角の丸くなった積み木
安岡正篤氏は無名有力を「郷学」の基本として座標軸の一方を下座、もう一方を俯瞰にその観点に置くことをよく説いていた。
また思考の三原則として根本的、多面的、将来的に観る(「見る」ではない)ことを促している。その逆は枝葉末節、一面的、一過性の現世価値である。
2月3日のブログで紹介した岡本義雄氏との交誼は岡本の烈行、安岡氏の督励が多くの善行を導いたと記した。
それは、今どきの偽弟子のように、゛謦咳に接した゛゛教えを受けた゛はたまた、゛安岡正篤、最後の弟子゛などと称して人脈、名利の構築に勤しんでいる輩には、到底見ることの無い「学んで行なう」真の知識人の姿でもあった。また安岡氏も好んで岡本と懇談している。岡本とて安岡氏の立場を斟酌し、決して氏の表層を汲み取るわけでもなく、「貪らず」を心中の宝として弁えた行動をとっている。
ここに手のひらに入るぐらいの冊子がある。表題は【白帆は往く】とあり、「往く」は、゛目的を明確にして゛という意味でもある。
命名は京都の文人、島岡剣石翁によるものである。
島岡翁は岡本に以下のように添えている。
真帆片帆
島かくれゆく須磨明石
人磨大人の産れたる
大和の国のまほろばの
心に生きる この仁
神気の道にこぼれたる
言の葉拾う 奇言集
岡本はこう序文に綴っている
明治四十年四月十六日、奈良県御所市に於いて吾この世に生をく。
得難きは人生なり。アァ(口へんに意、感嘆、歎き)、生命の尊厳。
朝な夕なに天を仰ぎ、地に伏して唯々、感激の涙を覚ゆ。
今日只今、還暦過ぎて早くも十年、愚鈍の身に鞭打ち、惨苦の幾山河を乗り越えてきた。
省みてつくづく思うに、羞かしきことのみ多く、冷や汗背をウルオ(サンズイに占)し、今更悔ゆるも詮かたなし。
これ宿世の縁と諦めてみるものの、時に又、すぎこし方や行く末を想ひ浮べ、独り感慨無量になる。
老生、身の程を忘れ、先哲偉人、恩人の金言を無断借用申し上げ、僅かにても後進のお役に立てば、せめて勿怪(もっけ)の幸いと存じ、無礼を憚(はばか)らず、恥を承知の御免を蒙(こうむ)り敢えてこれを記すことにした。
これを見て、怒る人、嘲(あざけ)る人、貶(けな)す人もあるだろう。中には笑う人もあるだろう。とかく浮世は様々だ。人生イズクンゾ躊わん。陸の涯には海がある、海には悠々白帆も往く。
以下、次号