まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

葷酒 山門に入るを許さず

2023-01-27 16:39:39 | Weblog

[クンは草冠に軍] 
臭い野菜(ニラ等)や酒を飲んでいる者は山門に入ることを許さない 
禅宗の山門に掲げてある。また「清風のいたるを許す」ともある
此れは排除ではない。陋規の礼である。これも無理なき尊重でもあろう。

     

  

   山田良政の墓 弘前市貞昌寺


ある意志


拙稿「請孫文再来」ついて   kindle版は「天下為公」

賢読50,000に届こうとしている拙稿は、当初、備忘録のつもりで陰蔵していたものですが、「萬晩報」の伴主幹と「蜆の会」の大塚寿昭氏のスタッフによって作成され見事に化粧を施されましたが、他人の目に供するほどの文体でもなく当初は゛恥ずかしい゛心地がしたものです。

そういえば手前味噌な例えで恐縮ですが、映画の場面でショーンコネリー扮する小説家が、「自分の為に書いた文章は,人に見てもらおうと書いたものより勝る」と、小説家志望の少年に説いています。

いつぞや夜半、再々読したという青年が来訪し「この文章は句点が多くていつまでたっても終わらない。どうしてですか?」と、正式な文学に触れていない小生を困らせたが、

「官制学歴も乏しく,学校では作文の時間に原稿用紙とにらめっこをしていたものだが、何時頃からか書き始めるとこんな風になっている。つねに明治の先輩に接していたからその感化かと思うが、しかし分かっている事は゛語り言葉゛ということだ。゛話し言葉゛ではなく゛語り゛という吾が言うことだ。いちど自らの言葉で「音読」してみたらいかがでずか」と応答した。

それは、泪を落としたり,肩をいからしたり、あるいは遠大な理想に空を見上げたりすることの繰り返しが、まさに師との語りだった。

すると青年は「請孫文再来」を日本語でなく流暢な北京語で私に聞かせてくれた。「私は正式な北京語でこの表題を発音するべきだ」と、熱烈に語り掛けてくれた。

あるときは名の有る会社の気骨のある会長が来訪し「全部読ませてもらいました」と、感想に添えて見識あるアジア観を披露してくれた。そして映画化の構想を語ってくれた。識者による製作委員会が設置された。

いまだかって無学者の゛難しい゛面倒な文体で、しかも見るものにとって過去の遺物にも考えられる表題は、たとえ遠大な意図や推考が添えられていても、たんなる手前勝手な思い出話としての備忘に過ぎず、不特定多数の見解に晒すことの恥ずかしさはなかった。

後の挿入である『はじめに』と『あとがき』はそのような意味での言い訳のようにも見えるのもそのためです。

また孫文の命日を発信日とした伴さんのご苦労と同時に、即日,上海のサイトから連載依頼があり一挙にその効果の多面性を認識したものです。

しかし、まだまだ書き足りないものもあれば、時を忖度して秘すべきものもある。師から請けた膨大な資料と体験備忘録は小生の非力と相俟って、あるいは熱狂と偏見の鎮まりが許されないアジアの現状を観つつ何れ入稿の時を待っているようだ。




                 




その偏見と熱狂は筍子の言葉の寸借だが、国家衰亡過程に現れる「行いは雑」「声楽は淫」といつた現象などの中ではなかなか表現が難しい事だということです。

『行いは雑』とは、一時流行言葉になった゛ながら族゛のようにテレビを見ながら勉強するといつた鎮まりのない考察や、『声楽は淫』といって音楽も言葉の発声も抑揚のない雑音のようになったり、錯覚した欲望を喚起させ男女の区別さえつかなくなるような状態である。

あるいは「五寒」に表されている亡国の徴は、ときには架空現実や作為的な映像視覚にその拠をおき、言葉や文書というものを軽薇なものと捉える民情を的確に表している。

『敬重』(敬う対象がなく、その価値さえ枯渇してしまう
)父母,子弟に敬もなく,感動感激の意味が単に驚き恐れとして錯誤するためわかり易い地位,名誉,学歴,財力、という何ら人格を代表しない附属性価値によって人物を観察するため統治バランスが崩れ調和が無くなる状態。

『内外』(国内や家庭が治まらないため視点や力が外部に向かってゆく)
価値観が錯交し国内でも家庭内でも調和が取れなくなると外来価値に委ねたり,外部の争い(侵略,紛争)を創作したりしながら外の世界に潤いの糧を求めたりするようになる。他国の高官との写真や褒賞、儀礼学位を国内向けに宣伝したりするのがその例である。

