まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

福田と麻生にみる座右の奇縁

2007-09-18 14:12:23 | Weblog
 


 安岡正篤氏は時折自らの学風に集う人々を集めて講演を行っていた。エピソードが一人歩きするほどに、深窓において興味を抱かせる氏の実像と肉声を求めて人は集う。

 ときにその学風は中村天風の宇宙観、安岡正篤の古典活学と政経人のマスコット的バイブルとしてもてはやされ、謦咳に接したとか、はたまた揮毫を戴いたと金屏風にする輩も多く排出している。

 それもこれもお題目は、牧野伸顕と吉田茂 以下佐藤栄作など門下生、歴代総理のご意見番、終戦の詔勅の朱筆、平成元号起草者、双葉山と木鶏など枚挙あるが、昨今の耳目は細木数子との縁も世俗の井戸端会議の種になっている。
 
 最近では総理候補と模されている福田康夫氏の父、元総理の福田赳夫氏も終生師と仰ぎ様々な岐路には教えを仰いでいる。
 一方の対抗馬として名の挙がっている麻生太郎氏の父は、戦前武蔵嵐山の菅谷の荘跡に農士学校(現在 郷学研修所、安岡正篤記念館)の創設資金を拠出している。(現在の価値で約6億円)
 
 牧野伸顕、吉田茂、麻生太賀吉の縁戚の系譜と、安岡氏の婿入り先である土佐も吉田氏との縁もあり、くしくも福田、麻生両氏の縁はその政治意識と座右に現れている。

 麻生氏は孫文が好んだ「天下為公」(天下は私するものでなく公にある) 意であり、福田氏は父が座右としていた「任怨分謗」(怨みは吾身で受け、謗りは他に転嫁しない)を同じく座右としている。
 政策はともかく、その安岡氏の遺志は両立した候補者の政治信条として権力を執り行う人間同士の奇縁を取り持っている。

【以下参照拙文】 

     宰相に観る「六錯」と「任怨分謗」(にんえんぶんぼう)

 国や社会がその連帯や復元力を衰えさせると権力行使に大きな支障を生ずることがある。
 とくに徴税や軍役といった国家成立の基礎的要件まで崩れると、他国の侵入や異なる思想勢力の影響を受けやすくなることは、歴史の栄枯盛衰を説くまでもない。
 賢者は「税と警察の運用と執行姿勢で民情が変ると」述べているほど、民は身近な公権力の姿を唯一の政治観察として見ている。
 その多くは公平、正義、民主といった求心的なアピールと、為政者やそれを取り巻く人間の発する問題とが多くの齟齬を起こしたときに、その政策全般の無謬性に疑問をみるからだ。

 その無謬性の崩れる最たるものとして、衰亡末期の表層に現れる責任回避や、新規政権に擦り寄るための情報漏洩、あるいは最後の一仕事とばかり蓄財に励む汚職や便宜供与など、風向きを察知した人間の行為は古今東西それほど変りはない。

 あの正義と民主を掲げて世界の軍事経済を牛耳っているかにみえる米国も例外ではない。
 よく「アメリカの正義は健在」と、事あるごとにその威信の回復力と、慈愛に満ちたメッセージが大国の魅力として、またシステムとして多くの国々の羨望を集めている。

 その動きは近年、世界の軍事警察を謳い、自由と民主を掲げ消費資本管理主義の領域拡大に勤しんでいる。しかし余りにも強大な軍事力は、処刑方法を楽しむ権力者のごとく、圧倒的な力によって、゛負ける喧嘩はなし゛の様相と、それを安逸として繁栄を貪る社会の弛緩は、まず権力とその周辺に現れてくる。

 ≪2004/10に米国下院倫理委員会は共和党のトム・ディレイト院内総務を7日譴責処分にしている。疑惑はエネルギー関連会社から2万5000ドルの献金を受け、直後にゴルフなどの接待を受け、審議中の関連法案に便宜を与えたという。選挙区割りについても政府機関に不当な圧力をかけた疑惑もある≫

