まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

アジアンセキュリティー?への理解 09 4/13 あの頃…

2021-04-27 17:58:07 | Weblog




理が合う「合理」と無限大の「無理」

いい加減、曖昧さ、とは今どきの合理主義との問題だが、規格化されて誰にでも納得する事柄は表層の納得事項については、ごく整合性のあるものとはなるが、異民族との関係における普遍性のある内面活性ともなる色、食、財の欲望の共通意識においては、表層をなぞるようで何とも的を得ない。

いま流行り、いや今ごろ注目されている西洋の量子学にも「不確定性原理」というものがある。

つまり、自然の本質は曖昧であり確定したものはない。また可能性をもつすべての状態が重なり合っている、とも説く。

物理学者ハイゼンベルグは、部分の算術的総和は全体を表さない、とも説くが、それではアユンシュタイン先生の数式で表す科学的合理性なるものとは相反すると思いきや、それもそれと衝突するわけではない。

つまり、あるときは滅亡や死を共有し、かつ功利性において互いの欲を忖度して交換すら行うようなことなく、逆に相互理解を読み解けない浅薄な人間関係しか構成できず、民族観すら読み解けずに国家間において齟齬を起こし、その軋轢が戦争すら誘引してしまうことがあるが、どうも角栄さんの好むセリフではないが、「智慧がない」・


よく中国人は面子を重んじ、時として過剰反応を示し、日本人は四角四面で融通がきかない、歴史上柵封された朝鮮民族は好悪が烈しく激情する、など夫々が民族側面の特異について語られるときがある。民族性癖の表裏はときとして特性の優劣を問わず対象との、相性によって大まかな歴史として刻み込まれている。

゛どうしてだ゛と問われてもアカデミックな分析評価では納得した答えは導けないものであり、敢えてこじつけても無理を生ずるものである。また、そうそう明確には語ることも憚れているが、漏れ語られるからこそ土壇場には重要な部分にはなるのだろう。








満州崩壊の留置場での佐藤慎一郎氏の回顧としてではあるが、毎朝意味もなく朝鮮人を引き出して漢人がいたぶっていた。何故だか解らないが今どきの「虐め」のようなもので、同色民族での異質性や素朴に刷り込まれた看守の民族慣性の行為だったのだろう。

普通は侵略者、支配者、偽満州官吏といわれた日本人がそうされると思うのだが、逆に引き上げ家族に「子供を置いていけ・・」と多くの日本人家族が促されている。混乱期の引き上げで多くの子供が中国人によって命が助けられ、自身の子供より大切に育てられた事実は肉親の情を超えた理屈のない、ある種の良質なバーバリズムにある素朴で純情な選択とも思えてくる。

趣は異なる余談として在日朝鮮の古老の呟きだが、いっとき我が国の好色男子に流行ったキーセンパーティで妓女を世話する俗称 ゛やりて女将゛は「日本人の種をもらえ」と、現地の男子より優先して日本人に世話をしていた。古老もあきれた口調だったが恐ろしきは巣を宿す女性の感覚である。

「この子は日本人だ」と自慢すらされた。これも語るに憚れる話だが在日の中国人の多くに聞くと嫌いな民族は「大鼻」と呼ぶロシア人、次に朝鮮、『日本人ではないのか・・』との問に「いゃ、日本人は中国人に合うし嫌いではない」と応える。面前にした応答だけだとは思えなかった。

今とは違い、日本人はおとなしいとも思えるが、当時は従順で異なるものとの調和心があり勤勉だった。何よりも維新とロシア戦勝、真珠湾とアジア有色の先覚の歴史があったことも影響している。それは優しさと厳しさと怖さでもあろう。

一口に中国といっても多くは言葉の通じない人々だ。吉林と上海では通じない。共通語は北京語だ。一昔前は薩摩と津軽ではチンプンカンプン、共通言葉は謡曲にある「各々方(おのおのがた)」、やはり難儀した。

もちろん好き嫌いもあれば反目もあるが、参勤交代、伊勢参り、公家落ち、国替えなどが機能してどうにか調和を構成していた。東アジアでも国家を構成しているなかで些細な齟齬が大なり小なりある。

とくに古代より出たり入ったりしていると刷り込まれたように滞留している民族感情がある。ことさら近代史のなかでの国家間の問題を問うまでもなく、偶然にも、あるいは必然的事情によって棲み別けられた人々の情緒から読み解かれる部分について興味ある応答を紹介したい。










趣を変えて、ある古老の賢人(老師)に聴いてみた。

まだ、経済と軍備が整わなかった頃の応答だ。

 

『アジアも植民地であったが、在日米軍があるのはおかしいと思わんか』

「日米安保も沖縄米軍も有ったほうがいい。無くなったらまた日本が軍事国家になる心配がある」

『中国の軍事力は増大しているが・・・』

「中国は幾ら強くても真珠湾はやらない。義には見習うべきものもあるが、実利がないものはやらないし、中国人には出来ない。政府は常に軍を背景にして成り立っている。革命当時もそうだが外国に対するものではなく、国内の談笑している仲間にするものだ。おかしな話だが軍の力は武力と金を産む組織だ。

それぞれの軍区は貿易会社もあれば武器製造もしているしミサイルも夫々飛ばしている。昔は軍閥があり中央政府が出来たころは功名を競い、いまは経済の重要部分まで浸透している強大な軍に政府も配慮している。ここでも面子が重要な意味をもってくる」


