ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

人と出逢うこと。

2005年01月21日 | 感じたこと
 「であい」は人にとって欠かせない物事の始まりである。喜怒哀楽があり、恋があり、遊びがあり、学びがあり、仕事があり、別れもある。

 私は人と出逢うことが大好きである。「出逢い」と敢えて記すのが好きである。「合う」「会う」「遭う」など「であい」は様々であるが、やはり「出逢い」たいと思っている。決して「逢瀬」などと記される男女の偲びあいの出会いをイメージするのではなくて、偶然や突発的な出会いでも、そこに必然的な人と人の関係があるからである。

 今までの人生で、やはりとっても印象に残る出会いがいくつもある。しかし人に語れば、多くは「そんな偶然の出会い」もあるんだね、と普通は言われてしまう。しかし僕には偶然の出会いはなくて、意識するしないに関わらず、必然的な「出逢い」ばかりであると信じているのである。

 私の敬愛して止まない某国立大学の名誉教授であるO先生は、「それは全て、歴史的必然性なのだ」とおっしゃる。私も最近特に、そう思う様になった。

 まさにこの世に生まれ落ちた時から、人の人生は「出会い」の連続であるが、私にとっても多くの場合は根当たり前のことだが,産みの母との出逢いがあったはずである。中には不幸にして、産みの母を何らかの理由で全く知らなかったり、覚えておられない場合もあるだろうが、人は赤ん坊としてこの世に生まれ、実母との出逢いに始まる人生の長くて短い旅に出ているのではないだろうか。

 私にとっての「出逢い」は両親、兄弟姉妹、親族にたぶん始まり、幼稚園の先生、小学校、中学校の先生、そして多くのクラスメイトや近所の友達と家族達。そして、その行動半径が広がるに連れて、同じ学校や町内だけでなく、遠い町に出かけたり、いろんなきっかけで知り合った人たちとの出逢いが増えてくる。

 特に私の場合は、20代から30代にかけて、フォーク系の音楽関係の事務所に勤務し、自らも音楽出版社を自営した関係で、全国を若きミュージシャンたちと共に旅して、出逢った地元のひとたちや観客達、また30代から40代にかけては、子ども達の遊びの活動に関わり、主に西日本各地を「遊び場情報誌」の取材で訪れて、また多くの活動をされている人たちと出逢ったのである。

 今、50代半ばを過ぎても、毎日のように出逢いを求め、また出逢いの喜びをと機会あるたびに車で走り、また地方都市に行くチャンスがあれば、その折に旧知の知人を訪ねたり、また新たな始めての出逢いを経験したりしている。

昨日も大阪の実家に様があって朝から車で行ったのだが,、帰路の途中に昔お世話になったF氏のことを思い出して、今お住まいの近くを通るのでお寄りしようと、電話したしたところ、ご本人が少し調子がよくないとのことで、お大事にとお見舞いの言葉と、また春にでも伺いますと告げて今回は会うのを断念した。

 しかし私の住む町に近づき、また久しく訪問していないH氏ご夫妻のことを思い出し、突然だったが寄って見た。幼児の頃から知っているお子さん達も、それぞれ中学生、高校生と成長されていたが、お言葉に甘えて、ご家族の夕食の団欒にお邪魔してご馳走になって、いろいろ刺激的なお話を伺い、私もいっぱい話した。

 今月末の小さな仕事の旅路でも私は時間が許せば、多くの知人、友人との再会や、また新たな出逢いがあるのではと楽しみにしているのである。

 人は人と出逢うことなくして、人生と言うことはできないのではないだろうか。人それぞれが生まれ持った個性と育ち、仕事や趣味や仲間の環境を通して、多種多様な生き方をされている。

 自分の人生にとって、いくら欲張っても、ひとりの人生の限られた経験の中での思考や想像には限度があるが、他人の人生や経験を通して、多くの体験的思考や示唆を与えられることが、出逢いの楽しさを増幅させてくれるのだろうと思っている。

 ぜひ、これからも人と出逢うためのエネルギーだけは惜しまず、また「来るもの拒まず、去るもの追わず」の受身的出逢いの人生ではなく、自分から積極的に出逢いに行く人生を送りたいと思っている。

 それが私の生きる道、それが私らしい出逢いの哲学であり、多くの友人、知人、今まで出逢った人たちに感謝しながら、これからも多くの人たちと再会したり、新たに出逢いたいと心から願っている。

 人生は人と出逢うための旅である。
 
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