大阪府知事と大阪市長のダブル選挙の結果、大阪維新の会を率いる橋下徹氏が大阪市長に、また松井一郎氏が大阪府知事に圧倒的な票差で当選したことは、どちらに投じたかの違いはあっても、大阪府、大阪市の有権者ならずとも驚きなのかショックなのか当たり前なのかは異なっても大ニュースとなった。
今日の毎日新聞の夕刊の一面に「兼聴の姿勢が大切」であるとする大阪商工会議所会頭の佐藤茂雄氏の談話からとった見出しが掲載されていて、私にとっては「兼聴」という言葉を目にしたり耳にしたりすることが今までなかったので、国語辞典を引いてみたのだが、小学館の新選国語辞典には「けんちょう」としては掲載されていなかった。
しかし、大阪維新の会の「大阪都構想」や「役所改革」を進めるにあたっての、「民意」が今回の選挙で示されたという趣旨の発言が橋下新大阪市長からは強調されていたのだが、果たして選挙民でもある大阪府民、市民の全てがこの構想や改革案全てに賛同しているのかと言えば決してそうではあるまいと思うのである。
つまり、大阪府知事選挙では200万票の得票を得た松井一郎氏に対して倉田候補も120万余票、共産党の梅田候補も30万以上の票を獲得していたし、橋下徹新大阪市長の獲得した75万票に対して、対抗馬の現市長である平松邦夫氏も52万余票を獲得している現実を見るといずれも6割には少し満たない過半数の票を獲得したに過ぎないのである。
でも、新聞各紙もテレビ各局も、大阪維新の会の圧勝、ぶっちぎりの勝利の如く報道しているのが現状なので、松井新知事については既に選挙当日の11月27日から任期が始まっているので、今朝の初登庁という形であったが、橋下新市長は任期が12月17日からということで、あと20日足らずは平松氏が市長職にとどまっている状況下で、次々と新しい首長としての施策、方針などが先走り気味に報道されつつある感じである。
いずれにせよ、新府知事ならびに新市長については、選挙結果での当選には間違いはないのだが、「当選すなわち民意」という短絡した発想や一方的な思いで、自らの主張や政策を断行してもらいたくはないと思うのであり、確かに首長としての方針や施策のベクトルは示された上での選挙を通じての当選、首長の座を獲得されたとはいえ十分な議論。すなわち「兼聴」を期待したいものである。
ところで、この「兼聴」という言葉の意味は簡単なことであるが、そまの真意は如何なものだろうかと思うのである。
つまり、「多くの人の話を聞く」ということは可能だと思うのだが、他人の話を多く聞くことで、ご自分の意見や意向、理念が変化したり変ったりすることってあるのだろうかと言うことである。
私のかつてのささやかな経験である「議会議員」としての仕事を通じて、議会での質疑はもとより、多くの委員会での質疑、討論、また関連する行政事務に関わる各種「審議会」や「委員会」に出席させていただき、大いに市民の立場からの率直かつ現実的な意見や感想、または相反する提案なども出させていただいた。
しかし、ほとんど、いや全ての委員会、審議会、協議会などの中での意見や感想も、「貴重なご意見をいただき、ありがとうございました」とする議長あるいはまとめ役の方の丁重なる謝意でもって審議や討論は終了させられた挙句、それでは事務局もしくは前もって用意されていた「結論」または「答申案」という文章が提案され、一同が「異議なし!」との声か拍手で承認されてしまうといった感じで、全て通過儀礼的「討論」「審議」であったのである。
結局、「多くの人の話を聞いた」とか、「市民や一般の方々のご意見も拝聴した」という形が必要なのだが、結論は既に決まっていて、「結論先にありき」といったケースがほとんどであり、いつもの通過儀礼としての儀式でしかない様な委員会や審議会、協議会だったと言っても過言ではなく、「聞いてあげた」、もしくは「聞きました」という既成事実を経過報告として示すだけで、内容は既に当局が示していた通りのままなのであった。
要するに、「兼聴」という形は当然大切なのだが、いくら聞いても、いくら議論したとしても、結論には変りはありませんと言った政治家や首長が大半なのであるから、よっぽどの強い要求、しかも自分の地位や立場がひっくり返る位の脅威にでも感じる反対意見や異なった意見がでない限り、多くの場合は「議論を尽くした」とか「痔間をかけて話し合った」という説明で終了してしまうものなのではないだろうか。
本当に「腹を割って話す」とか「相手の主張や立場を尊重して議論する」なんてことが可能なのかどうかは定かには分からないのだが、大抵の場合は「議論している」「検討していただいている」という形だけで終わると言った「形式的な民主主義」であって、実際の議論でより優れた、より住民本位の政策やプランが実現するといったケースは稀にしかないのである。
