まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

上皇様 台湾へお越しください。 2017 12/15 再

2019-05-02 05:39:46 | Weblog

 ようやくのことご退位の日取りが決定された

そして天皇は上皇と尊称される。  

以下は17 6月の稿です         

 

 

元号平成は来年の12月に改元されると報道があった。

今上天皇は「上皇」と尊称される。 

ときに時間軸を遠望すると、国家は断交や回復などを歴史上の様々な事情によって繰り返している。思想や経済などの形態によって、付いたり離れたりと離合集散するが、国の事情など何のその、人々は国境を越え、言語や由来にある異なる民族がそれぞれが各種の交わりをおこなっている。

 

その交わりとは、経済利交、政治詐交、男女は熱交、など色々だが、隣国の台湾は、政府は断交、人々は厚誼にくわえて義交がある。それはとみに広く、厚みを増している。

お陰といおうか、政府間断交ゆえに国内の津々浦々の自治体や友好団体が引きも切らず台湾を訪れている。それによって幾らかは外交儀礼も習熟して、本来のカウンターパートである自治体交流が、台湾外交部の対日窓口である亜東関係協会を通じて各地方政府や関係機関との交流が自主的に行われるようになった。

                      青森 平川市

これが政府間の断交関係なのかと思える活発さだが、まさに知恵を使った便宜断交だと考えれば、その関係効果も捨てたものではない。台湾側も「混沌の調和」を人の躍動とみて、往々にして四角四面になりがちな官吏の法理解釈を透過する人の関係に、あまり干渉しない鷹揚な姿勢があるようだ。

 

渡航手段だが一時、成田国際空港では中国の航空会社との共同使用に難色をしめしたために、台湾の航空会社は羽田を使用していた。都心から羽田は近いが到着地は当時の中正国際空港、いまの桃園だが、台北から40分あまり掛かった。それが台北市内、東京都心からお台場あたりの距離にある台北松山空港だと、昔の成田、中正より2時間以上短縮している。つまり往復だと4時間、手続きを入れると合計で8時間ばかりロスしていた。今では早朝便の日帰りで8時間滞在できる。しかも思い立ってパスポートさえあれば、台北の飲茶を食べ北投で温泉に浸かって翌日出勤もできる。

 

そんな台湾だが、松山に降りた途端に日本語が使える。

筆者は30年まえに西安事件の真の首謀者といわれる苗剣秋氏を訪ねて中正国際空港に降りた。一人旅だったがあの頃の方が不自由はなかった。まだ日本語世代が多かったためだ。

                          

                           苗 夫人   台北

道すがら台北中山小学校が目に入った。古老に訪ねると案内してくれるという。予約もなく校長室に通され長時間懇談して生徒の書作品まで頂戴した。それ以来、代表団を構成して毎年のように訪問している。

 

訪問団の趣旨は非生産的世代である、子供と高齢者の施設、そして法務部の矯正施設を主な訪問先にしている。台北・台南・高雄と各都市を回った。

毎回、日本における台湾の窓口にあたる台北駐日経済文化代表處の担当に各地の施設訪問希望を連絡すると本国の外交部と調整を図り、4日間の日程に交通経路、訪問時間などを勘案して精細な予定表を作って頂いている。また、訪問趣旨に沿って接遇責任者を設定し、各所では会議室を設営して効果的な会議までできる細かな調整もしていただいている。

 

訪問団も帰国後シンポジュームを開催し訪問記録の小冊子を作成する。

何度か青森の高齢者施設の参加者のために現地青森でのシンポジュームをおこなったが、駐日代表處の幹部派遣によって、近隣の自治体との交流に広がり、輸出の大部分を占めているリンゴの交易に円滑な関係を築いている。

 

               

                                                        国立中央研究所 黄博士

 

台北のみならず、台南・高雄の地方政府の交流には多くの高齢者との縁を得た。

また、矯正施設(刑務所・少年鑑別所)や、小学校の朝礼参観や父兄との懇談など、日本の施策との比較観照など、参考になることが多かった。

 

 

           以下は、筆者が依頼された講話の資料だが、参考として掲載します。

 ≪標題  台湾と皇室のきずな≫   講話のはじめに・・・

 

台湾には多くの日本語世代といわれる高齢の方々がいます。

彼らこそ当時の日本人が残置(ざんち)してきたかのような、佳(よ)き習慣性と情緒を、今でも守り続けている人たちです。

それは、美しい日本語、毅然(きぜん)とした意志、こまやかな仕草など、現代日本人が忘れてしまった矜持(きょうじ)でもあります。                             

                  ※「矜持」・・・自信をもって堂々と振る舞う

東日本大震災は、民主化を獲得した彼らの、待ちに待った、志工(ぎし)、義工(ぎこう)といわれる躍動の発露(はつろ)でもあったのです。       

台湾ではボランティアを「義務(人間として正しい当然の務め)」といい、社会的協働として人々に定着し、かつ世界に散在(さんざい)する彼らの仲間である「華僑(かきょう)」も、それに応じました。                     

