まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

台湾侵攻企図と日本人

2015-10-02 10:49:09 | Weblog

小泉進次郎氏  馬総統

 

外電ではチベットの軍事施設では台湾台北の総統府近辺と同じ規模の構築物を作り、人民解放軍による侵攻作戦訓練が行われているという。

総統府を取り巻く道路、外交部などの政府関係の建物など、精巧に模写された建物群がつくられ、空陸による軍事演習が行われていると、伝えている。

 

米軍も中東の市街地に模した構築物をつくり演習している。ソビエト連邦(ソ連)当時は米国の某都市が精巧につくられ言語は英語、生活は米国調で、ファッションも似せていた。

日本も精巧さでは負けていない。軍事基地ならぬ遊園地、デズニーランドだ。システムが精細なマニュアルとして、入園者も米国流に慣らされる。米国でさえ採用しない理念を持った憲法でも順化応用すれば、このような国になるとモニターされた日本だが、デズニーなどは容易いものだ

 

中山記念小学校 台北

 

 

本題から外れたが、標題が現実味を帯びている。

気が気でないときにはどうするか・・・

逢場作戯」が今までの行動だ。その場その時に応じて演技することだ。

また、弱いものが強いものを倒すのは「謀略」がある。

最期は知らん顔をする。刺激に鈍化する。あの北京の渋滞で横道から出ようとしても一瞥もしないで車間さえ空けようとしないで、まっすぐ前を向いているドライバーのようにだ。

 

米軍と共同で行う洋上訓練や上陸奪環作戦だが、これも対象を明確にしないが、北朝鮮と中国だと解る作戦だ。意志と能力を暗に知らせる行動だが、力が拮抗しているときはまだよいが、標題の台湾と中国では脅し、威嚇を超えた実践訓練として映る行為だ。

 

前記の逢場作戯だが、よく見るのは抵抗なき意志を見せるために迎合するか、相手の敵を共通なものとして叩く行動がある。とくに権力あるものや武具を備えているものに出る傾向だ。とくに内政と外交にヤジロベイのようなバランスと、風見鶏のような力の方向に向かざるを得ない立場では、つねに難題を抱えざるを得ない。

 

当てどころのない者には言いがかりも出しにくいが、構えたり(準備)したりすれば、それは掛かって来いと思いたくなるのも常だ。電車の中の狼藉ものや、肩をいからせる者にもそれなりに抵抗理由が整うようなものだ。

大国でありながら、勝つことも承知の謀略もある。ベトナムのトンキン湾事件やイラクの大量破壊兵器の偽情報、クリミアも理由は様々だが、ここでは巻かれ(引っかかる)ることはままあることだ。満州事変での柳条湖や、北進から南進への政策転換に見る特務謀略、日本への経済封鎖から真珠湾への誘因など、錯誤を誘い、相手からの一撃を誘う巧妙な手段は数多ある。

ある特務の呟きだが、朝鮮戦争も局地戦ではなく、本来の目的は日本に侵攻することだった。大陸の乳房のような半島の道は知恵も通過するが,元寇や共産軍もやってくる。日本も明に向かって秀吉軍が入り、ロシアも日本も攻守は互いに半島を経由した。

 

貌は二面性がある。片手にバイブル、もう一方の銃剣は西洋の勢力だが、こと標題の台湾には広大な商業市場というグランド誘引と、ミサイルがカードとなっている。

一度は裸になって市場を開放して浸透融解する手法は大陸政府の得意な手段だが、島礁国が裸になって大量流入策をとったら、政体なるものが機能しなくなるのは目に見えている。それでも財貨の欲望をネタにして巧妙に国内を変化させて同化を図っても、気が付く人々は反旗をひるがえすのも、これまた必然。

 

最期の土壇場は侵攻奪取が常だが、これとて国内問題として国際社会は認知してしまうだろう。時代は違うとの論もあるが、人民に銃を放つ人民解放もあるのだから歴史は繰り返すだろう。必然につける理屈はいくらでもある。

 

 

