まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡正篤も唸った無名の「一日一言」 8 2/9 再

2015-10-13 09:31:36 | Weblog

    角の丸くなった積み木




安岡正篤氏は無名有力を「郷学」の基本として座標軸の一方を下座、もう一方を俯瞰にその観点に置くことをよく説いていた。
また思考の三原則として根本的、多面的、将来的に観る(「見る」ではない)ことを促している。その逆は枝葉末節、一面的、一過性の現世価値である。

2月3日のブログで紹介した岡本義雄氏との交誼は岡本の烈行、安岡氏の督励が多くの善行を導いたと記した。

それは、今どきの偽弟子のように、゛謦咳に接した゛゛教えを受けた゛はたまた、゛安岡正篤、最後の弟子゛などと称して人脈、名利の構築に勤しんでいる輩には、到底見ることの無い「学んで行なう」真の知識人の姿でもあった。また安岡氏も好んで岡本と懇談している。岡本とて安岡氏の立場を斟酌し、決して氏の表層を汲み取るわけでもなく、「貪らず」を心中の宝として弁えた行動をとっている。

ここに手のひらに入るぐらいの冊子がある。表題は【白帆は往く】とあり、「往く」は、゛目的を明確にして゛という意味でもある。
命名は京都の文人、島岡剣石翁によるものである。
島岡翁は岡本に以下のように添えている。

  真帆片帆 
  島かくれゆく須磨明石
  人磨大人の産れたる
  大和の国のまほろばの
  心に生きる この仁
  神気の道にこぼれたる
  言の葉拾う 奇言集


岡本はこう序文に綴っている

 明治四十年四月十六日、奈良県御所市に於いて吾この世に生をく。

得難きは人生なり。アァ(口へんに意、感嘆、歎き)、生命の尊厳。

朝な夕なに天を仰ぎ、地に伏して唯々、感激の涙を覚ゆ。

今日只今、還暦過ぎて早くも十年、愚鈍の身に鞭打ち、惨苦の幾山河を乗り越えてきた。

省みてつくづく思うに、羞かしきことのみ多く、冷や汗背をウルオ(サンズイに占)し、今更悔ゆるも詮かたなし。

これ宿世の縁と諦めてみるものの、時に又、すぎこし方や行く末を想ひ浮べ、独り感慨無量になる。

老生、身の程を忘れ、先哲偉人、恩人の金言を無断借用申し上げ、僅かにても後進のお役に立てば、せめて勿怪(もっけ)の幸いと存じ、無礼を憚(はばか)らず、恥を承知の御免を蒙(こうむ)り敢えてこれを記すことにした。

これを見て、怒る人、嘲(あざけ)る人、貶(けな)す人もあるだろう。中には笑う人もあるだろう。とかく浮世は様々だ。人生イズクンゾ躊わん。陸の涯には海がある、海には悠々白帆も往く。

以下、次号

コメント (1)
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