※「発露」・・・隠れていたものが表れる ※「華僑」・・・世界に住み着く中華の人々

 

九州くらいの広さに2300万余の人口で、200億以上の義捐(ぎえん)金を贈っていただきました。これは政府援助だけではなく、多くの国民がまさに無我(私利を考えず)夢中で日本の被災地の人々のために熱烈運動を展開しました。

政権も、ここまで日本に対する国民の情感(じょうかん)が深かったのかと驚きました

 

なかには、「まず困るのは現金だ」と、行動する人たちもいました。

被災地では、市町村は守秘義務で住民名簿は出しません。そのため、彼らは一軒ずつ廻り、人数を尋ね直接現金を渡しました。

彼らの台湾義工(イーコン)は目的のために迷ったり、他国の制度を批判したりしません。

それは困っている人には、゛意味のないこと゛なのです。

 

その行為は、佳(よ)き頃の、日本人への懐(なつか)しみであり、「今でも教えられたことは守っています」という、台湾での日本精神(リップンチェンシン)へと語り継がれ、その精神は「勤勉で正直で約束を守る」事を意味します。行儀の悪い日本人に「昔の日本人はそんなことはしなかった」と、叱られるのもそのためです。

 

放射能が影響する県の生産地ラベルを偽装してまで台湾に輸出しようとした日本人企業の姿に失望して「あの信頼する日本人までが・・」と嘆(なげ)き、非難したのは当然の事でした。高価でも日本人が作った商品なら購入したい彼らの気持ちを大切にすべきでした。

 

その後、政府主催の慰霊祭がありました。しかし政府間国交がないため中華民国(台湾)の駐日代表は二階の一般席に案内され、一階の各国代表の指名献花にも名前すら読み上げられませんでした。

心ある日本人は最大の貢献国に対する政府の理不尽な態度に憤慨(ふんがい)しました・・・・

 

 

①   お詫びに参上した際の馮寄台代表(大使)の寛大な応答と約束

中華民国100年 辛亥革命への日本人の助力の周知

 

                 

         

➁ 翌年、40年ぶり陛下の台湾代表の園遊会招待でのエピソード

      陛下は馮駐日代表に国民の感謝をお伝えする

政府主催の慰霊祭での失礼な応接に、また陛下のおとりなしに救われた日本および日本人

 

 平成29年園遊会への福原 愛さんのご招待と皇后のご依頼

      

       準備していたお言葉  

                

 『台湾もずいぶん、東日本大震災の時なんかも心を寄せてくださったから、関係の方にお会いになったらお礼をお伝えください』 


 皇后さまの台湾の人々へのおもい

第5次訪台視察団のもう一つの秘めた目的

荘淑旂(ソウ・シュク・キ)医師を世に知らしめた、民間侍従と称された松崎敏哉記者

 

                                     

                                        亜東関係協会の昼食招宴にて

 

「女性自身」5月31日号「美智子様”3度の危機”救った台湾荘女医との往復書簡」と題して、非常に尊敬し、ご著書にも影響を受けた「荘 淑旂先生」の事が掲載されています。

 

美智子さま 交流33女医が明かす「極秘相談」

  女性自身  松崎様より提供

「美智子さまの女官から母にお手紙をいただいたのは、震災の直後でした。手紙には美智子さまのご体調のことが綴られていたのです。膝のお痛みや、手のしびれなどを切々と訴えられていたそうで……」

そう語るのは、荘安子さん。 美智子さまと長年の交流がある台湾の女性医師・荘淑旂(ソウ シュクキ)さんのお嬢さんだ。震災直後の3月、荘淑旂さんのもとに、美智子さまの体調改善のアドバイスを求める手紙が送られてきたという。

美智子さまと荘淑旂さんの交流は33年前にさかのぼる。’78年、皇太子妃だった美智子さまが、荘さんを東宮御所に呼ばれたのだ。当時、健康を損なわれ、体重が激減していた美智子さまは、荘さんの著書も読まれ、彼女に助言を求められた。

さらに‘93年に美智子さまが失声症になられたときにも御所から連絡があり、荘さんはすぐに駆けつけ、ストレス軽減の方法を提案している。

美智子さまの周囲には侍医たちもいる。だが美智子さまは、周囲にはご自身の体調異変を知られたくなかったのだろう。そこには、被災地ご訪問にかける美智子さまのお気持ちが込められていた。

《荘医師の主な療法》

姿勢を整え、リンパを刺激する宇宙体操とハト麦などを用いた薬膳料理

生活習慣の改善

   

                       

                          美智子皇后との想い出、台北荘家にて

 

                      

3月18日

訪問団 莊淑旂博士の次女である莊壽美(スミさん)、三女莊靜芬(シズコさん)訪問:       

 

