まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

貪らざるを以て寶と為す 2014 7 再

2020-05-09 08:50:29 | Weblog
パル判事と東条家の人たち



銀座七丁目のビヤホールは一時、占領軍の接収で庶民は立ち入れない時期があった。いまでも都内にはそんな日本の管轄外の施設が多くある。基地や駐屯地も東京の外周に点在するが、一等地にも大使館の職員施設、ヘリポート、ホテルなど、いわゆる治外法権の場所が多数存在する。しかも施設設営費、人件費などは思いやり予算で維持され、しかもノータックスということで驚くべき安価で食品、衣料などのブランド品が提供されている。

話題は逸れたが、そのビヤホールも返還後はビール好きの客で賑わいを取り戻した。客筋は銀座老舗の旦那衆,易者、築地の仲買、稼業衆と云われた鳶や博徒、文士、大内山の奥の侍従など、それぞれが問わず語らず丸テーブルを囲んでグラス交歓をしていた。

不文律はホールで知り合った女性は連れ出さない、銭のハナシはしない、ほかは話を突き詰めない、つまり一夜の完結だ。今時の客には真似がでない応答だが、なかには嘘やはったりで威を張るものもいるが客の意中では別物扱いだ。とくに、何処の誰かも知らずに歓談しているが何年も経って背景が分かることもある。
慣れてくると顔つき、話し具合で大よその見当はつくが、それでも敢えて尋ね聴くこともしない。それは何も金の多寡や地位や出自で呑んでいるのではないという至極当然な気持ちの同感からだった。





判事席


記念館

或るときパル判事の話題になった。パル判事とは極東軍事裁判(東京裁判)のインド選出の判事ラダ・ビノード・パル博士のことだ。数日前にその関係著作の案内に興味を持ち箱根のパル・下中記念館を訪れ、あまりの荒廃に驚いたことを話題にした。たしか同席は、も組の鳶頭と品のよい老紳士と連れの女性、筆者と連れだった。

「パル判事と義兄弟の下中弥三郎さんの記念館に行きましたが、訪れるものもなく荒れ果てていました。一度下中さんの縁者に会ってみて話してみようかと・・」
「今どきの日本人は忘れっぽいのか、知らないのか」と頭はいう。
黙って聞いていた紳士は笑いながら口を切った。
「私が下中です」
「あの弥三郎さんの・・」

ビヤホールでは名前や職業などは聞かない。見た目や気分、飲みっぷり、応答などで馴染みになる。
気は合うが、まさか数年前から同席する様になっていた人が、その下中氏とはつゆ知らなかった。



若かりし頃の邦さん







縁は奇なもの、弥三郎氏の長男の邦彦氏だった。当時は平凡社の相談役でパル・下中記念財団の責任者。後刻届けられた資料はヤベンと云われて親しまれた平凡社百科事典の基となった「やぁべんり」から採ったヤべンだった。
その後は、箱根の記念館に同行したり、津軽弘前の桜まつりにも行った。

いつ頃からか長幼を超えて邦さんと呼んでいた。その邦さんの家は大田区の雪谷に在った。桜の季節になると広大な庭の観桜に多くの客を招いている。その幹事を任されることもあった。だだ、いつもビヤホールに連れてくる女性の姿はなかった。

その女性は筆者の戯れ言葉で「看取り屋」と云っていた。
もとは新派の有望な女優さんだったが大御所女優の身辺の世話焼きとして末期を看取った。以後、歌舞伎の大御所と子息、そして邦さんの世話をしている。銀座の文士の集う老舗バーのピカイチだったころ、ある大物文士と競って・・・との逸話もあるが、そんな計算もない看取り屋さんは邦さんとは気が合った。

何しろ看取られた方は「あなたでなければ・・」といえば家族でさえ否応もない。
もちろん近親者、とくに妻からすれば同性の若き美女、心穏やかでは済まないが、法外な対価を要求することもなく、健気に不自由な身体の下の世話までする彼女の姿に沈黙せざるを得ない。

気晴らしに食事に誘って看取り屋の人生を聴いたことがある。
「女優は諦めた・・?」

「・・・なんか,縁なのか、星なのか・・」

「結婚もしなきゃ・・・」

「相手と云おうか・・・、自分の意志のほうが強いようで・・」

「看取り屋さん・・・、本になりそうだね」
「・・・・・」

周囲が言うには、踊りも上手で華がある。大御所連の看取りなどしなければ、いっぱしの女優になっていた。なにしろあの老舗バーでは高根の花だったくらいだから、同性からの嫉妬もあった。邦さんの病は喉頭癌、彼女の頭髪も歳に似合わず白くなった。邦さんも我儘だったが彼女無しにはいられなかった。

邦さんが亡くなってから暫くビヤホールにからは遠のいたが、いつ頃からか城北の筆者の店に来るようになった。何度か蒲田まで送ったり、足を延ばして横浜にも行ったが話題は邦さんのことが多かった。

邦さんには教えられることが多かった。興が乗るとコースターに戯れ言葉を書いた。
折り紙協会の会長だと云っていたが、あの調子だと床の間の石のような充て職も多かっただろう。

晩年、会社の事情も変化したが、箱根の記念館の仏塔に舎利仏を安置することを望念として筆者に運動の継続を依頼してきた。仏舎利は神楽坂の出版記念会館に保存しているというが発起する者もいないという。さびれた箱根の研修道場の活用も伝えてきた。
何度か同行したが、ひょうひょうとした白足袋風の邦さんらしく筆者に強いることはなかった。






左より下中 安岡 筆者 卜部 



機を見て皇太后御用係の卜部侍従と安岡正篤氏の長男で長野銀行の社長だった正明氏をご紹介した。すぐに肝胆相照らす仲になったが、邦さんは箱根の話しはしなかった。

もう少し積極的に・・というと、「貪らざることを寶と為す」と、コースターに書いた。
私事ではないですよ、というと「師父の教えを寶と為す」と付け加えた。
たしかに心当たりがある。

その師父だが、邦さんは筆者の師のことをことを知っていた。
それは正明氏の父安岡正篤氏のことだが、いっとき嵐山の郷学研修所が停滞した時「三千万あれば・・・」と呟いた時があった。あえて聴きただすこともなかったが、筆者の心中では、安岡氏に纏わりつく財界の大物や政界の傑物もいるのに、ひと声掛ければ易いことと思ったが、易いからしないという心中があることが分かった。
ときおり、気が利かないのと酔っ払いがいる、と老書生を揶揄していたが、持ち場を守り利他に活かすことの難しさは碩学とて難儀したようだ。
確かに貪ることは江戸っ子でも分る、まさに野暮だ。

浮俗では、形式、格好つけ、見栄っ張りと云われそうだが、実利だけではなく、それを以て維持される世界があることも理解すべきことだろう。
邦さんらしいが、近ごろはどこか納得する邦さん風の生き方のようだ。



イメージは一部関係サイトより転載
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