 『政外』(政治のピントが外れる)
国の民情と地政学的にみる地域の特徴との関係に作為的乖離を生じさせるような一過性の合理や論拠によって支配されてしまうような状態で、自らを範とする「教」と,世を経(治め)民を済(救う)う経済の「養」のバランスが崩れることによって欲望の赴く奢の「養」が優先され、「教」までもがその手段となってしまう。学歴,地位,財力とが一体の志向となり相(教,養一体となった先見ある宰相)の存在さえも枯渇してしまう。

『謀弛』(謀が弛(ゆる)む。秘すべき鎮まりが騒じょうとした世情になる)「はかりごとがゆるむ」情報化社会なのか処理能力の枯渇なのかは峻別すべきところだが、人の動向に興味を持ち垣間見ることで安堵する軽薄な民情もさることながら、緊張感が欠けた漏洩政治もその類である。

『女厲(ジョレイ)』(女性が烈しくなる)
母のつよさとは異なり女性の劣性が際立つことである。男のひ弱さもその因ではあるが、男女の別といった弁えが無くなり、その不調和は国家の基盤さえ揺るがすといっている。

「五寒」はこのような社会の゛際立ち゛に警鐘を与えてくれるが、はたして「どうするか」ということについては百家争鳴になり結論が出ないことも示唆している。はたして世界を駆け巡る情報や、たかだか人間の考える一過性の論拠や、はたまた科学的根拠といった臭九老の戯言に委ねることは、せいぜい歴史の一片にしかなりえまい。

せめて、高麗の種のように、歴史への感謝の稲穂となって広幡したいものだ。小生は「請孫文再来」を自身の秤として回顧しつつ、長(おさ)のあるべき存在を認識し、古今の栄枯盛衰にその思考の糧を求めなければ、恥ずべき拙稿に登場願った先人に応えるすべはないと考える。

賢読された方々とすがすがしくも爽やかな歴史を刻むためにも。





                 



2001年03月19日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄


 先週の3月12日は中国の革命家、孫文(1866-1925)の命日だった。1年前、寶田時雄さんの「請孫文再来」のホームページつくりをお手伝いし、めるまがとしてメルマガで連載することをすすめした。連載はすでに終わっているが、いまだにホームページには相当数の来訪者がいる。
 寶田さんは東京都板橋区でレストラン「GREENDOOR」を経営しながら、孫文を中心とした中国革命と明治後期から昭和初期にいたる日中関係史を生き様に据えている。日本が大陸を侵略したという歴史がある一方で、孫文の中国革命に多くの日本人が参画し、影になり日向になり支えていた歴史がある。免罪符ではない。寶田さんには「そういう歴史が現実にあったということを伝えておかなければ」という思いがある。

 ●脱亜入欧の厳しさ

 中国革命における津軽の山田良政、純三郎兄弟、熊本の宮崎滔天三兄弟はひと際目立った存在だった。特に宮崎滔天(1871-1922)は「三十三年の夢」(平凡社)という名著を残し、幕末から日本に芽生えたアジア主義の系譜を詳述している。犬養毅は政治家として、頭山満は精神的支えとして、孫文の歴史に度々登場し、三井物産もまた資金協力者として見え隠れする。日本がアジアだった時代である。

 明治国家が生まれ、近代を超克する過程で、思想的に二つの潮流があった。一つは「西洋に追いつけ」である。和魂洋才といいながらどんよくに西洋の文物を取り入れ、一方でアジア的なものを切り捨てるという「脱亜」の流れである。もうひとつの反対の流れは「アジアと共闘して西洋列強と対峙せよ」という主張である。

 明治政府の最初の課題は幕末に西洋列強から強要された不平等条約の改正だった。中国のWTO(世界貿易機関)加盟に当たって、先進国にグローバルスタンダードを強要されているここ数年の世界を取り巻く環境とはいささか状況が違う。

 弱肉強食の帝国主義が全盛だったから、列強の仲間入りをはたすまでのハードルは並大抵ではなかった。列強に認められるために必要だったのはまず「強兵」だった。軍事力で列強と並ぶためには「富国」は不可欠だった。

 富国のため数少ない輸出競争力を持っていた生糸産業の振興が図られ、その歪みとして国内的には「女工哀史」を生んだ。日本には大型艦船を建造する能力などなかったから、日清、日露戦争を闘った艦船はほとんどがイギリスやドイツで建造された。いわんやODAなども一切ない。だから日本は当時の国際金融資本から借金した。返済が出来なかったら、関税など国家機能の一部が担保として取り立てられる厳しい条件だった。

