ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

見えない物を見る。

2005年01月30日 | 感じたこと

 新しい年が明けて、早や1月が終わろうとしている。年月の経つのは、ほんとうに早いものだと思う。

 今晩から明日にかけて、大陸の寒気団が西日本にも侵入してくる模様で、ここ2.3日と違って、日中の最高気温も10度近く下がり、各地で大雪も予想されるような本格的な「冬将軍」が到来するらしい。

 私は2月の寒い季節になると何故か必ず思い出すことがある。それは学生時代に体験したことである。

 ある朝、その日はとっても寒い日であったが、街中では珍しくどんよりと曇った天気に、もやと言うか、霧のような蒸気が蔓延していて、2.3メートル先が見えない程で、道行く人々も不安げな面持ちで、行き来を始めていた時間であった。

 いつものバス停で、いつものバスを待つ数人の学生、通勤客の列の中に私もいたのである。しばらく経っても、いつものバスがやってこない。いらいらし出した中年の男性が「何時になったら、来るんや!」と半ばあきらめ声でため息交じりで口に出してぼやかれていた。

 その時である。少し前にたたずんでおられた女性が、よく見ると白い杖を手にしておられるので視覚障害者、目が見えない人の様であるが、その方が「大丈夫ですよ、バスはそこまで来てますから」とおっしゃったのである。   

 はじめは何のことかと思ったが、彼女にはバスの排気音なのか、エンジン音なのかは定かではないが、いつもの大型バス特有の音が確かに、バス停に近づいてくるのが感じられた、いや聞こえていたらしいのである。一瞬狐につまされた様な空気が流れたが、暫くして大きなバスの全景と音が迫ってきて、その事実が全ての停留所で待つ客には分かったのである。

 その当時は、現在のようにバス停に、バスの接近を知らせるGPS等による表示板などあるはずもなく、
目の見えないであろう彼女以外の誰もが、今か今かと「見えないバス」を待っていたのである。

 しかし、彼女には「見えていた」のである。つまり私達健常者である、見える者には見えていない物が、
視覚的には見えていない障害を持った人には、見えていたという驚くべき事実を、初めて知ったのである。

 私達は、見えているつもりで、見えていない物もたくさんあるし、たとえ見えていたとしても、自分の関心や興味のないものは、見えていないも同然かも知れないのである。

 私達の五感、あるいは第六感も含めた感覚、能力は、ほとんどが生まれながらに、与えられた能力の様に思っているが、肉体、生物学的には見えたり、聞こえたり、感じたりしているはずの現象や事実を、必ずしもしっかりと認識できているかと言うと、必ずしもそうではないのではないだろうか。

 日常生活において、私達が認識して、何不自由なく生活しているように思っている場合がほとんどだが、
多くの自然現象に始まり、季節の移り変わりや人々の所作や行動や言動も含めて、多くの場合が自分的な見方や感じ方というフィルターを通してしか見たり、聞いたり、感じたりしていないのではないかと教えられたのである。

 いつも全身全霊を尽くして、見たり、聞いたり、感じたりすることは不可能に近いけれども、本当に真剣に必要を感じた時には、しっかりと見て、聞いて、感じなければ、本当の情報、事実を感知すること困難なのである。

 見ることと、聞くこと、感じることは、そのほかの五感、第六感もあわせて、総合的にリンクして情報をキャッチするためのツールのひとつに過ぎないのである。だから私達は、目を研ぎ澄まし、聞き耳を立て、時には全身全霊を集中して、物事に立ち向かったり、情報を感知する努力を怠ってはならないのである。

 まだ私は「見えないバス」が「もうそこまで来てますよ」と言えるだけの感性を持ち合わせてはいないことを改めて確認し、冬の寒い朝の出来事から学んだ、自分の至らなさ、いい加減さ、集中力のなさを自認しつつ、日常生活と人間関係に対処しなければならないと思っているのである。





 



 
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