(写真説明)
社会党ながら『今回は自民党案のほうが正しい・・』と、独り反旗をひるがえし自民党案に起立した渋谷修君。彼によって50年体制(与野党談合)に綻びが露呈し、終には社会党が崩壊した記念すべき画像である(時事通信)
《平成6年の稿ですが、ながらく小会に参加していた若手議員の姿を備忘として残したものである。その後、官房副長官となり、その頃から色紙揮毫に「意志あるところ・・」と書すようになった。青雲の志とその志操を護ろうと欲すれば辿るべき道は恩人の墓碑にあったようだ。その頃は後の松下政経塾々長や反骨の衆議院議員も参加していた》
秩父
【備忘録本文】
国家の信頼と政治の要諦は、その根本に政治家個人の崇高な目的に対する「志」いかんにかかっている。
もちろん目的も粗雑で手段が狡猾なものもいるが、どんな目標を描いたところで必ず失墜するのが常である。 いわゆる、そのような思考、感性の持ち主では何れ“声なき庶民”の嘲笑を浴びるのは当然の結果とも言える。
それを予測し、その場主義で「利用」するものもいれば、「敬遠」するものもいる。中には本来の政治が果たす役割を考えもせずファンクラブや取り巻きを気取るものも出てくる。 庶民からすれば政治の不信であり公の代表者に対する怨嗟の始まりでもある。
それでは「志」とは何か。
理想を唱えていては政治にならないとの声がある。
さも政治に参加しているようで、実際には選挙という応援の中での自分の存在感の確認のため行動し、自身の汲々としている姿の自己満足に政治があると錯覚している場合がある。 応援者は 本来の任務である議会の言論行動も理解せず、後援者、票数、資金のみを現実政治として考えているフシがある。
議員自身の資質の問題でもあるが、選挙運動において唱える(訴える?)ことは“現実の問題”の対策と“理想政治”の具現という考え方においては矛盾する論法を、“対策”を実力と錯覚し、“理想”を高潔な人物と錯覚する応援者もいれば、員数を揃えれば“乗り遅れ”を危機として煽り、支持を集める見え透いた手法を取ったりするものもいる。
最悪な状況はそのこと事体を政治と理解しているフシがあることです。
定例的な旧来の手法ではあるが、現実選挙では一番有効と思われ、しかも、抜け出したくても抜けられない貧弱な政治民度でもある。
孔子も「巧言令色、仁少なし」と述べているように、バラ色の理想を雄弁に訴えることは民衆に対する契約でもあり自身への誓いでもある。
こんなことを述べると理想と現実は違うという答えが返ってくる。
しかし大事な点を見落としてはいないだろうか。
政治は目標を多面的に見つめ、根本的に考え、将来を明らかにすることである。
多面的とは総花的ではなく大局的に観察することであり、根本的とは全ての面で公私の分別に立脚することであり、将来的とは現世の浮利、浮情に流されることではなく、自身の勇気と見識がなせるところの教育的言論をもって民情を覚醒し将来的展望を説くことである。
庶民の要求するままに官吏に媚び、自身の立身出世を願うような議員をヒーロー扱いするような一部の取り巻き応援者は政治趣味の社会悪でもある。
悪意ではないにしろ、本来の政治家の目的や政治のあるべき姿をを知らずに盲目的に群行群止する事は避け、一人々のすがすがしい意志に立ち戻るべきである。
☆ 「小人利に集い、利薄ければ散ず」
善 意
誰にでも生まれながら善意はある。しかし現代では善悪の区別(混乱)もつかないくらい価値観が入り乱れている。
“大義を掲げて利を貪る”とはあるが“大義”が理想で“利”が現実と解釈する方が行動しやすい事も一理は有るが、“利”を貪るために“大義”を語る手合いが多いことも事実である。
同じ大義を唱えていても目的なのか、それとも“利”のための手段なのかは応援する者が“不特定多数の人々”のための政治を考えた善意が有るかどうかによって決定すると言っても過言ではない。
