まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「天下公為」とはいうが・・

2023-01-06 17:32:56 | Weblog

中華民族から国父と仰がれている孫文が好んで揮毫した「天下、公に為す」、それは中華民族への訓であり覚醒を促すものである。
「衣食足りて礼節を知る」とはあるが、当時の中国は英仏をはじめとする横暴なる干渉に唯々諾々と応じざるを得ない満州族(清朝)の衰退があった。それは香港割譲や治外法権がまかり通る居留地、あるいは不平等条約など国権の護持と経国治世が風前の灯となっていた。

人々は衣食も足りず、礼節のあるも知らないような、悲惨と形容するくらい混沌とした状況にあった。それは易旗革命にある文化圏の異民族とは異なり、白い色をした人間たちによる種の改良を含む、今までに味わったことが無いような危険な状態だった。

昨今のチベットや新疆ウイグルの問題は、漢族との軋轢であり、その間隙に入る欧米列強の侵入とあいまって、漢族は常に中心にあるべき大陸の支配族であるという考えから起きる悶着である。
孫文とて、韃靼を駆逐して満州族を万里の長城以北に追い払う、これが辛亥革命の誓詞であった。元のモンゴル族、清の満州族、みな北からやってきた。

「孫文は満州以北は吾、関せず」とロシア革命家ゲルショニに伝え、革命の協力を断っている。其の満州問題について桂太郎と東京駅の喫煙室で会談した折、「日本はこのまま人口が増えたら生きる道は何処に在るでしょう」と桂に問うている。

そしてこう続けた、「満州は日本の手でパラダイスを築いて欲しい。でもシャッポはシナ人だ。そして日本はロシアの南下を抑えて欲しい。いずれ許せるなら国境を撤廃してシナと日本が仲良くしてアジアを興そうではないか」との経綸を語っている。


                         



それが証拠に、孫文は其の約束を守るため、側近、山田純三郎、丁仁傑、蒋介石の三名を満州に派遣、しかも蒋介石は石岡という日本名で数回潜入して軍閥懐柔工作している。
顔を真っ赤にして「騙されました」と詫びる蒋介石の真摯な態度に打たれた、秋山真之、犬塚信太郎は「こんど何かあったら援助しよう」と応じた。
後の国民党領袖、蒋介石の実直な姿がそこに見える。

彼等は、あの袁世凱に宛てた「二十一か条」の作成に関わったメンバーであり、秋山は起草者といわれ、犬塚と山田は日本側で捺印している。

文は逸れたが、其の日中連携した辛亥革命だが、清朝が倒れとき孫文はハワイに滞在していた。しかし成就したときの宣言文には満蒙も勢力圏に入っていたため、孫文は裏切ったという話が流れた。側近の山田は、「それは孫文の真意ではない、権を獲た人間の高揚した宣言であろう」と述べている。

我国も同様な危機に直面した。
よく笑い話であるが、「近頃の若者は茶髪が好きで、色付きアイコンタクトまでしているが、日露戦争に負けていれば、今頃、爺さん婆さんまで金髪でマナコはブルーだ・・・」
それでなくても文化は易きに流れる、とくに消費プロパガンダに弱い女性は尚更のことだ

それは文化の模倣だが、あのころの先陣を切る兵士の戦闘は、動物的野生に還ったような戦い方をしている。たしか元も奪略、強姦を問わず、屠殺のごとく人間を劫火のなかで焼き尽くしている。阿鼻叫喚の様相とはかくなることを表すものだろう。
満州崩壊の新京では妻や姉妹が家族の前で強姦され、トラックで乗りつけるオンナ兵士は小作りの男子の襟を捕まえて荷台に吊り上げ兵舎に連れて行く。しばらくして戻されるが口唇梅毒になって顔面が融解してくる。男女の差はない戦渦の災いである。

世界史の中では、そんなおぞましい戦禍の様相がいたるところにある。
孫文が大書した「天下為公」という王道を謳っても、その経過には夫々の部分に種々の覇道が歴史に記載されている。かといって部分を取り出して、゛戦争反対゛といっても天下、つまり天と地の間の出来事を説明することは出来ないだろう。
時代背景や民族的性癖を踏まえ、あえて「公」を唱えなければならない孫文の意志は、まさに大向うを唸らせるに充分な革命大義でもあったようだ。

それは「大義を謳って利を貪る」ような、貪り官吏や失業対策事業の如くなった与野党問わず職業議員の選挙の言動とは異なり、それら権力を構成するであろう部位に存する人々に向けたものであり、類似した意志として聖徳太子の十七条に厳命する「公」に位置するものへの公徳心喚起と制御にあるようだ。

民衆の俗諺にみるように孔孟をはじめとする聖者、賢人の説は話(ハナシ)であり、逢場作戯の看板とするアジア特有の茫洋とした民智である。それは虐政、圧政のみに面従腹背を生ずるものではなく、彼等の云う天と地の間での真の自由を担保するものであった。
なぜなら天子様を舟に譬え、自らを水に例える、゛上善如水゛にいう水のような生き方を善なる方法として営みを愉しんできた。


             




水の性は、一滴の雫が渓流となり集合して大河となり、その間は万物に潤いを及ぼし、濁水は清水にも混じり、清水は濁水でも受け入れる。どんな容にも馴染み、そして大海に注ぎ、一端荒れ狂えば舟(皇帝)さえ転覆させる力を持ち、上気は雲となって雨を降らせる。つまり循環思想の倣いが水のような生き方の実利なのである。

ならば天然自然の世界にあって、人間という特殊性から導く「公」はどのようなことになのか、あるいはどのような姿を以って「公」を目的と出来るのか、もしくは反対に位置する「私」との調和を考えなければ、明確な「公」もしく現実的営みに於いての社会的公民の姿さえ想起できないだろう。

公とは人智を超えて創造主が描いただろう、天然自然と人間種の調和と連帯に必須な構成を表現する文字のように見受ける。譲る、分ける、つまり天然自然に対する「礼」のありようが成文化された公意の大局でもあろう。そこから振り分けられた多事多論はあろうが、それを基にすれば、゛人の情゛に潜在するであろう「他の厳存」を認知し、ときに自己を哀れむことこそ「公」の促す含意ではなかろうか。







孫文は純情で優しかった。肉体的衝撃を伴う革命戦火でも「私心」は無かった。そうでなければ賢明な明治の日本人が靖んじて吾が身を献ずることは無かっただろう。


「公」は稲を囲う「ム」(私)を「ハ」(分ける)、意もあるという
つまり国家なら集約した権力なり、自然の恩恵を民に分ける、ここでは革命なり国維の更新がその手段となるが、近頃は二分法のパブリック、プライベートと意味曖昧な解釈論が幅を効かせている。また曖昧な区分を近づけるために「セミ・・」も使うようになっている。これなどは私権優先に偏った知恵でもあるが、柔軟な応用性とは相容れない野暮な私見の類である。

孫文のそれは三民、五権を以って有効な経国を描く上で欠くことのできない、根本的あるいは基礎的条件である国の雰囲気を表す「風」の移風が念頭にあった。天地の間の潤いは「公」、つまり遍く行き渡ってこそ政策が遂行され、かつ差別があってはならないという政治の「理」(ことわり)を知らしめたメッセージでもあった。

それは単なる政治スローガンではなく、彼の生活態度、あるいは指導者としての矜持にも表れていた。つまり指導者が民を「養う」ことと、身を以て「教える」という、「教養一致」の姿勢にもよく表れている。

側近で仕えた山田純三郎はこのことについて、「いゃ・・孫さんには、皆参った・」と数々のエピソードを添えて語っている。

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