まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

国を蝕む汚れなき罪 「四患」から「五寒」へ 2015 3

2021-04-07 08:41:45 | Weblog


郷学研修会 卜部皇太后御用掛



その現象は聖書の預言ではない。

しかし人間の行いは著しくその傾向に進む。
たかだか人間の考える経済学や政治学の学びや将来の推考には、先ず以て表れない。また、それさえもその一群の監視に近い眼によって判別され、なかには巨大な力が唯一護ろうとする意図を思い測っての忖度表現しかない。この国では大手を振って歩くには、ここさえ触らなければ、という不文律がある。

見世物屋台のように並べられるものに人々は目を奪われ、外に向かってはODA、TPP、宗教戦争、拉致、防衛、内では原発、介護医療、環境、農協改革、人々の学びは資格となり、情報取得は財利の種が多い。ことはそれをコントロールする一群の問題だ。

これに触れると、どこからともなく見えないが煩い漂ってくる。
それは国家が護持する人間の尊厳を著しく毀損する姿であり、しかも国民に遍く知らしめることなく陰湿に増長し、たとえお飾りとなった為政者とて触れることができない禁忌のようなものとなっている。しかもその国家の最大の内患の浸食は止まることもなく、抗すれば国賊の烙印さえ押されるような巨大な力を有し、しかも衰亡から没落の過程においてはバチルスの如く別世界の住人の如く、まさに「小人の群れ己の名利に殉ず」様相である。

王陽明は「外の賊 破るは易し 内の賊 破るは難し」と説く。
太平洋戦争のさなか、この国家の内にうごめく賊の排除に陛下も苦慮した。それは文明開化と謳われた維新の、もう一方の残滓として巨大になった武装集団である軍部の増長だ。
どこを押せば覚醒しコントロールできるのか、それさえも肉体の神経細胞の如く国家に網を張り、いたる所に巣をつくり、しかもその巣が自己増殖して社会の免疫性すら衰えさせた。
しかも、憂慮する陛下でさえ盾にして美名の大義を謳い、聖戦、皇軍として国民を鼓舞し、糾合して、まさに武士の自戒や覚悟を勇と錯覚して、暴となり、止められない集団しなってしまった。実直な無名の兵士は従順とてしたがった。






郷学研修会  佐藤慎一郎



現場における勇猛さや不特定多数の利他(愛郷心)に生命を賭す若者の逸話や、戦略や戦術の巧劣も民族の愛顧する事実として遺しているが、それさえも福島原発の現場職員、自衛官、警察官、消防官、ボランティアに見る日本人の姿に比して、一方は陸大、海大のエリート、いまは企業経営者、官僚、政治家にある、指導的エリートの醜態は,総てではないにしろ内外識者の共通した見方であり、内においては破りがたい賊の姿として、我が国の民癖となっている。

あの時も、最高責任者として自認した陛下の人格によって敵国司令官のマッカーサーも立場の忠恕心に共感を示している。
公徳心、つまり不特定多数の中に生きる人間の徳性をそう呼んでいるが、日本人の習慣的特性としての四徳に勤勉、実直、礼儀、忍耐がある。いまは清潔、緻密など、その習慣規範は社会生活や対外的ビジネスにも有効な内容となっている。逆に、着想力、突破力、直観力、自由な躍動、独立心などが乏しいとの印象がある。

だからイノベーションなのだろうが、横文字の流行り言葉に目ざとい群れは己の囲いを死守しつつ、他の変化を先取りしたり仮借したりすることに長けている。もとより社会的価値の創造や広範囲な改革については、その群れの安住する棲家を改革なり更新すべきことだが、往々にして人の変化なりを期待したり、先行させてその結果を安全な所から模様眺めして決して率先垂範しない狡猾さがある。

もう一つにはモチベーションがある。簡約では「動機づけ」だが、これもイノベーションと対で語られるが、横文字はコンサルタントの詭弁を飾るに好都合だが、「やる気」を体系化したり理論づけしても人は動かない。だから幾度も耳にタコができるほどの刷り込みをするのだろうが、それでも知ったつもりになることの方が恐ろしい。

