まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

宰相として為すべき学問の特殊性 其の二   09 7/22再

2024-09-06 01:26:18 | Weblog

               
               八景 称名寺


《国家百年の大計は人を樹る事にあり》
 国家、国民という呼称が出来上がった創成期に国家リーダーであった天皇の憂慮は、大正昭和の立身出世、学閥、或いは軍閥など、エリートの堕落によって現実のものになった。

 それは競争なり発展を否定するものではなく、その収穫を利他(国内外)に効あるものにするために、地位、名誉.権勢といった欲望に恬淡とした人物の養成、つまり国家のリーダーには人類普遍的な精神の涵養が教育の根本に据えなければならないという天皇の意志でもあり、西洋合理主義との関係において調和すべきもの、あるいは、堅持すべきものの峻別を促したものでもあった。

ここに教育面において『相』の養成に心を砕き、当時(明治初頭の大学教育とその学制)の教育に憂慮を抱いた天皇のエピソードがある。




            


           深層の憂慮に添う


「聖喩記」 

明治天皇の侍従 元田永フが天皇の言葉として記したものである。
「喩(ュ、さとす)」は、諭す、分からせる、ではあるが、「君子、義において喩る」の、ここでは「教育に敏感で疑問を取り出してさとす」と考えたほうが、この場合は理解しやすい。

明治19年11月5日 元田永フ謹記とある。
小生の拙訳だが

11月5日 午前10時 いつものように参台いたしますと、陛下は直接、伝えたい事があるとのこと。私は謹んで陛下の御前に進み出る。 陛下は親しく諭すようにお述べになった。

「過日(10月29日)帝国大学(現東京大学)の各学科を巡視したが、理科,化学,植物,医学,法科はますますその成果は上がっているが、人間を育てる基本となる修身の学科は見当たらなかった。
和漢の学科は修身(人格、識見を自身に養う)を専門として古典講習にあるというが,どこにその学科の存在があるのか。
そもそも大学は我が国の教育でも高度な人材を養成する所である。
しかし、いまの設置している学科のみで、人の上に立って政治の要に役立つ人物を教育できるような姿であろうか。
設置されている理科医学等を学んで卒業したとしても『相』となるべき人材ではない。
現在は維新の功労者が内閣に入り政治を執り行ってはいるが,永久に継続する事はできない。 

いまは『相』となるべき人材の育成が重要だ。

しかし、現在大学において和漢修身の学科が無いようだが、国学漢儒はかたくなで、狭いと思われているが、それは、それを学ぶ人間の過ちであって、真理を求めた学問を狭い範囲に置くのではなく、普偏な学問として広げなければならないと考える。
わたくしは徳大寺侍従長に命じて渡辺学長に問うてみる。
渡辺学学長は人物の養成についてどのように考えているのか。
森(有礼)文部大臣は、師範(教師育成)学校の改正の後、3年経過の後、地方の学校教育を改良して面目を作るといっているが、中学は改まっても現在の大学の状況では,この中から真性(ほんもの)の人物を育成するには決してできない。君はどのように考えるか。」


《小学》
,躾(躾「身を美しく」)で表す習慣学習は親子,兄弟,朋友の位置と役割の分別から発する調和のための礼儀や作法。あるいは身や立脚する場を清潔にする清掃など自己と他人の別や、知識,技術を活用する為の前提となる人格,徳性を習得する学問

《大学》
小学を習得した後、思春期の問題意識から自己の探求、そして必要な知識,技術を練磨した後に己の存在を明らかにする学問




                

             
            天を敬し 人の尊厳を守る




ここでは明治天皇の掲げる国家の形態や構成する人材の育成など、特に問題意識となるリーダーの養成方法についての不備を説いている。

また学長や大臣に対する考えは近代国家,富国強兵に突き進んだ明治初頭の国家経営の拙速さも読み取れる。

兵学でも陸軍はドイツ,海軍はイギリスといわれているが、陸軍などは拙速の余り戦術論が主となり国軍としてのあり方などは、その後の盛衰や錯誤の端となってしまった。

 明治天皇が諭すとおり日露の戦役における両軍兵士の勇敢かつ潔さ、あるいは敗者に対する礼と哀れみなど,戦術論で言う如何に欺き,如何に大量に破壊するかを知識として学んだだけでは日本民族軍としての矜持を添えた姿にはなりえまい。

戦う集団の武士道と民兵の違いはあれ、たしかに大量補充の問題もあろうが、規律,統率を力とする軍のリーダー如何で軋轢,禍根の芽は摘まれたであろうことは実証としてある。

 もちろん、今の各方面のリーダー像と比較しても大差ない問題を噴出させていることでも事実だ。
司馬療太郎氏の小説,坂之上の雲に著わされる乃木,東郷,児玉,秋山兄弟の表す矜持は今でも政経組織のリーダーとして通用する器量を備えている。

以下次号

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