 ≪ブッシュ大統領が太平洋司令官に指名し、直後撤回したマーチン空軍大将も空中給油機リース契約に絡んで、女性職員を総額320億ドルの契約先であるボーイング社の副社長に就任させ、家族もその恩恵に与っているという≫

 ≪国防総省政策担当のライス次官の中東担当直属部下は、機密扱いだった対イラン政策の文章をワシントンの親イスラエル団体に渡していた疑惑。アジア問題では国務省元次官補代理が国交のない台湾を無断で訪問して女性工作員と接触して関係文書の提供をしている≫

 浜の真砂ではないが、先進国、世界の警察といわれる米国をしてこの有様だが、我が国のテクノクラートと称される人間にとっては語るも意味のない内政問題でもあろう。 とくに官吏はこの手の話を嫌うものだ。栄枯盛衰から人間を観察するという学問に不慣れなために、官制学校歴マニュアルの思考を、ごく平準で科学的ロジックとして吾身を覆うようになっているからだ。そこには民情と公権力を自己制御や修正の有無を観察する座標もない。

 
 政治家福田赳夫はその孤高の決断における自らの範として、漢学者安岡正篤氏を挙げ、自らを弟子と称して指導を仰いでいる。福田が総理として心したものは安岡氏から伝えられた任怨分謗(ニンエン ブンボウ)という文字である。
任怨とは人の恨みを素直に受け入れる、分謗は人からの謗りを他に転嫁しない。その揮毫は家宝のように大切にしているという。権力闘争の真っ只中で風雅を漂わせているような福田の清涼さに、我国の輔弼たる宰相にふさわしい矜持をみることがあった。

 翻ってみるに前記の米国の内政における人物の放埓や、我が国の政治に観られる径行は、両国の指導者に類似するスィンク・アクションの間に必要な礼としての調和が、直情性格によって混迷しているようだ。

「直にして礼なくば、即ち絞なり」とは隣国の故事例にある章だが、正しいという思い込みは反論を退け、まるで遮眼帯をつけた馬のごとく猛進する。その成否はともかく自らの選択肢や政治政策を締め付けてしまう恐れがあると説く。
怠惰な民情と新鮮さを亡くした公権力は等しく国民の認めるところだが、一方ではその根本に立ち向かう有能な遂行者を自滅させてしまう危険性がある。

 よく「六錯」といって、錯覚に囚われる弊害を説いているが、「暴を以って勇となす」「詐をもって智となす」「怯をもって守となす」「奢をもって福となす」「怒りをもって威ありとなす」「争をもって気ありとなす」、まさに錯覚だが、政治指導者の根本教養として、また観人則として必須の修学ではある。

 宰相におきかえて、この暴、詐、怯、奢、怒、争、が大義の美名に置き換えられたとしたら、勇、智、守、福、威、気、の備わった名宰相になってしまう。この間には戦禍復興の迷走や走狗に入る知識人の登用など既成事実の後追いもあるが、これは座標の迷走を変化に対応する「決断」として評価する錯覚した見方でもある。

 もし、鎮まりの精神に「任怨分謗」という陰の覚悟があるのなら、表層の騒がしさはない。しかもマスコミの到着を待って参拝するパフォーマンスは鎮護の国の輔弼とは到底思えない。不特定多数の浮俗の欲望に追従するかのような現世利益に基づく政策争論もその任の範疇だが、六錯のいう観人則の錯覚による人間力の劣化は、総ての前提を意味のないものにしてしまう危険性があるだろう。
 
 偶成

【以上は重複するが、宰相の観人則と心構えではある】

果たして土壇場に耐え得るだろうか。

「智は大偽を生ず」
(知識は己を護るのみに存在し、より其の智によって大きな偽りをつくる)

そして哲人は呟く「政治家は国民を騙して雄弁家という」




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