まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

そもそも黨(党)は、黒を賞する集団である 2020 あの時から

2024-03-15 22:30:04 | Weblog

旧掲載だが、あの頃も同じことがあった。

そもそも悪党と言うが、善党とは言わない。

犯罪でも黒は容疑者、白は無罪という。

党の旧字は「黨」、つまり黒を賞する、まして白は党ではない、連(ツル)まない。

群れにならず党からは弾かれるのが白のようだ。

黨には掟がある。とくに悪党には厳しい掟がある。口の軽さと裏切りだが、ゆえに嘘が上手くなる。むかし、「政治家は人を騙して雄弁家という」一種の戯言があった。

近ごろは「会」を装っても腹は黒が多くなった。

 

 

 

市井の陶芸家の作品

 

検察官の人事に黨に政治家の介入があったと騒いでいる。

幕府でいえば目付の食い扶持を担保するような話だが、あんたの都合で決められては、タマッタものではないという事らしい。

下座から眺めれば、暗記上手の学び舎エリートが一方は政治家になり、一方は官僚となり、お手盛り利権で政治家や高官が捕まれば巨悪、訴追する検察も同じ同窓高官では、国費で贖い獲得した人格とは何ら関係のない地位だとしても、下座からみれば、彼らのやりきれない戯れとして、諦めに似た感情が堆積している。

 

※下座観は上部と下部の問題や、下座行と名付けた修養のことではなく、東西南北と天地の立体(球体)が、さまざまな回転や展開をする中で、下座観と俯瞰視(鳥瞰視)が回転に応じて眺めの位置が転換し、それゆえ部分と総攬が複合した観点となる(人間考学より)

 

検察側の言い分は、「中立性を求められる検察官の判断に影響を及ぼしかねない」

近年、惨禍や事件が起きるたびに学び舎エリートの土壇場の無能力が問題になっている。

彼らにとっては一番癇に障る言葉は「無能力」と知っての記載だが、知能ならぬ痴脳とも思える劣化に気が付かない、いや気が付いても食い扶持には問題ないと鉄仮面を装い、四角四面の法を駆使して大偽を助長している「狡務員」とその一群が蟻塚を築いて、曲がりなりにも国なるものを運営している。

まさに、下座からすれば、タマッタものではない状況である。

影響を及ぼしかねない」それは、俺たちも生活や卑小な欲もあるので、俺たちの蟻塚に口出しされると、どんなことになるか、自分のことも自信持てない。つまり人格とは何ら関係のない附属性価値である学校歴(学歴ではない)獲得に邁進した曲学阿世によくある成れの果ての戸惑い表明である。成れの果ては、落ちぶれた結果の彼らなりの有様である。

 

庶民はとみに数値利権化した警察組織同様に訴追権を持つ検察に対して、「江戸の仇は長崎で・・」と諦めて、従順としている。とくに狡猾となり生活を担保された者たちは、往々にして心底に仇討ちを企てている。辞めればダダの人になる政治家はとくにその事を知っているためか、子供だましの厚遇提供に気を配っている。官僚作文がなければ腹話術の人形として飼育された議員はひとたまりもない。

そのことを熟知した大衆が、顔の見えないことが利点のネット投稿に集うのは、さもありなん、ということだが、カオスに続く前哨なのだろう。

 

ある県官吏の酔話だが、採用時、少しは雇用主たる県民のためと青雲の志があったが、中堅になると議員の愚かな的外れ質問にも真面目に応えることに慣れると、有能な部下は寄せ付けなくなる。無能と化した姿を見抜かれないようにとの魂胆だが、定年も近づくと閑になるので、ときおり意味もない通達なるものを管轄の民間事業体に出すと、自分の所にお伺いを聞きにくる。

これが暇つぶしのようなもので、なかには福祉法人化の再雇用を進言する事業者もでてくる。もちろんアゴ足付きの講演や宴席もあってのこと。と役人人生を振り返っているが、聴くほうにしてみれば、バカが吹聴しているとしか聞こえない。

 

   

 

それが対策や立案の専権を有するとなれば、あとは歴史の栄枯盛衰を見るまでもなく衰亡は必然だ。そこには後付理屈で政策に彩を添える御用知識人や売文の輩、御追従の陣笠代議士となれば、よりその進捗を早めるだろう。

問題が起きても検察幹部の私的遊興費と化した、調活と称する調査活動費でたんまり楽しんだ検察の元ダラ幹部が、「オカシイではないか」と気勢を挙げても、国民は白けている。