『でも、中国と日本が拘りなく仲良くなって協力したらもっと良くなると・・』

「問題があるからこそ彼等(欧米)にはチャンスがある。資金も技術も人も入ってくる」

『手段、方法は違うがうし、財も職も人も普遍的な欲望だとは判るが、国家としては・・』

「その繰り返しだということも分かっている。でも信じられるのは身近な人情と金だけのようだ。中国と一概に言われても何も解らない。それは中国人といわれても何を指しても当てはまるし、当てはまらないことでもある」

『白髪三千丈とはいうが、蛙が空気を吸って身体を膨らまして破裂した俗諺があるが、膨らますエネルギーと、破裂を抑えるエネルギーはイコールゼロになるが・・・』

「商売は生活でもあり、戯れでもあり愉しみだ。財が幾らあっても余計に落ち着かないし、不安だ。大陸とアメリカと日本に三分割して、縁者は欧米の永住権を取らせているものもいる。もともと国家観はない。ばらばらで砂のような民を湿らして手に乗せる潤いは狭い範囲の人情と財だ。それを前提としての信用だ」











『人にも国家にも面子があるあるが・・』

「面子はたて合うものだ。その前に相手の面子を知ることだ。ぶつからず避ければいい。面子を聴こうとしても話すものではない。解かれば同じ物を食べて飲むだけだ。いまは説明しなければ判らない日本人が増えた、いや説明しても判らないようだ」

『欧米人と似て利のサイクルが早い』

「皆、上を見て様子を伺っている。いつでも、どこへでも行ける様にではあるが、商売は人を信じて出来ない。時と場所で実利を追うものだ。理想や空想は嘘のようなもの、悪党でも力のある者は善にもなる。これが力の論理だ。その意味では世界一自由な民族だ」

『実利が優先するのか』

「もちろんだ。偽満州の日本人官吏は賄賂も取らず清廉なことが多かった。たしかに懐かしくもなるが、下っ端には賄賂が流れてこない。これには参った。北京に進駐した日本軍にはみな面従腹背だった。或る将校が北京市内に百箇所の井戸を掘った。それでみんな落ち着いた。日本人を人間としてみた。実利優先のようだが一番人情を理解できるのも中国人だ」











『今の日本は・・』

「民衆が騒いでいないので良いと思っているのか、何ともいえないが、真の自由は中国人のほうがある。あの明治維新の頃は日本人も柔軟で目標があり、アジアの憧れだった。義理も人情もうらやましい。もっとも中国の良い文化が残っているのも日本だ。アメリカは強いかもしれないが日本は上手くやっている。

中国はいくら軍備を大きくしても不安を抱え続ける民族だ。日本にアメリカ軍が居る内は安心している。可笑しいかもしれないがそれが中国だ。強いアメリカに逆らっても損するだけだ。だが入ってきたら同化する。元も清も溶けて同化した。誰でも色と食べ物と金は欲しい。中国は全部ある。みな誘われる」

「強ければぶつからず逃げれば良い、弱くなったら戻れば良い。土地まで持っていけまい。皇帝は舟で民衆は水だ。静かにしてれば浮かべるが、水が怒れば転覆する。でも泥水でも一生そこにと留まるし、渓流が小川になり大海になる。きれいな水も泥水も黙って受け入れる。そして国家を超えて天下、天と地の間に生きる。四角四面な歴史はともかく、人は滅びない」

国家は滅んでも人は滅びない。支配者の旗が代わるだけか・・・

「身体でも硬いところから弱くなる。腰や膝も痛くなる。頭の固い人もそうだ(笑い)。でも柔らかい部分は衰えない。口と舌だ。政治も国も人から離れたり、人も自然から離れたら衰亡する。学歴の無い学習だ。学校へ行くと何かがなくなる。それが裁判官や政治家になったら国家も固くなる。衰える。日本人も中国人が好きなところがなくなりかけている。

日本人の善いところを思い出してくれるだけでいい。面子争いは戯れだ。仲良くなったら困る人もいる。その生き方ではあるが善なる規範を説く孔子も孟子もいるが、自然に生きる老子もいる。色々な主義を持ってきたり、入ってきたりしているが方便として慣れることが必要だ」

 

 

善や悪は問わない、力のあるものが善なのだ。みな力に寄り添い、力がなくなれば散るのだ。

小人、利に集い、利薄ければ散ず」 「小人の学、利にすすむ

ところ「利は智を昏からしむ」(利ばかり考えると頭が狭くなる、突き詰めれば戦争で収奪だ)

だが、いつまでも、その繁栄が続かないのが人間の欲であり、世の循環なのだ。

はまり込まず、それを悠々と眺めているのも、己のセキュリティー(身の安全)だろう。

まさに「上善は水の如し」一番よい生き方は水のように生きることだ。

前記重複するが。大地に沁みとおった水は湧き水となり、小川、渓流、大河となり、万物に潤いを与え、四角い器、丸い器、そして濁水にも容易に混じる。大河は海に注ぎ、暴れて船(権力・皇帝)を転覆させる。いずれ蒸気となって雨を降らす。

人の人生と同じだが、今、どこに部分に居るかを考えればよい。ましてや亡くなれば他の動植物と同様に人間も腐葉土として万物を育てている。人生は生死の間、政治は公私の間、その間(あいだ)を考えのが学びと智慧になるのだが・・・・

 

 

 

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