人間として タゴール
毎年一月はスイスの保養地であるダボスにおいて通称ダボス会議、すなわち世界経済会議が行われる。各国の大物、あるいは大物然としている小者までが各民族、国家から参集する。選ばれる為か選民意識のものが多い。
表は顔合わせのように見えるが、裏では現在行われている世界の動きや風潮についての問題や、その対処について討議される。大物同士の談合とも見られているものだが、その影響力の結果を見たとき経済の分野に限れば、国連以上の動向が示されることがある。
1998年の会議ではグローバル経済の行き過ぎについて討議された。
消費優先、物質至上が人間の本質を退化させ、文明崩壊の危惧が討議の結果、認められたのである。
さもあらん、消費資本のプロパガンダを垂れ流すアメリカの巨大メディアはダボス会議では排除されていた。
日本のメディアや政界、財界、或いは庶民にいたるまで民主、自由、消費資本主義の世界に生まれ、そして死んでゆくと想定している。つまり宿命的境地に順々として従い、宿命に同衾している怠惰のぬるま湯の中でしか問題とその解決、あるいは予測を立てられないでいる。
自由、民主、消費資本主義に世界に疑問すら抱かず、そこから起きるさまざまな問題を仕組みやシステム、組織の問題を論ずる繕いに成果を求めている。
ヒラリーはその退行した考えに問題の一撃を下している。
『・・・しかしながら、私は長い間。アメリカ文化のメッセージについてのみならず、それらを伝える方法を心配してきた。
今も心配し続けているし、この心配事は大きくなってゆくばかりである・・
資本主義と民主主義の両方を害して価値観を促進する消費中心の文化が、ますます幅を利かせるようになっている・・・
歴史的に資本主義とかかわっている商業道徳とか、喜びを後回しにして勤労に励むとかいった考え方は、消費資本主義によって激しく損なわれて来ているのではないだろうか。
そして無常にも、刹那的に決断して多くの人々は消費資本主義に引きづられ、自己判断が狂わされてきているのである。
人々はその国の国民であるとか、市民であるかということより、先ず消費者であり続けるようにと位置づけられている。
このことで最も被害を受けているのは誰であろうか。
はっきり言って、次の時代を担うであろう子供たちなのである。
今日の消費者中心主義の資本主義は、はたして私たちの未来を明るいものとしていると言えるであろうか・・・』
1998年 ダボスの中心課題は中国通貨である元の問題だった。
国際金融資本は通貨元を狙ってうごめいている。
走狗に入る経済学者の稼ぎ時であり、ピントの外れた政治家の御用学者として政治に参入するものもいる。
`あなた方、何を考えているの!`
と叱られているようだが、ヒラリーの問題識の淵にも届かないように、物質におぼれた女性、その結末すら案じられない政経人にはヒラリーの現世諫言は顧みられないようだ。
それでも野放図な自由と、やりたい放題権利の民主、嫉妬誘惑の消費に問題意識を持たないのであろうか。
やはり勝った国は人間まで違うのだろうか。