荘淑旂先生の弔問が目的 (松崎敏哉さんの歓迎宴挨拶)

 

 私がこの訪問団の一行として参加したのは、以前に知り合った荘淑旂先生が去年二月に亡くなり弔問したいと思ったからです。昨日は先生の三女、莊壽美さんらと荘先生が亡くなった時の話をうかがいました。

 荘先生は中医といって西洋医学と東洋医学を学び、慶応大学医学部で学び、特に皇后陛下の美智子様がご体調を悪くされた昭和三八年から約二〇年皇后様の健康指導をしていました。荘先生がお元気だったころに、毎朝、神宮外苑を散歩して体操とか呼吸法とかを指導していました。

美知子様は当時、皇太子妃でそういう会に参加できなかったので、定期的に東宮御所にうかがって食事指導とか体操とか、日常生活でどうやったら健康になるかご指導しました。

ある人からその話を聞いて、荘先生に話を聴いて記事を書きましたが、原稿の締め切りの日に宮内庁の東宮侍従長から電話があり、宮内庁としては正式に発表したものでないので事前に原稿をみせてくれと要請があった。編集長に相談すると「そんな必要はない。宮内庁とケンカしても押し切る」と言った。

 荘先生に話したら「宮内庁とトラブルになったら困るだろう」ということで、先生は直接、記事の話を美智子妃殿下のお耳に入れました。

妃殿下は

全然かまいません、私が先生にこんなにお世話になって健康になっているのだ

から、できるだけ多くの人に先生の存在を知らせるようにしてください。侍従長には私のほうから話しておきます」といわれた。

 

美智子妃殿下から直接オーケーが出たものだから荘先生は感激した。私は荘先生のことを書くことで日本と台湾がさらに近づけるような仕事になるという思いがありました。今回、ご家族の方々にいろいろお世話になりましたという気持ちを日本人として伝えたかった。

それは、国交の事情もありますが、勝手ではありますが、皇后様のお気持ちを、お察し申し上げてのことでもあります。

 


      歓迎宴


                

                  松崎さん 取材中・・・?



参考資料

≪訪問団の施設訪問≫

《法務部矯正署台北小年観護所》 (日本の鑑別所に似ている)

施設巡回中に「ニーハオ(こんにちは)」と挨拶すると、収容者からは笑顔で挨拶が返ってくる。

多くはケタミン、アンフェタミンの薬物と少女は売春もある

 

          

 

《台北老人住宅医服務中心(センター)》 職員30名 居住者ボランティア43名

奉仕者は受付や認知者障害ある同年代の老人のお世話をしている。廉価で充実しているので海外帰住者もいる

 

          

     

《高雄市老人住宅 マンション》 カラオケは都はるみのディエットでした

まさに元日本人だ。女性は演歌、男性は軍歌を唄い始めた。なんと「守るも攻めるも・・」

日本の歌が多く、しかも上手です。御土産は日本歌謡集のCD。

 

 

《台北中山記念小学校》  (30年前から数次の訪問をおこなっている)

 朝礼は校歌・国歌・国旗掲揚  すべて生徒自治会の統率で行う

 選挙は各教室を巡回して演説を行い、当選したら部員を選任する

『校歌・国歌・国旗掲揚については、学校で勉強できるのは両親・先生・社会のお陰なので、

私たちは当然のこととして行っています』と。柔軟で賢い頭には、なまじの理屈はいらない

ようです。

父母後援会は日本のPTAとは異なり、校長先生を罷免できる。その分、我が子は社会の

一部なのだ。

     

                   

 

                 

            

生徒自治会が主宰する朝礼 上 自治会長  下 国旗掲揚と国歌斉唱

 

  

         

 《台北看守所》 (刑務所)

         

               

 


《台南政府(市)教育局との懇談》

 今までは教科の80%くらいが試験数値の評価であったが、優しさや協調など社会の順応性が乏しくなり、それを是正するために、その数値で決定する範囲を30%にした。ほかは伝統的な志行や義行の体験によって自分の位置を確認し、広い社会を知ることで特徴に合った自分の目標を作ることができるようになり、社会の広い年齢層との交流で少年期に培うべき情緒性や協調性が育ってきた。数値評価を急ぎすぎた弊害の是正が可能になった。

まさに、だれもが気づいていたが、少年期に早い流れに乗らなければ競争に負けるとの強迫観念で、学校も教員も、゛わかっていながら゛上部機関の慣性的指示や父兄の要求によって、本来得るべき側の子供たちの生理的、自然的成長のなかでこそ生まれる、他に対する情感さえ無意味なものとして粗製乱造のごとく平準化してきた弊害に気付き、優秀なる官僚の賢明な施策によって、台湾の小学校教育は変わろうとしている。

 

 

第6次訪問団

 主催 一般財団法人 国際平和協会

ご協力 中華民国外交部亜東関係協会  台北駐日経済文化代表処

    

   

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