ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「きゅうたなべ倶楽部」

2010年04月25日 | 地域の話題
 地元京都府京田辺市に学校法人同志社の大学などがキャンパスを移転してきて、早や24年が経とうとしている。

 この同志社大学のキャンパスに通学するために兵庫県宝塚方面からJR福知山線から東西線、学研都市線経由で同志社前という名の小さな駅まで一応ひとつの線で結ばれているので、早朝から大学へと乗車した学生たちの内、何人かがあの忌まわしい尼崎電車脱線転覆事故の犠牲となって以来、5年の歳月が流れた。

 その事故があった2年前の同月同日の4月25日に、学生と市民の交流活動を主体としたNPO法人で、「同志社大学と京田辺市民のネットワークとして「きゅうたなべ倶楽部」が発足して、今日で7周年を迎えた。

 当時、私自身は縁あって、この町京田辺市に住んで23年を迎える市民の一人として、どうも学生さんたちとの関わりだけでなく、振興住宅地に引っ越してきた、所謂「新住民」のひとりとして、この町を住処として、この町を愛して活動し生きて行くためにも、何か足らない物足らなさを感じていた時に、地元京田辺でしか通用しない「地域通貨」としての「きゅう」をツールに学生や市民が多種多様な交流と出会いを経験できる仕組みを企てる団体としての「きゅうたなべ倶楽部」の発足は、大変うれしいニュースであり、早速元同志社大学生のひとりとして参加させていただいたのであった。

 私自身の同志社と京田辺との出会いは、何とも奇縁であったと言っても過言ではないだろうが、学生時代は産学協同反対との機運もあって、近鉄や住友金属などの大手企業との大学の連携や協力は、大学の自治や学究本来の純粋な目的がゆがめられて、企業の為の大学と成り下がる危険性ありという理屈で、学園中で反対の嵐が吹き荒れていた。

 その当時「田辺町」が何処にある町かは、大阪から一年生当時は今出川まで通学し二年生の秋には先輩の薦めもあって岩倉の寮に入寮した若者にとってはどうでも良かったのかもしれないが、全く知る由もなかった。

 それから月日が流れて、大学を5年間でフェイドアウト、すなわち中退した私は、しばらくして小さな音楽関係の会社に入社し、一年後結婚と同時に東京へと転勤し、8年間の東京暮らしをしていた。

 月日が経って、実の母も父を亡くして十年が経過し、年齢も65歳という高齢者の仲間入りをする時期に、一人息子としては、せめてもの親孝行と思って関西へと帰ろうと思案していた時に、先輩から『子どもの遊び場活動」のリーダーとして、現在の京田辺市への引越しでやって来たのが、同志社大学の移転先の「田辺町」であった。

 奇妙な縁とでも言うべきか、その町「田辺町」で、約十年後「議会議員」となって、三年前までの16年間、町議、市議として仕事をさせていただいたこともあって、より身近に同志社大学と京田辺市のリンクを考える機会が増えたのであった。

 心の故郷、学生としての母校が、ここに結びついて、より円滑なコラボが出来ればと、「きゅうたなべ倶楽部」に期待しているが、今後の関わり方と役割を再考する機会となった。
コメント (2)
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