勝った負けたが政治の勝負なら、勝者を称え、敗者を思いやる態度が政治に志す大前提の“善意”つまり惻隠の情であろう。
☆ 「 小 富 在 勤 大 富 在 天 」
小さな富(少欲 名利、プライベート)は働くことでも生ずるが、大きな富(大欲大義 パブリック)は天意(無形の畏怖 感謝 靖献)によって有効となり存在する。
「意志あるところ必ずそこに道あり」
中野区の青梅街道に面した宝仙寺の墓地内にこう刻まれている碑がある。
ここで言う意志は立身出世、地位保全という個人の立場の“利”のための意志ではない。又、時流にうごめき右顧左眄する者の軽薄な意志でもない。
不特定多数の人々のために自らを殉じた崇高な意志がある。
この家族には連綿と続いた意志なのだろう。 意志をつなげようとする思いが碑に感じ取れる。
志には初志(しょし)が大切だ。あいまいな意志と現実の欲望との狭間に敗北する者もあれば、ささやかだが隠れた部分で貫徹する意志もある。
欲望の意志には道はない。正しい意志をもった人のみ歩く道がある。
故人は遺訓によって道を遺している、継なぐことができるのは俗利になじまない強固な意志と勇気があるものだけだ。
“現実と理想は違う”という浅薄な言葉を述べる者には問題解決も終生おぼつかない。理想とは夢物語では無い。理想こそ現実の諸問題に潜む根本的な解決の答えであるべきだ。
頭を巡らせば問題にならないことを問題にする姿勢こそ現実の大問題である。
理想とは自然や人間のあるべき姿を純真な心で思い起こす自分自身の問題である。人に恃んだり、自然に与えられるものではない。
振り返れば自分自身の心の中の手の届くところにあるものだ。
故人は絞るような思いで跡を継ぐものに託したのだろう。
碑は見るものに反省と政治の何たるかを教えている。深く刻まれた碑文のように初志を忘却せぬように超然と語っている。
故人の遠大なる理想であり、現実でもあった日本と中国に連なった人間のつながり。革命に挺身した 孫文と日本の青年有志 に対する想い。それは異民族に普遍な人間の理想を見た戸叶家の崇高な意志がある。
理想を現実に埋没する者をみるにつけ、碑文は痛烈な猛省と覚醒を促しているかのようである。
衆愚政治
おかしなことに選挙好きな人ですら“衆愚”という言葉を頻繁に使用する。 “衆愚”とは多数の愚か者であり、その愚か者の多数が多数決によっておこなう政治を衆愚政治(民主主義の蔑称)といっている。
ある議員の選挙対策では有権者を衆愚と定め運動を展開している。
学識経験者、マスコミ受けする政治家、著名人、芸能人という何ら本質の政治とは無関係な“錯覚した人格”を招致したりして庶民を惑わしたり、他候補に負けじと町の有力ボスに擦り寄ったりする事もある。
さりとて政治家の資質を主体的に観察しようとしても多数からの疎外感が先に立ち、どうしても流れに任せた選挙しかできなくなる。
将来の展望もなければ国家観もなく、しかも気が付いていても改革する勇気もない閉塞した状態を作り出してしまう。
強いと思われる方向についたり、安易なヌルマ湯の仲良しクラブに怠惰し、面従腹背の政治家の雄弁に拍手をおくり“たにまち”気分にひたる後援者を大量生産してしまう。 これこそ衆愚の始まりである。
一人々が冷静に考えれば当然判ることだが、 このような作為こそ息潜む民意からの離脱行為であり、野望により自らの意志を曲げ、当初の期待に背く政治家の輩出に盲目的に助力する罪深き後援者の姿である。
そのためには集団の中で自らの主体的意志を常に確認し、対象とする政治家の変化(変節)を自分以外の不特定多数の眼で観察することが肝要となる。
いまこそ、何の目的で政治にかかわるのか熟慮すべきです。
“本”(もと)がなければ何も生じません。政治の本は“畏れ”(オソ)と“忠恕”(チュウジョ)です。 俗世の価値に惑わされず幼子の気持ちで政治を考えたいものです。
勇気と熱情、そして私心のない提言(官民に隔たりのない諌言 政策)を添えて。
