである、天野秀昭氏のことが掲載されていた.

 実は私も彼と同じようにプレイリーダーと呼ばれる立場で、京都の遊び場で80年から92年まで仕事をしていたので、天野さんの話や考え方は手にとるように理解もできるし、同じ仕事仲間として、今も心情的にエールをおくるひとりである。

 「プレイリーダー」とは直訳すれば「遊びの指導者」となってしまうのだが、実は学校や地域での管理的教育者ではなく、民間や行政など関わる背景は異なる場合があるが、子どもたちの遊びの可能性を最大限保障して、大人の規制の価値観や「危ない、やかましい、迷惑や」などとする抑止的力との敢えて言えば、防波堤的な存在として、大人の立場で子どもたちの遊びを最大限環境整備と共に自由に誘発させる先頭に立つ人のことだと私は理解している。

 私自身は大阪に本部を置く「財団法人プレイスクール協会」のプレイリーダーとして、京都の雑創の森プレイスクールと称する、子どもたちの遊び場で12年間プレイリーダーとして働いていたのだが、あれから25年、やっとプレイリーダーと言う仕事や存在が世間的に日の目を見る時が来たかと感慨無量である。

 私たちプレイスクール協会は、民間団体として77年から福岡、京都、東京国分寺でプレイスクール、プレイステーションなる専用の遊び場を設置して活動してきた。その当時東京世田谷の羽根木公園に、行政が初めて「冒険遊び場」と称する、子どもたちの遊び心を最大限保障し「自分の責任で遊ぶ」をモットーとしたエリアが設置れ、専任のプレイリーダーとして、その第一号である天野秀昭君が、文部省の外郭団体である、日本青年奉仕協会、JIVAのボランティア365プロジェクトのスタッフとして赴任していたのである。

 それ以来30年近くになるが、東京では世田谷、杉並、中野、墨田区などと小金井、国分寺などの三多摩地区などに、このプレイパーク運動は広がって、初代
羽根木のプレイリーダーになった天野秀昭氏は、その先駆者として今や、押しも押されぬ指導的役割を果たしているようである。

 何度も彼とは同じプレイリーダーとして、関東、関西の土地柄や運動的背景の違いはあったが、冒険遊び場的活動と、現代の子どもたちにとっての教育のあり方と地域、行政のあり方など、よく議論したり、話し合ったものである。

 今も彼は、子どもの遊び場活動の現場から、多くの子どもを取り巻く社会と学校や行政、そして親たちや教師たちにも的確な現場経験からの確信ある発信をし続けていると思われるが、私の方は14年前にプレイリーダーとしての現場をリタイアして地方議会議員になったため、現在は行政施策や教育分野での問題や、考え方において、プレイリーダーの存在の意義や、自由で遊び心を発揮できる「冒険遊び場」的な公園の設置も提起している。

 子どもたちが、幼児、児童期に思いっきり自由に遊び心を発揮できる、「遊び場とプレイリーダー」の存在は、これからの次代を担う、子どもたちの成長には、とっても有意義なサポートをするだろうし、学力偏重や学歴社会の中にあって、本当に心豊かな人間関係の大切さと遊び心や想像力,創造する愉しみを身につけた大人の存在は欠かせないと確信している。

 子どもたちよ、もっと遊べ。今野山を駆け巡ったり、いろんな物を作ったり、お話の世界やファンタジーの世界に夢と想像力を拡大しなければ、いつあなた達は人間としての素晴らしいイメージとエネルギーを蓄積したり、創造したりできるのでしょうか。今この時を大切に。PLAY FOREVER!



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河村愛ちゃん。

2005年01月13日 | 感じたこと


 「河村愛ちゃん」と書けば皆さんは、きっと若くて元気な今をときめく「愛ちゃん」ブームの宮里あい、福原愛等のスポーツ選手か、若いアイドルやタレントを連想されるのではないかと思います。
 ひょっとしたら実際に「河村愛」と言う名の芸能人か著名人がおられるかもしれませんが、私がここで勝手に紹介させていただく「河村愛ちゃん」は大正6年生まれの87歳の元気なおばぁちゃんである。

 10年以上になるが、ちょっとしたボランティアとして社会福祉協議会の事業で主に独居老人のための給食サービスの配送をしており、そのお届け先の民生委員さんや直接手渡しする独居の高齢者と親しく言葉を交わす機会があって、その中のお一人である「かわむらアイ」さんとは、10年来の友人と言った感じで、たった月2回だけだが、必ず言葉を交わす間柄なのである。