 財政から科学技術にいたるまで多くのお抱え外国人が日本の近代化に貢献した。貢献したといっても当時の内閣総理大臣をはるかに超える年俸を保証した。多くの国費留学生もまた先進国に学び、その次の世代のリーダーとして育てられた。ここらの日本をめぐる国際環境の厳しさは教科書的に「脱亜入欧」と一言で片づけらるようなものではなかった。

 そんな日本が第一次大戦で戦勝国側に立ち、棚からぼた餅的に世界の「一等国」の仲間入りをはたす。そして勝ち組として中国大陸にあったドイツの橋頭堡である山東半島の利権を手に入れ、太平洋に拡がる南洋群島を実質支配下に置くこととなった。明治日本を引っ張ってきた「アジアの国としての矜持」が大きく後退し、日本の慢心がここから始まる。





               





 ●届かなかった孫文の悲痛な叫び

 そのころ中国は辛亥革命で清朝を崩壊させたものの、統一を失った広大な大陸は各地の軍閥による分割統治が進み、それこそ欧米による草刈り場となった。日本はというとヨーロッパ諸国が欧州大陸で総力戦を戦っている最中に満州を中心に大陸での覇権を強化していった。

 孫文は1911年に辛亥革命に成功し、中華民国の臨時大総統に就任したものの、大総統の地位は翌年ただちに袁世凱に奪われた。孫文は広東を中心とした一地方政権を担っていたにすぎなかったことを思い知らされ、共産主義政権が生まれたばかりのソ連に接近する一方で、日本との提携の可能性も模索し続けた。

 今でいう当時の中国大陸の沿岸部は実質的に英仏に支配されていたこともあって、日本に頼ろうとする姿勢になんら不自然さは感じられない。少なくとも日露戦争に勝った直後の日本という国は植民地支配にあったアジア諸国にとってまばゆいほどの存在に映っていたことは間違いないからだ。

 だが世界の「一等国」に上り詰めた当の日本には、明治維新で不平等条約に悲憤慷慨した政治家もアジアとともに苦悩を共有しようとするステーツマンももはやいなかった。孫文の地方政権は欧米はもとより日本にも大陸を代表する勢力として認知されることは一度もなかった。

 孫文は亡くなる前年の1924年、神戸で有名な「大アジア主義」と題して講演し、日本にアジアの心を取り戻すよう呼びかけた。日本の聴衆に「ヨーロッパのように覇道を求めるのかアジアの王道を歩むにか」と問い詰めた。すでに日本という国家は大陸支配に向けてさらに一歩踏み出していたから、孫文の悲痛な叫びが日本の政治の中枢に届くはずもなかった。

 当時の孫文は満州における日本の利権に一定の理解を示していたのだが、日本という国家はそれに満足しなかった。イギリスの植民地支配の狡猾(こうかつ)さは間接統治の巧妙さにみられる。逆に日本の植民地支配はなんでも直接手を下さないと気に入らないという稚拙さがあった。

 歴史に「もし」はないが、当時の日本政府が、苦境にありながら中国民族のこころをつかんでいた孫文に肩入れしていたならば、その後の世界の歴史はどれほど変わっていたかと思うと残念でならない。日本政府が辛亥革命後に大総統に就任した袁世凱を交渉のパートナーとしたのは仕方がないことかもしれないが、群雄割拠後も北京の北洋軍閥に肩入れし、孫文は終生、日本政府から交渉相手とされることはなかった。

 

     

 

 

●革命前夜の日中関係史    

 津軽の山田良政は孫文の第一回目の蜂起となった1900年の「恵州起義」に参加して命を落とした。孫文の革命の黎明期に命をかけた日本人がいたということは歴史の救いである。山田良政の遺志は弟の山田純三郎に引き継がれ、さらにいとこの佐藤慎一郎に引き継がれた。中国の革命世代はこれらの日本人の名前をよもや忘れはしまい。だがそうした革命世代ももはやこの世を去った。

 戦前に日本が大陸を侵略した歴史を否定しようというのではない。1980年代以降のアジアの経済発展はめざましいものがある。今世紀アジアの中で先頭を走り続けてきた日本を追い越す勢いさえある。そんな中で中国革命に共感し身を捧げた日本人がいたことを語り継ぎたいと思う。

 興味ある方はぜひ「請孫文再来」キンドル版「天下為公」を訪れてほしい。





コメント (1)
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