まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「黒石よされ」は「世去れ」とも聞くが・・

2008-08-20 10:29:58 | Weblog


弘前から弘南鉄道で30分、終点は黒石である。
背後に八甲田山、面前には津軽平野を越えて岩木山を臨む小市である。

八甲田までの道すじにランプの湯で有名になった青荷温泉があり、近郊は温泉銀座と呼ばれるくらい多くの大小温泉をかかえている。
数年前もある外国高官を誘って源泉に浸ったことがあるが、心身の潤いには優しさのある温泉である。また紅葉があでやかで、その名も「中野のモミジ」として有名である。

その黒石に日本の三大流し踊り「よされ」がある。阿波踊り、郡上踊り、そして黒石よされ踊りである。掛け声は「エッチャホー、エッチャホー」と各連に分かれて街中を流すのである。起源は、男女の恋の掛け合い歌だが、盛んになったのは約二百年前(天明)の今で言う官制の「郷おこし」で、黒石藩の城下に人を集める為に家老が智恵を働かせたのが今に続いているのである。

今回は津軽歴史探訪と先覚者の墓参をかねた旅だったが、丁度、゛よされ゛にあたり、黒石の旧友と祭りと地酒を悦しんだ次第。

なぜ、江戸っ子が黒石に・・と毎度聴かれるが、じつは妙な縁からの回避行動が始まりだった。

それは師の縁をたどった孫文と明治の日本人、そしてアジアの意志の確認のために弘前出身の山田良政、純三郎兄弟の生地の環境、教育、を知りたくて毎年弘前に訪れ縁ある方々を訪ね歩いていた。しかし京都風の応答はどうも江戸っ子には馴染めなかった。弘前の人もそう見えたのだろう。

数年後、毎年の訪問であらかた表面的だったが弘前を知り、ねんごろに語る相手も増え、また東京からの同行者も多くなった。
あるときは中央官庁の各省幹部と通信社、世情研究家を強引に誘い、弘前市の幹部と県を越して直接「押しかけシンポ」を行なったことがある。理由は全国津々浦々にある人々の生活観ある歴史アーカイブスの提唱だった。また東京化への危惧だった。

その内、青森放送のニュースや地元紙の取材などが重なり、当時、盛況だった歓楽街に一献傾けに行くと、「そういえば朝のニュースで・・」と、江戸の色話などで煙に巻くことも出来ず、タクシーで30分の黒石に逃避する羽目となった。

どこにでも人の縁はあるもので、弘前初訪問で城内の桜を案内していただいた縁を辿ったものだが、弘前とは趣の異なる好誼が続いている。

今回は「よされ」との遭遇だが、どこかのパンフレットに「世去れ」と書いてあった。たしかに雪囲いの路がつづくこみせ通りの軒には子供達が描いた武者絵、美人絵の灯篭提灯が吊るされている。どこか幽玄な雰囲気のなか、流し踊りが終わって閑散とした道筋を小太鼓と笛の一群が風の如く通り過ぎる。






「世去れ」といえばその雰囲気が醸し出される。あの津軽じょんがらの「じょんがら」も黒石の上河原に入水した悲話から伝承されたものである。

たしかに冬の黒石はその風情が滲み出ている。
背丈に積もった雪のこみせ通り、秘湯と逸話、よされ、じょんがら、ねぶた、しかも酔い話で盛り上がったのは、女性が元気で後家が多い、と地元の名士は説く。18000と20000、合計38000 何年も変化のない人口比率である。もちろん多いのは女性のである。加えて名士は説く「美人が多い」。

そこで小生江戸っ子は混ぜ返した。「元気な後家で美人が多い? 銘酒と温泉と山の幸、男は先に逝く、外から人が集まりそうなものだが・・」

「それも困る、文句言いながらでもこのままでいい・・」

「世去れ」の郷の入郷証は確かに貴重なものだ。


津軽 つづく



コメント (2)
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