 昨日も、だいぶ寒さを感じる夕刻前に田舎の一軒家に70年近く住んでおられる「河村アイ」さんを訪ねた。毎回10個足らずのお弁当を配送する中で、心待ちに待っていて下さる高齢者の方々の顔を浮かべながら、社協の調理ボランティアサークル「あじさい」の女性たちが、心を込めて作って下さった季節感のある旬の食材が彩る暖かい弁当を届けられて幸せである。

 その上、待っておられるおじいちゃん、おばぁちゃんたちの感謝の言葉と笑顔や一言に出会うこともあって、二重、三重の喜びとなることが多いのである。この「河村アイ」さんは、「河村愛ちゃん」と呼ぶにふさわしい明るくて元気なおばぁちゃんなのである。

 「河村アイ」さんは、たった一人の弟さんが30歳の若さで戦死されており、今も玄関の扉の上に戦没者遺族のシールが貼ってあった。彼女は「弟は嫁さんも決まっとったが召集が来たので、嫁になる人がかわいそうだからと結婚せもずに、出征して死んでしもて、かわいそうだった」と今も弟さんのことを偲びながら、彼女自身は独身で戦後60年を生きてこられた方である。

 しかし私は、この「河村アイ」さんに、いつも励まされている様な気がしている。お弁当を届けると、お宅におられないこともあり、道を隔てた畑におられたり、藪を越えた隣の畑でのんびりと農作業をされていたりするのだが「兄ちゃん、いつもありがとうね、珈琲でも飲んで行かんかい?」と声をかけてくれる。

 家は古い和風の家だが、奥に仏壇があるのが見える他は、玄関口や台所と思われる生活スペースには、物があふれていて、一人暮らしの60年を髣髴させる感じである。

 夏場に伺うと何ともあられもないと言っては失礼だが、風呂上りか暑いからか、昔のシュミーズと言った方がいい様な姿で出てこられ、ご年配とは言え女性であるので、こちらの方がどきまぎしそうになることもある。しかし、いつも笑顔で少し耳は遠くなられたので、大きな声で話すように心がけているが、昔は間違いなく、皆さんの想像を遥かに越えた、その時代のアイドルになってもおかしくないお元気で明るい女性だったことが、今も想像できるような方である。

 現代の世の中は、暗いニュースやいやな出来事が多いが、私は「河村アイ」さんと、月に2度ほど弁当を届ける短い時間に,元気で明るい顔を見て「寒うなったから、風邪ひかんようにな」等と声をかけながら「どっこい生きているよ」と言わんばかりの彼女の生き様に、励まされている自分に気づいている。

 どうか河村アイさんに、何時までか分からないが「あじさい」のお弁当をずっと届けられるように、私自身も健康に気をつけて風邪もひかずに出来る限り、配食ボランティアを続けられたらいいなぁと思っている。
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12月議会一般質問

2005年01月12日 | ちょっと可笑しいよ

 地方自治体では原則的には毎年3,6,9,12月に各々約3週間ほど定例議会が開催されています。緊急案件がある場合は臨時議会も開催されます。1年間の議会出席日は所属委員会などによって異なりますが、私の場合で約60日です。
 
質疑や提案などのための庁舎内調査や事情聴取、現場確認などに4.50日は市役所や関係機関に行きます。また出席を要請される諸行事が年間、やはり2.30回あるのが普通の議員生活ではないでしょうか。

 そんな中で一番の仕事は何と言っても定例議会ごとの一般質問ではないでしょうか。行政に対して市民サービスや行政課題について質疑応答するのが議員の責務であり、自分の所属する常任委員会を通しての議案質疑や事務調査と予算、決算特別委員会での議論も大切な仕事だと思っています。

 また議員の活動の仕方等は個人によって異なりますが、私の場合は市民の要望、提案、苦情を聞いたり、組織や党派に所属していない地方議員のネットワークの勉強会や研修、講演会などへの参加と先進自治体へのテーマを決めての研修、視察が10回ほどあります。

 参考までに私の昨年12月の一般質問を、今年2月1日発行予定の議会報の原稿から紹介します。

 「ゴミ減量・非燃焼化の展望は」
       「広域的に平成28年までに検討」

 ①ゴミ収集処理は当面、甘南備園を拠点に市独自で継続するが、ゴミ減量化と非燃焼化の推進、焼却炉の限界時の対応策、枚方第二清掃工場への焼却委託、ダイオキシン抑制と3R推進等、長期的施策の展望と計画は。
 経済環境部長 粗大ゴミ有料化や焼却ゴミ減量化、平成28年以降の焼却等処理施設を検討。
 市長公室長 枚方市等広域的な対応を認識。
 助役 12年の猶予期間に広域的、技術的対応。

