今年8月のとある日に、テレビ司会者として絶大な聴取率をかせいでいたといわれる元漫才師の島田紳助が突然の引退を表明し、「この程度で芸能界をやめなあかんねん」と言った迷言を残して去って以来、十月一日に大阪府の暴力団排除条例が施行されるに至って、全国47都道府県全てで、この「排除条例」が適用される様になっているというのである。
私たちの一般の庶民生活者にとっては、ほとんど何の関係や影響も感じるはずはないのだが、島田紳助が引退という決断をせざるを得なかったほどに、芸能界やスポーツ界では、その関係性とつながりについて、その後も多くの人や組織が問題視されるに至っているたいである。
特に芸能界と称される世界では、昔から地方での興業という形、営業の受け皿が、その地域の暴力団関係企業であったりする場合が多く見受けられたようだし、またスポーツ界にあっても日本相撲協会という名の相撲興業団体の地方での巡業や本場所も含むチケットの売りさばきやボクシング、プロレスなどでも、この種の組織的サポートで何とかやりぬいて来たという歴史があるたいなのである。
すなわち、他の業界にも見受けられると思うのだが、地方や初めての地域での興業、タレントやスポーツイベントの開催では、欠かせない協力団体、組織として君臨していたといっても過言ではないのではないだろうか。
特に昔の「歌謡歌手」と呼ばれる著名な人たちの興業では、まちがいなく地方のその種の関係者が当然の如く、チケットの売りさばきから、会場の設営、接待、送迎など、あらゆる場面に関わって、協力という状況ではなく、取り仕切っていたと言ってもいいくらいの状態であったと聞いているのである。
私もかつて、70年代ではあるが、芸能界の片隅とも言える、「フォークソング」と呼ばれる音楽の世界で、ささやかにも仕事をさせてもらっていた関係で、たまにはそうした関係者が関わっていると言われている現場に遭遇したり、そうした噂や実態を見聞きしていた関係者から話を聴いたこともあったのである。
芸能界やスポーツ界の興業面だけではないと思われるが、こういった関係者らしき人たちのことを「やくざ」と称して、俗に何故か「頬に手で斜めに傷」をイメージする形で、一般の人もその世界を指していると思われるしぐさや問題視はしているのだが、おおっぴらには「タブー視」されている場合がほとんどで、あからさまに話したり問題視することは少なかった様である。
また、現代社会でも多くの地方でのお祭りや花火大会などを中心に、「テキヤ」と称される、屋台や小さな興行を受け持つ人々の集団もしくはリーダー格が存在していて、そういった企画や場所を仕切っていると思われる場面がまだまだ存在していると思われるのである。
十数年前だったと思われるが、私の住む町の夏のささやかな花火大会でも、私が目撃したのは、数十件の屋台を出している店の主から、場所代?とでも言うべき「御代金」を徴収している「若者」がいて、それも手づかのままの現金を、布の袋に無造作にほりこんでいく姿は、まるでやくざ映画の一場面の如き実態だったと記憶しているのである。
このような実態を良しとせず、改めようという提案をしても、従来からのシキタリだとか伝統だとか言う表現で、今まではこうした習慣、やり方、手法が踏襲されてきたケースが多々あったのだが、ようやく全都道府県に「暴力団排除条例」なるものが制定されて、ようやく本気で、こうした「あぶく銭」を、ある種の習慣として、この種の団体に持って行かせている実態から脱却しなければということになっているのである。
しかし、表向きの暴力団ならびに暴力団とおぼしき組織や構成員への利益供与や付け届け、いわゆる「みかじめ料」と称される不当な虚業に対するお金の提供を断ったり、やめたとしても、それまでの人間的付き合いや伝統、歴史、習慣というかたちでの踏襲されるものが皆無になるとは思わないのである。
条例によれば、公営住宅入居資格、不動産取引、賃貸契約、事業契約、公共工事妨害排除なども含める、暴力団との「密接交際」を禁止し、暴力団関係者との「会食」、「ゴルフ」、「旅行」などを繰り返すことで、警察が「暴力団との密接交際者」と見なして認定し、公共事業からの排除や金融機関からの融資を出来なくするなどの制裁や、マスコミを含む公表がされることとなるのだが、実際はそれほど効果が出るとは思えないのである。
というのは、この人間社会、古今東西、いずれの世界でも経済的格差や人間の地位や立場による格差が存在していることは間違いのない事実であり、資本主義社会の根本的実態としての「弱肉強食社会」では、必ず「暴力団」と称するとか称されるとかは是々非々でも、そうした底辺での経済活動や表沙汰にはしない取引やケースが皆無になるとは言いがたいのである。
すなわち、いくら法律や条例で規制したり禁止したとしても、人間社会の裏で底辺で、困った人たちや助けを求めている人たち、組織に対して法外やアウトローと言われていても、仕事する人間、手を貸す人間が必要悪でも存在してしまうのであるのではないだろうか。
その人たちを私たちは排除したり差別的に見ることは出来たとしても、そうした社会構造下の事情、実態は形や見え方は変ろうとも無くなりはしないのだろうと思うのである。