双方に思惑がある。日本にも資財収益の欲望と名分の主義もあるだろうが、そこで筆者は、地域の軋轢と分断という課題について四角四面に構えることなく、かといって無関心を装うことでもなく、縁を得て棲み分けられた台湾の人々の下座において考える歴史的考察が必要と考える。それは他の政体を持つ地域と異なり、良質だった頃の多くの種(シュ)を育てたところだからだ。それは、情緒、言語、社会の仕組みなどだ。

 

ことさら当時の国家的政策だったからと放言するのは容易いが、浸透したものが残存するのは。それなりの意味を見出すからだ。なにも先進国が清国にも煩いを持たれていた未開の地にいらぬお節介を焼いたとは思わないが、近隣友邦として当時の日本人が精励したことは事実だ。それは70年を経ても義捐や訪れる人への親和心として残っている。

それは、古い残滓として括られる植民地政策の倣いこととして切り捨てられない、台湾においても深層の国力、つまり情感となっている

 

生徒主催の朝礼での国旗掲揚

 

その意味で標題の台湾侵攻は、我が国の現世利益や思惑を超えた情感喪失の危機とみるのだ。

あの頃、台湾は匪賊と疫病のはびこる地域だった。

翻って、我が国の現在の煩悶は、政体の弛緩と、言いようのない公徳心の衰えだ。

あの震災時、現地に飛んだ台湾関係者は、まず生活手段として現金の配布を考えた。

配布先を特定するために役所を訪れ、住民の現況を尋ねた。案の定、「個人情報」という言を盾に知らされることはなかった。

台湾もそのことは解っていたので、直ぐに知恵ならず己の足を使った。

批判などしている暇はない、直ぐにでも手渡したかった。機関に渡したら間引きされるか遅漏するのが関の山、それも日本人が持つ煩悶の気持ちと同じだったが、彼らは目的のために諦めなかった。そして、配って歩いた。「一人何万円だから家族は何人?」

いまでも援助団体や機関に滞留している義援金だが、彼らは経費すら受け取らない。

 

日本人教師の殉難 六士先生の碑

台湾民生長官の後藤新平は防疫のため清潔、整理、を伝えた。後藤が教えた清潔、整理、の生活習慣は、いまでも日本以上に残っている。

放射能の疑いがある禁輸地域の農産物に偽装ラベルを貼ってまで台湾の消費者を騙す日本人を恨むことなく、だだ、「あの日本人までが・・・」と落胆した。あろうことか日本政府は,台湾の基準がオカシイと返した。台湾の消費者ニーズを政策に取り入れて一部・一定期間の禁輸処置するのは日本政府も反論はなかったが、日本人の偽装輸出が問題になると、是正し、謝るどころか、アンタの規制ががオカシイと国際裁判所に提訴すると脅かした。

課題を与えられれば、課題の欺瞞や不思議さに問題意識をもたない無教養な政治当局者は、亜細亜の近未来の俯瞰視、あるいは歴史の愛顧すらない感覚で、当面の問題を考えている。これが中国やアメリカだったら高飛車に反論できたか・・・、まずはこの国の政治家・官吏は出来ないだろう。台湾の人々は児玉源太郎・後藤や八田与一に比して、今回のその狡猾・卑屈な態度の日本人、つまり先ずは、゛過ちを認め素直に謝る゛彼等に浸透している日本精神そのものの劣化をみたのだ。

三度の食事を二度、一度にして競って贈った義援金の行方を問い質すこともない。

慰霊の式典では、その台湾代表を指名献花すらさせず、日本政府は一般席で参列させた。

代わりに陛下は園遊会に駐日代表をご招待し、謝意を述べて戴いた。

 この情感の喪失した我が国の高位にあるものの意識は、たとえ隣国の演習だとしても台湾侵攻の企図に何を思うのだろうか。近くの大陸政体と太平洋を隔てた大国の顔色を窺うヤジロベイになると大方の国民は想像しているが、厄介なことと言を左右することを、内政の混乱と同根だと思うのは考えすぎではないだろう。

イメージは関係サイトより転載しました 

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