社会党ながら『今回は自民党案のほうが正しい・・』と、独り反旗をひるがえし自民党案に起立した渋谷修君。彼によって50年体制(与野党談合)に綻びが露呈し、終には社会党が崩壊した記念すべき画像である(時事通信)
《平成6年の稿ですが、ながらく小会に参加していた若手議員の姿を備忘として残したものである。その後、官房副長官となり、その頃から色紙揮毫に「意志あるところ・・」と書すようになった。青雲の志とその志操を護ろうと欲すれば辿るべき道は恩人の墓碑にあったようだ。その頃は後の松下政経塾々長や反骨の衆議院議員も参加していた》
秩父
【備忘録本文】
国家の信頼と政治の要諦は、その根本に政治家個人の崇高な目的に対する「志」いかんにかかっている。
もちろん目的も粗雑で手段が狡猾なものもいるが、どんな目標を描いたところで必ず失墜するのが常である。 いわゆる、そのような思考、感性の持ち主では何れ“声なき庶民”の嘲笑を浴びるのは当然の結果とも言える。
それを予測し、その場主義で「利用」するものもいれば、「敬遠」するものもいる。中には本来の政治が果たす役割を考えもせずファンクラブや取り巻きを気取るものも出てくる。 庶民からすれば政治の不信であり公の代表者に対する怨嗟の始まりでもある。
それでは「志」とは何か。
理想を唱えていては政治にならないとの声がある。
さも政治に参加しているようで、実際には選挙という応援の中での自分の存在感の確認のため行動し、自身の汲々としている姿の自己満足に政治があると錯覚している場合がある。 応援者は 本来の任務である議会の言論行動も理解せず、後援者、票数、資金のみを現実政治として考えているフシがある。
議員自身の資質の問題でもあるが、選挙運動において唱える(訴える?)ことは“現実の問題”の対策と“理想政治”の具現という考え方においては矛盾する論法を、“対策”を実力と錯覚し、“理想”を高潔な人物と錯覚する応援者もいれば、員数を揃えれば“乗り遅れ”を危機として煽り、支持を集める見え透いた手法を取ったりするものもいる。
最悪な状況はそのこと事体を政治と理解しているフシがあることです。
定例的な旧来の手法ではあるが、現実選挙では一番有効と思われ、しかも、抜け出したくても抜けられない貧弱な政治民度でもある。
孔子も「巧言令色、仁少なし」と述べているように、バラ色の理想を雄弁に訴えることは民衆に対する契約でもあり自身への誓いでもある。
こんなことを述べると理想と現実は違うという答えが返ってくる。
しかし大事な点を見落としてはいないだろうか。
政治は目標を多面的に見つめ、根本的に考え、将来を明らかにすることである。
多面的とは総花的ではなく大局的に観察することであり、根本的とは全ての面で公私の分別に立脚することであり、将来的とは現世の浮利、浮情に流されることではなく、自身の勇気と見識がなせるところの教育的言論をもって民情を覚醒し将来的展望を説くことである。
庶民の要求するままに官吏に媚び、自身の立身出世を願うような議員をヒーロー扱いするような一部の取り巻き応援者は政治趣味の社会悪でもある。
悪意ではないにしろ、本来の政治家の目的や政治のあるべき姿をを知らずに盲目的に群行群止する事は避け、一人々のすがすがしい意志に立ち戻るべきである。
☆ 「小人利に集い、利薄ければ散ず」
善 意
誰にでも生まれながら善意はある。しかし現代では善悪の区別(混乱)もつかないくらい価値観が入り乱れている。
“大義を掲げて利を貪る”とはあるが“大義”が理想で“利”が現実と解釈する方が行動しやすい事も一理は有るが、“利”を貪るために“大義”を語る手合いが多いことも事実である。
同じ大義を唱えていても目的なのか、それとも“利”のための手段なのかは応援する者が“不特定多数の人々”のための政治を考えた善意が有るかどうかによって決定すると言っても過言ではない。