 ②まちづくりに同志社大学等の知的財産と人材の活用を。学生、市民の協働、連携と支援が必要。
  包括協定の意義と展望。連携事業協議会に市民、学生の参画。積極的相互プログラムと参加しやすい仕掛けを。
 総務部長 大学等との連携に協定締結。協議会は市民、学生なし。HPリンクを検討。窓口新設。
 
 ③暗くて狙いやすい町だと暴行犯が供述した。安全で安心して歩ける町に。住宅街の暗さ、バリアフリーの実態を調査し街灯増設と段差解消と補導整備を年次計画で。犯罪や危険防止へ、弱者の視点で警察、関係者と検証し改善を。地名表示、道路案内板設置を。
 経済環境部長 各地域、自治会との間や通学路を点検し設置。防犯は警察、防犯協会と協議。

 ④調整区域の違法営業店舗、花住坂山手ガーデンと薪府道沿い毎寿司等の指導撤去を。危険な造成や業者行為、同志社住宅裏山の危険回避や大住城山硫酸ピッチ撤去後の産廃土壌除去など市、府の対策強化を。土砂採取、埋め立て規制強化と産廃など不法投棄対策の徹底を。
 経済環境部長 行為者に府と撤去指導。土砂採取等の規制検討。不法投棄防止策を強化。
 総務部長 天神山は土砂撤去で安全性向上。
 建設部長 府と連携指導、市には権限がない。

 以上、字数の関係で簡略に報告しました。
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おしゃべりサロン!

2005年01月11日 | 地域の話題


 今朝は今年最初の地域のおしゃべりサロンにお邪魔した。

 「おしゃべりサロン」とは、高齢化する地域社会にあって、日頃の生活では、なかなかいろんな人と関わり合って話したりすることが少ない高齢者や話したい人たちが自由に集って、愉しく時を過ごせたらとの願いで始められた、民生委員がお世話役の地域公民館での集いである。

 私自身も何れは高齢者の仲間入りをするわけだが、現在の地域社会での諸問題の中で、こうした活動というか、気軽な寄り合いの場が月に2回持たれていることに大変な意義と喜びを感じている。

 4年前の5月から始められた集いだが、回覧板などでお知らせしても、なかなか人が集まらない時期もあり、お世話をされている方々の中でも、止めようかと検討されたこともあったと聞くが、続けていただいて本当にありがたいと思っている。

 今朝も10時から12時過ぎまで、世話役のみなさんや保健士さん、それにパソコンを使って大きな文字で室内のスクリーンに、おしゃべりの内容や歌詞を打ち出していただける要約筆記の女性がふ二人参加されていた。

 いつも数人の高齢の方々がご参加になり、最近は80を越されていると思われる地域の男性がフルートを持ってこられて、皆さんと懐かしい歌の数々を歌われているとお聞きした。
 今日も早速に、抹茶を美味しいアジャリ餅と共にいただいて、サロンは始まった。

 少し遅れてお見えのIさんが素人のフルートですよと謙遜されながら、毎回ご自分が歌の選曲をされて、古い歌やわからない歌詞は図書館などでお調べになって、パソコン用と参加者用を用意されてくる様子だった。

 今日も保健士に血圧測定などをしてもらった後、簡単な健康体操をみんなでした。月に2回だけだが愉しみにされているご高齢者もおられて、その都度健康チェックや軽い体操なども、皆んなで愉しくやれる。
 私たちと同世代、同年輩の女性が主に交代でお世話をしていただいている様で、4年近く続けてこられたようである。

 お近くから来られていたご年配の女性たちは、お茶やお菓子を手にしながら懐かしそうに、また初めてこの歌は歌います、などと言いながら、素敵な笑顔でIさんのフルート伴奏に合わせて歌われていた。
 「雪やこんこ」「子狐こん」など知った歌もあったが、この歌は何時頃の歌かな?と思うような古い歌もあった。

 その歌の題名は忘れたが、とっても心にしみる美しい歌詞が綴られており、世話役の女性のひとりは自ずと涙されるほどであった。Iさんに伺うと昭和34年の歳末助け合いの歌として作られた歌だとかで、数えて見ればお世話いただいた女性が小学6年生頃の歌だと笑っておられた。1959年今から45年ほど前の歌である。でもこの歌が一番新しい歌で、他の歌は昭和初期か大正年間から歌い継がれた文部省唱歌などが中心であった。