まして、庶民の声に追従しなくても検察らしく自浄作用を働かせていれば、為政者もうかつに手を出せないと考え、こんな騒動にはならないはずだが、甘く見られる原因は官僚に多くの責任はある。

 

あの絶大な権力を維持した田中角栄氏でさえ、日本の司法制度を守ると順々と随っているが、そこには三権の維持と、政治家としての矜持があった。

後付の言い訳で最高裁には採用されなかったが、外国からの免責供述書を種に逮捕起訴したころから検察は弛緩した。それにつられて裁判所の証拠、判例主義も前段での訴追の垣根を高くしている。冤罪問題もあるのだが、どうも人間を裁く法の世界には、隠されたように人が見えなくなった。

 

だが、食い扶持担保や生涯賃金をつねに企図する官僚にとって、その問題になると「人」があからさまに出てくる。しかも、さもしい性根が理屈を添えて元気に這い出して来る。

中国や韓国を嘲る声も聴くが、政権(権力)が変わると前任者は排除され、逮捕粛清もされるのが倣いのようだが、台湾でも陳水扁前総統が逮捕拘留された。

 

よく「」というが、旧字は「」。よくみれば黒を賞するだが。悪党とはあるが、善党はない。黨の親玉はつねに下剋上や裏切りを恐れて、側近には縁者もしくは狡知が働く従順な者を配置して、しかも従順な武装治安組織で身を守っている。

権威」を象徴とする立場とは異なり、権力為政者はつねに怖れを抱き、退任後の安心を企図するようだが、往々にしてそのような為政者に寄生する者たちは、権力がなくなれば当然のごとく裏切り、次の権力者に寝返る。

今まで警護していたような組織も、衆愚の歓心を煽って正義を装い、組織の継続、つまり官吏特有の私心にある小欲の保全に邁進する。

凡その為政者の末路はそのようなものだが、ゆえに軍と警察(検察)は最後まで手放さないのが、諸々の主義や思想を問わず、為政者の宿命になっている。

まさに、「小人 利に集い、利 薄ければ散ず」そのものだ。

 

だた、「お前ら、勝手にやれ、税は払うが、生活の邪魔はしないでくれ」と、隣国のような溌剌とした民族性癖を持たない大衆は、いまだに、くれるものなら幾らでもと為政者頼りの従順さを持っている。

ときにネットを活用と叫ぶが、ネットの網目は便利な経路だが、もともと網は掛けるものと掛けられるもので成り立っている。異国の人たちは、掛けられることを慎重に想像している。魚でいえば下から大魚も雑魚も一網打尽にすくい上げられる。資源保全もなんのその、より網目は細かくなっている。

 

翻って、国家も税の網はより複雑になり捕捉率は高まり、効果的な消費税もその意図だ。公金(罰金)を徴収する警察にしても、安全安心を標語にしてよりその網目を細かくしている。

逆に、市民の要望を聞くと称して、担当部局を増設し、足りないところは非正規雇用を増やしている自治体も、いずれ経常経費の増大でまともな運営ができなくなるのは必然だ。

 

    

    

 

つまり、法に依って栄えるものは、法に依って滅ぶのが必然なのだ。

その「依る」ことに慣れると、いずれ弛緩し、綱紀や徳目が乏しくなる。政治家に徳目などないと揶揄するが、徳目がなければ政治家になれないとうそぶく者もいる。

問題が起きれば政府に依る。悪がはびこれば警察や検察に依る。当然ながらその相手は法に依らなければ何も動けない群れなのだ。

国民とて肉体的衝撃のリアルな行動を忌避するために、身を隠すネットに意見を載せ、多数になれば、我も我もと身をさらす。人は社会への自己承認とはいうが、それに乗じる学び舎エリートの元狡務員も後に続く。

 

現象に対する良し悪しを問うものではないが、本質はフラットで無機質にみえる社会が、ときおり振幅を起こす時に表れる人間の心象が気にかかるのだ。

何を成功価値として、何を失うのか。

バブルは繁栄を謳歌して幸福だったというが、失ったのは財物だけではない。

ことさら心配性で恐れ体質ではないが、どうも歴史の特異点に差し掛かったように感ずるのだ。

「中立性を求められる検察官の判断に影響を及ぼしかねない」

筆者はこの言辞に彼らの限界があるとみたのだが・・・・

 

あらためて赤木財務事務官の御霊に哀悼を奉げたい

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