ぜひ、自粛や形を変えて付き合うのではなく、きっぱりと縁を切る勇気と共に、その人たちの今後の生計や仕事、生き方のアドバイスや法的サポートも必要だと思うのである。
私たちの一般の庶民生活者にとっては、ほとんど何の関係や影響も感じるはずはないのだが、島田紳助が引退という決断をせざるを得なかったほどに、芸能界やスポーツ界では、その関係性とつながりについて、その後も多くの人や組織が問題視されるに至っているたいである。
特に芸能界と称される世界では、昔から地方での興業という形、営業の受け皿が、その地域の暴力団関係企業であったりする場合が多く見受けられたようだし、またスポーツ界にあっても日本相撲協会という名の相撲興業団体の地方での巡業や本場所も含むチケットの売りさばきやボクシング、プロレスなどでも、この種の組織的サポートで何とかやりぬいて来たという歴史があるたいなのである。
すなわち、他の業界にも見受けられると思うのだが、地方や初めての地域での興業、タレントやスポーツイベントの開催では、欠かせない協力団体、組織として君臨していたといっても過言ではないのではないだろうか。
特に昔の「歌謡歌手」と呼ばれる著名な人たちの興業では、まちがいなく地方のその種の関係者が当然の如く、チケットの売りさばきから、会場の設営、接待、送迎など、あらゆる場面に関わって、協力という状況ではなく、取り仕切っていたと言ってもいいくらいの状態であったと聞いているのである。
私もかつて、70年代ではあるが、芸能界の片隅とも言える、「フォークソング」と呼ばれる音楽の世界で、ささやかにも仕事をさせてもらっていた関係で、たまにはそうした関係者が関わっていると言われている現場に遭遇したり、そうした噂や実態を見聞きしていた関係者から話を聴いたこともあったのである。
芸能界やスポーツ界の興業面だけではないと思われるが、こういった関係者らしき人たちのことを「やくざ」と称して、俗に何故か「頬に手で斜めに傷」をイメージする形で、一般の人もその世界を指していると思われるしぐさや問題視はしているのだが、おおっぴらには「タブー視」されている場合がほとんどで、あからさまに話したり問題視することは少なかった様である。
また、現代社会でも多くの地方でのお祭りや花火大会などを中心に、「テキヤ」と称される、屋台や小さな興行を受け持つ人々の集団もしくはリーダー格が存在していて、そういった企画や場所を仕切っていると思われる場面がまだまだ存在していると思われるのである。
十数年前だったと思われるが、私の住む町の夏のささやかな花火大会でも、私が目撃したのは、数十件の屋台を出している店の主から、場所代?とでも言うべき「御代金」を徴収している「若者」がいて、それも手づかのままの現金を、布の袋に無造作にほりこんでいく姿は、まるでやくざ映画の一場面の如き実態だったと記憶しているのである。
このような実態を良しとせず、改めようという提案をしても、従来からのシキタリだとか伝統だとか言う表現で、今まではこうした習慣、やり方、手法が踏襲されてきたケースが多々あったのだが、ようやく全都道府県に「暴力団排除条例」なるものが制定されて、ようやく本気で、こうした「あぶく銭」を、ある種の習慣として、この種の団体に持って行かせている実態から脱却しなければということになっているのである。
しかし、表向きの暴力団ならびに暴力団とおぼしき組織や構成員への利益供与や付け届け、いわゆる「みかじめ料」と称される不当な虚業に対するお金の提供を断ったり、やめたとしても、それまでの人間的付き合いや伝統、歴史、習慣というかたちでの踏襲されるものが皆無になるとは思わないのである。
条例によれば、公営住宅入居資格、不動産取引、賃貸契約、事業契約、公共工事妨害排除なども含める、暴力団との「密接交際」を禁止し、暴力団関係者との「会食」、「ゴルフ」、「旅行」などを繰り返すことで、警察が「暴力団との密接交際者」と見なして認定し、公共事業からの排除や金融機関からの融資を出来なくするなどの制裁や、マスコミを含む公表がされることとなるのだが、実際はそれほど効果が出るとは思えないのである。
というのは、この人間社会、古今東西、いずれの世界でも経済的格差や人間の地位や立場による格差が存在していることは間違いのない事実であり、資本主義社会の根本的実態としての「弱肉強食社会」では、必ず「暴力団」と称するとか称されるとかは是々非々でも、そうした底辺での経済活動や表沙汰にはしない取引やケースが皆無になるとは言いがたいのである。
すなわち、いくら法律や条例で規制したり禁止したとしても、人間社会の裏で底辺で、困った人たちや助けを求めている人たち、組織に対して法外やアウトローと言われていても、仕事する人間、手を貸す人間が必要悪でも存在してしまうのであるのではないだろうか。
その人たちを私たちは排除したり差別的に見ることは出来たとしても、そうした社会構造下の事情、実態は形や見え方は変ろうとも無くなりはしないのだろうと思うのである。
ぜひ、自粛や形を変えて付き合うのではなく、きっぱりと縁を切る勇気と共に、その人たちの今後の生計や仕事、生き方のアドバイスや法的サポートも必要だと思うのである。