ともあれ前項に書いた、着想力、突破力、直観力、自由な躍動、独立心が詭弁によって言葉遊びの架空現実に置かれたとき何が起きるか、それは単に騒がしくなるだけでなく、次の目新しいキーワードを探すようになるだけだ。つまり飽きて落ち着かない、もっと言えば架空現実であっても不安要素をいつも抱えている状態になる。

くわえ、「不安要素」は習慣性の媚薬のようになってくる。そこに放埓となった着想力、突破力、直観力、自由な躍動、独立心が絡むと、本来の本性は無くなり、あるいは忘却して生きる目標や意義すら乏しくなり、いくら民主や自由を我が身のすべと考えていても自己忘却した個体の本性は無性となってしまう。現世の成功価値はともかく人生、とくに「死生の間」すら解けなくなってしまう。

だから蠢(うごめ)くのだろうが、不安要素に慣れると、怖れ、猜疑、反抗が当然なものとなり,対人は懐疑となり、生き方は刹那(束の間の快楽)となってしまう。
とくに人を敬重し畏れる精神は衰え、尚更のこと公私を問わず高位高官に属するものが問題意識や内省もなくこの状態になると社会は衰え、それが風潮として汚れなき罪を感知すらできなくなってしまう。






天安門広場の敷石


以前にブログで「慎みのなくなった権力」と記したが、善悪分別ではなく慎みの範となるべき「人間の倣い」がなくなると,隣国故事にある《上下交々利をとれば国危うし》となり、《我が身をツネって人の痛さを知る》邦の諺の諭しすら無くし、周囲は《小人 利に集い、利薄ければ散ず》(小者は利に集うが薄くなれば散りじりになる)のような小者ばかりになってしまう。それは人を観る座標を失った証左だ。

それは恐れゆえに外の刺激に敏感となり、内を蝕む汚れなき罪に鈍感になる状況だ。
亡国の兆候に「内外、政外、敬重、謀弛、女」の「五寒」を度々説くが、その「内外」は、国内が治まらないために国外に利なり敵を求めることになる。
つまり「政外」にある政治のピントがずれることだ。すると政府内部は相互が懐疑的になり、少数のお友達と揶揄される人間に囲まれ、よりその謀(はかりごと)や秘密が弛(ゆる)む「謀弛」となり、制御する法も煩雑となり相互信頼がなくなる。そんな時は「女(じょらい)」となり、女性が烈しくなる。女性登用もその倣いだろう。
現世は人を敬うことや畏れることがなくなった。「敬重」だが、あえて見るべきは陛下の所作と慎みのある徳の威力だ。


これは隣国の栄枯盛衰に起きた現象であり、度々とりあげる「四患」が「五寒」を誘引することは、現実の事象を辿り、当てはめれば歴然として明確になるはずだ。

連続した短期政権崩壊の根本要因は、「四患」にある
http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/027be4d82a2fd241dd3a822fae5a623d

《四患は五寒にすすむ》 宰相の選択と覚悟
http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/79784ea3cf5ad883c139ea942c648587









人は得意分野でよく失敗をする。
閣僚の辞任も、おおよそ族で飼い慣らされ、めでたくも大臣閣下になると金と女のことで失脚する。それでも可愛いもの、国民の大多数は「そんなもの」と眺めているが、それを浮かべる水のような融通無碍な群れは、やたら生涯賃金を企図し、省益あって国家なしの様相だ。
しかも余程のことがない限り治外法権なる内規によってゾンビのように甦る。
つまり、法は有っても法に適することのない汚れなき罪は、いつの間にか強力な力を蓄積した。それは戦後レジュームに一番恩恵を得た群れであり、戦前の悪しき官吏体制を生き延びた本物の戦後体制のようだ。或るときは軍の背後に隠れ、ある時は竜眼の袖に隠れ、税吏や警吏を用いてその地位を保全した。

歴史をたどれば、その後は軍吏がその後背を担うようになる。
そして議会による現情追認は繰り返す歴史のように国家の暗雲となる。
これは単なる客観的傍観やごまめの歯ぎしりではない。
内省すべき我が身への慚愧のようなものだからだ。

コメント
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