 暫く時の経つのを忘れて歌っていると、なにやら冷えるねと思ったら公民館のエアコンは百円玉で1時間自動運転する様にセットされたものとなっており、30分以上前に切れていたのであった。また小さな厨房にお茶の追加のお湯を取りに行ったら、やかんが火のついたガス台にかかっていて既にお湯はなく、もう少しで穴があく寸前だった。
 
 参加者もお世話役も歌やおしゃべりに夢中になっていたせいもあるが、中高年の地域住民が全く歳の差など関係なくお互いに注意を要する年代になっている様であり、誰かが誰かを世話する関係ではなく地域の隣人たちがお互いに思いやりと親切な心で日頃から接して、お互いの日常生活を少しでもゆとりと愉しいものにするため、こうした集いが大切であることをいみじくも知らされたようであった。

 今年の多くの年賀状にも、地域でのお年寄りたちとのくつろぎサロンや寄り合い場をつくってお世話していると言う同年輩の女性の言葉が2つ、3つあったと記憶している。

 本当の意味での地域福祉や在宅介護は、当然行政やサービス事業者に委ねなければならないことも多いが、こうした身近で一番よく地域を知る中高年の元気なものが、無理のない自然体での地域活動として、気さくに寄り合える、お茶できるサロン風の場を継続的に催すことが大切だと痛感させられた。

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初釜

2005年01月10日 | 地域の話題


 昨日、京都東山黒谷西翁院で茶道家元庸軒流の初釜があった。
 
 茶道家元としては裏千家、表千家、武者小路千家、藪内宗家など有名だが、千利休の曾孫の代に当たる、藤村庸軒が始めたとされる「庸軒流藤村正員派」の初釜にお邪魔したのである。、

 黒谷西翁院にある「淀看の席」は、室町時代からある由緒正しい有名な歴史の縁を感じされられる、すばらしい茶室である。

 私は十数年前暫くの間、先代の宗匠宮川祐宏氏の時代に、週に一度お稽古に通っていた縁で、今年もご案内をいただいたので夕刻になったが、愉しみにしながらはせ参じたのである。

 気温が零度近くに冷え込んだ京都の昨日、お待ち合いの温かな部屋で、久しぶりに当時の稽古仲間と愉しく歓談した後、遠くにかつては本当に淀川が見えたと言われる、お庭からの景色を眺めながら草履を履いて進み、高くそびえた樹齢百年以上の杉の木のふもとの蹲で、手と口を水であらためて小さなにじり口から茶室に入った。

 初釜最後のお正客は、現在庸軒流茶道のしきたりやお手前を教えて下さっているO氏が務められ、当代の宗匠がお詰めを務めていただき、私も含めて6名が同席させていただいた。

 何とお手前をしていただいたのは、ここ数年お稽古をされているアメリカ人の女性ローリーさんであった。古き日本の伝統的茶道の初釜のお席で、古き良き時代を偲ばせる著名な「淀看席」で、私は外人女性のお手前で二服もお茶をいただいたのである。

 初釜のお菓子の定番は、京都のお正月の銘菓「花びら餅」であり、お干菓子と共に美味しくいただいた。

 お抹茶をいただいた後、お抹茶茶碗、お茶釈、お棗を拝見したり、いろんなお道具や掛け軸、お交合、お花をじっくりと拝見すると、全てが簡素でありながら、淀看の席のお茶室の荘厳で質素な建た住まいにマッチして、全てが美しく思えた。

 久しぶりのお茶の席に、新年早々の初釜の席に座り、美味しいお茶を二服もいただけて、自分の中にある茶道への思いと、お抹茶好きの嗜好を改めて喚起させられ、機会があればしっかりと再び、お茶を習いたいと思った。

 やはり日本人なのだろう。外国の女性のお手前に少し戸惑いながら、やはり日本人の心である茶道を、ちゃんと日本人が習得し、作法だけでなく心からのお茶の美味しさと背筋を伸ばしたお手前を思いだしたい気持ちである。

 私の母は現在八十八歳の高齢だが、裏千家の茶道教師として永年自宅でお茶を教えていたので、私自身の幼い頃からの経験と環境からくるDNA・・?に、間違いない日本のお茶に対する強い嗜好と愛着があることを改めて確認し、これからもお茶をたしなみ、愉しんでいこうと思う良いきっかけとなったようである。

 


コメント (1)
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