勝った負けたが政治の勝負なら、勝者を称え、敗者を思いやる態度が政治に志す大前提の“善意”つまり惻隠の情であろう。
☆ 「 小 富 在 勤 大 富 在 天 」
小さな富(少欲 名利、プライベート)は働くことでも生ずるが、大きな富(大欲大義 パブリック)は天意(無形の畏怖 感謝 靖献)によって有効となり存在する。
「意志あるところ必ずそこに道あり」
中野区の青梅街道に面した宝仙寺の墓地内にこう刻まれている碑がある。
ここで言う意志は立身出世、地位保全という個人の立場の“利”のための意志ではない。又、時流にうごめき右顧左眄する者の軽薄な意志でもない。
不特定多数の人々のために自らを殉じた崇高な意志がある。
この家族には連綿と続いた意志なのだろう。 意志をつなげようとする思いが碑に感じ取れる。
志には初志(しょし)が大切だ。あいまいな意志と現実の欲望との狭間に敗北する者もあれば、ささやかだが隠れた部分で貫徹する意志もある。
欲望の意志には道はない。正しい意志をもった人のみ歩く道がある。
故人は遺訓によって道を遺している、継なぐことができるのは俗利になじまない強固な意志と勇気があるものだけだ。
“現実と理想は違う”という浅薄な言葉を述べる者には問題解決も終生おぼつかない。理想とは夢物語では無い。理想こそ現実の諸問題に潜む根本的な解決の答えであるべきだ。
頭を巡らせば問題にならないことを問題にする姿勢こそ現実の大問題である。
理想とは自然や人間のあるべき姿を純真な心で思い起こす自分自身の問題である。人に恃んだり、自然に与えられるものではない。
振り返れば自分自身の心の中の手の届くところにあるものだ。
故人は絞るような思いで跡を継ぐものに託したのだろう。
碑は見るものに反省と政治の何たるかを教えている。深く刻まれた碑文のように初志を忘却せぬように超然と語っている。
故人の遠大なる理想であり、現実でもあった日本と中国に連なった人間のつながり。革命に挺身した 孫文と日本の青年有志 に対する想い。それは異民族に普遍な人間の理想を見た戸叶家の崇高な意志がある。
理想を現実に埋没する者をみるにつけ、碑文は痛烈な猛省と覚醒を促しているかのようである。
衆愚政治
おかしなことに選挙好きな人ですら“衆愚”という言葉を頻繁に使用する。 “衆愚”とは多数の愚か者であり、その愚か者の多数が多数決によっておこなう政治を衆愚政治(民主主義の蔑称)といっている。
ある議員の選挙対策では有権者を衆愚と定め運動を展開している。
学識経験者、マスコミ受けする政治家、著名人、芸能人という何ら本質の政治とは無関係な“錯覚した人格”を招致したりして庶民を惑わしたり、他候補に負けじと町の有力ボスに擦り寄ったりする事もある。
さりとて政治家の資質を主体的に観察しようとしても多数からの疎外感が先に立ち、どうしても流れに任せた選挙しかできなくなる。
将来の展望もなければ国家観もなく、しかも気が付いていても改革する勇気もない閉塞した状態を作り出してしまう。
強いと思われる方向についたり、安易なヌルマ湯の仲良しクラブに怠惰し、面従腹背の政治家の雄弁に拍手をおくり“たにまち”気分にひたる後援者を大量生産してしまう。 これこそ衆愚の始まりである。
一人々が冷静に考えれば当然判ることだが、 このような作為こそ息潜む民意からの離脱行為であり、野望により自らの意志を曲げ、当初の期待に背く政治家の輩出に盲目的に助力する罪深き後援者の姿である。
そのためには集団の中で自らの主体的意志を常に確認し、対象とする政治家の変化(変節)を自分以外の不特定多数の眼で観察することが肝要となる。
いまこそ、何の目的で政治にかかわるのか熟慮すべきです。
“本”(もと)がなければ何も生じません。政治の本は“畏れ”(オソ)と“忠恕”(チュウジョ)です。 俗世の価値に惑わされず幼子の気持ちで政治を考えたいものです。
勇気と熱情、そして私心のない提言(官民に隔たりのない諌言 政策)を添えて。