でも、やはり「兼聴を大切にしてほしい」としか言えない立場からの著名人たちの発言の真意は重く、橋下新市長と松井新知事には、十分なる時間をかけて多くの人の意見を真剣に聞いていただきたいとしか言いようのない思いしか現状ではないのである。
今日の毎日新聞の夕刊の一面に「兼聴の姿勢が大切」であるとする大阪商工会議所会頭の佐藤茂雄氏の談話からとった見出しが掲載されていて、私にとっては「兼聴」という言葉を目にしたり耳にしたりすることが今までなかったので、国語辞典を引いてみたのだが、小学館の新選国語辞典には「けんちょう」としては掲載されていなかった。
しかし、大阪維新の会の「大阪都構想」や「役所改革」を進めるにあたっての、「民意」が今回の選挙で示されたという趣旨の発言が橋下新大阪市長からは強調されていたのだが、果たして選挙民でもある大阪府民、市民の全てがこの構想や改革案全てに賛同しているのかと言えば決してそうではあるまいと思うのである。
つまり、大阪府知事選挙では200万票の得票を得た松井一郎氏に対して倉田候補も120万余票、共産党の梅田候補も30万以上の票を獲得していたし、橋下徹新大阪市長の獲得した75万票に対して、対抗馬の現市長である平松邦夫氏も52万余票を獲得している現実を見るといずれも6割には少し満たない過半数の票を獲得したに過ぎないのである。
でも、新聞各紙もテレビ各局も、大阪維新の会の圧勝、ぶっちぎりの勝利の如く報道しているのが現状なので、松井新知事については既に選挙当日の11月27日から任期が始まっているので、今朝の初登庁という形であったが、橋下新市長は任期が12月17日からということで、あと20日足らずは平松氏が市長職にとどまっている状況下で、次々と新しい首長としての施策、方針などが先走り気味に報道されつつある感じである。
いずれにせよ、新府知事ならびに新市長については、選挙結果での当選には間違いはないのだが、「当選すなわち民意」という短絡した発想や一方的な思いで、自らの主張や政策を断行してもらいたくはないと思うのであり、確かに首長としての方針や施策のベクトルは示された上での選挙を通じての当選、首長の座を獲得されたとはいえ十分な議論。すなわち「兼聴」を期待したいものである。
ところで、この「兼聴」という言葉の意味は簡単なことであるが、そまの真意は如何なものだろうかと思うのである。
つまり、「多くの人の話を聞く」ということは可能だと思うのだが、他人の話を多く聞くことで、ご自分の意見や意向、理念が変化したり変ったりすることってあるのだろうかと言うことである。
私のかつてのささやかな経験である「議会議員」としての仕事を通じて、議会での質疑はもとより、多くの委員会での質疑、討論、また関連する行政事務に関わる各種「審議会」や「委員会」に出席させていただき、大いに市民の立場からの率直かつ現実的な意見や感想、または相反する提案なども出させていただいた。
しかし、ほとんど、いや全ての委員会、審議会、協議会などの中での意見や感想も、「貴重なご意見をいただき、ありがとうございました」とする議長あるいはまとめ役の方の丁重なる謝意でもって審議や討論は終了させられた挙句、それでは事務局もしくは前もって用意されていた「結論」または「答申案」という文章が提案され、一同が「異議なし!」との声か拍手で承認されてしまうといった感じで、全て通過儀礼的「討論」「審議」であったのである。
結局、「多くの人の話を聞いた」とか、「市民や一般の方々のご意見も拝聴した」という形が必要なのだが、結論は既に決まっていて、「結論先にありき」といったケースがほとんどであり、いつもの通過儀礼としての儀式でしかない様な委員会や審議会、協議会だったと言っても過言ではなく、「聞いてあげた」、もしくは「聞きました」という既成事実を経過報告として示すだけで、内容は既に当局が示していた通りのままなのであった。
要するに、「兼聴」という形は当然大切なのだが、いくら聞いても、いくら議論したとしても、結論には変りはありませんと言った政治家や首長が大半なのであるから、よっぽどの強い要求、しかも自分の地位や立場がひっくり返る位の脅威にでも感じる反対意見や異なった意見がでない限り、多くの場合は「議論を尽くした」とか「痔間をかけて話し合った」という説明で終了してしまうものなのではないだろうか。
本当に「腹を割って話す」とか「相手の主張や立場を尊重して議論する」なんてことが可能なのかどうかは定かには分からないのだが、大抵の場合は「議論している」「検討していただいている」という形だけで終わると言った「形式的な民主主義」であって、実際の議論でより優れた、より住民本位の政策やプランが実現するといったケースは稀にしかないのである。
でも、やはり「兼聴を大切にしてほしい」としか言えない立場からの著名人たちの発言の真意は重く、橋下新市長と松井新知事には、十分なる時間をかけて多くの人の意見を真剣に聞いていただきたいとしか言いようのない思いしか現状ではないのである。