満州にて
当ブログにも再三登場している佐藤慎一郎先生を見事に活写しているラクーンさんの章です
佐藤慎一郎先生の思い出
人生の師との出会いというものほど、衝撃的なことはあるまい。
「傭謹(ようきん)の士は得やすく、奇傑の士は得がたし」とは、世に棲む日々にでてくる古語で、平凡で実直な人はいくらでもいるが、事に臨んで大事を断ずる人物は容易に求めがたいという意味だ。拓殖大学という学びの場で、知識を教えてくれる教師という人は山ほどいたが、恩師(佐藤先生)以外に人生を教えてくれる方に出あったことはなかった。
もう大学を卒業して40年以上になる。世の中には、拓大より有名な大学は山ほどある。しかし、それらの大学で学ぶ学生たちは、人生を学ぶ機会にめぐり会えたのだろうか?人生の師と呼べる人にであったのだろうか?拓大という小さな私学ながらも、「人生の師」に会えた幸運を、ただ心から感謝したいためにその思い出を記したい。
最初の給料が⒉万円、戸惑っていると
「あなたは学生が好きなのよね、それならやるべきです、私は大丈夫です」とモト夫人は激励
知識とは活用すべきではあるが、人生の根本ではないというのが恩師の口癖であったように思う。「東洋史」という講義の中で、いつも次のように話してくれた。学生という漢字を例にだしながら、「あなたたちは、生きることを学ぶから学生なのだ。」と講義中叫ばれ、毛沢東を例に引きながら、人生という根本を忘れ知識偏重になることを戒めた。また、
「千万人と雖も我行かん」自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ、たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当ろう。千万人の人がこっちの方に行くとしても、自分が正しいと思ったら、一人でも正しいほうに行くんだという気概を持ちなさいと教えてくれた。その情熱にあふれ、学生を愛し、人に影響を与えずにいられないという命の講義ともいうべきは、30年以上過ぎた今でも耳朶から離れない。
もし、幕末に吉田松陰にあうことができたら、まさに佐藤慎一郎先生の姿に重ねあわせることができたに違いない。幕末の時代のような大きな転換期であったなら、現代の松下村塾になりえたかもしれない。松陰も論語をひきながら、烈々とした講義をしたことで知られる。恩師も、論語を引用しながら、人生の核心にもせまる話を何度もしてくださった。このブログを通じて、恩師の偉大さを少しでも伝えることができたらと思い筆をとっている。
まず、佐藤先生がいらした拓大について話しておこう。まず私が入学した昭和50年(1975年)、当時の拓大は文京キャンパスのみで、黒い学生服の学ラン姿も多く、右翼系の大学の様相を呈していた。
拓大の歴史をたどっていくと、1900年に桂太郎によって台湾協会学校として設立されたのが始まりである。日本の植民政策のもと、台湾や朝鮮半島とも密接につながり、そこに人材を排出していくための人材育成の機関的要素が強く、未開の土地を開拓し、移り住むという拓殖の理念では、普遍的な理念にはほど遠いようにも思えたものだった。大変な大学に入ってしまったというのが偽らざるべき心情だった。
先生の姉 満州民生長官竹内氏の妻 新京にて
その教養課程で、東洋史をとったのが恩師との始めての出会いだった。恩師は昭和51年(1976年)で大学を退職されているので、退職される一年前の70歳の頃にお会いしたことになる。
恩師は1905年に青森県に生まれている。小学校で教えているときに知り合った女性と駆け落ちして、満州に渡ったと記憶しているから、恩師が19歳の頃だったのではなかろうか。満州時代の話も何度かされている。馬賊は、医者と僧侶は殺さなかったため、医者に化けて旅行した話や、阿片窟に調査に行った話など。
そして、最後には、拓大で教鞭に立っている理由は、君たちの拓大の先輩が、満州平野で勇敢に死んでいった姿を見て、何故あれほど、勇敢だったのか知りたくてここに立っているという話で終わった。あまりにも多くの死を見てきて、独特の死生観をもっているように思えた。阿片窟に関しては、先生の残した貴重な本があるので、後日またとりあげようと思う。
国民党 委嘱 叔父山田純三郎
中国革命を助けた山田良政が伯父であり、孫文を助けた山田純三郎が叔父であることを考えると、恩師と中国の関わりは、必然でもあったろう。孫文が日本に亡命してきたとき、叔父たちがどのように孫文を助けたのか、よく話してくれたものだった。講義中に中国語で歌いはじめるなど、本当に中国を愛していたように思う。
敗戦で、三度、中国国民党、中国共産党に捕らえられ、入獄する。スパイの嫌疑で、死に臨んだ。しかし、牢の中でもユーモアは忘れず、牢番と冗談を交わしながら、生への希望は捨てなかった。その日は突然やってきた。
ある日、牢番が先生を呼びに来、先生に草原で墓穴を掘らせた。さすがに、穴を掘り終わったあとで、これが最後かと死を覚悟した。小銃をかついだ門番は、突然「お前を逃がしてやる。逃げろ」。先生はきっと逃げている最中に後ろから撃たれるだろうと思いながらも、必死で逃げた。数発の銃声が聞こえた。銃殺したという証拠のためだったのだろう。そして満州国は、1945年に消滅し、中国を逃れ、生きて日本の土を踏むことができたのだった。
満州経済界の雄 王荊山の遺児と
帰国後、病気療養しながら、さまざまな組織の重職を担い、1963年から拓大で講師として働き始める。約12年の間、数多くの学生に教えてきたが、ありとあらゆる死をみてきた先生にとって、拓大、いや全国の学生がイデオロギーに毒された阿片患者のようにおもえたのではなかろうか? 満州国のハルビンの中心に「大観園」という阿片窟があった。その阿片窟を調査した資料「大観園の解剖」は、恩師が命がけで書いた本であり、そこに住む人たちがどん底のなかで阿片を求め、殺し、死んでいくさまを記している。
なんと、現代の学生の姿に共通しているのだろうか? 刹那主義を求め、無力な学生は、先生にとっては、根本を失ってイデオロギーに理想を求める阿片患者そのものであったに違いない。
講義中、何度も論語や古語を引用した。「四書五経」の中の『大学』に出てくる「日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり」殷の湯王はこれを盤、すなわち洗面の器に彫りつけて毎日の自誡の句とした話をしながら、今日の自分よりは、明日の自分はさらに成長していなければならない。三国志演義からの引用もあった。
「士別れて三日なれば刮目して相待すべし。」日本では、「男子三日会わざれば刮目して見よ。」と訳されているが、男子というもの、3日会わなかったら、驚くほど心が成長しているものだし、そうでなければならない。
日本は本当の意味での独立国家とならなければいけないと良くおっしゃっていた。そのためには、自分を変え、地域を変え、国を変えていく必要があると説いた。世界の場でどうどうと国としての意見が言えない、大国に隷属した国家の姿は、先生の「千万人なれどもわれ行かん」という思想には相容れないものだったにちがいない。
教育とは、終わってから残っているものという話がある。大学で得た知識は、残念ながらあまり残ってはいないが、講義中に聞いた恩師の一言一句は、まるでテープレコーダーのように記憶に鮮明に残っている。
先生の講義を受けたが、個人的にお会いする機会は残念ながらなかった。講義室は学生であふれていたし、時折、キャンパスでお会いしても、学ランを着た生徒が数人先生を取り囲んでいて、近づきにくい面もあった。お会いしたときに、一、二度会釈をするだけの関係でしかなかったが、私の心には、永遠の心の師匠として心に刻まれている。
先生の言われた人生の根本たるものは、何なのかについては教わっていない。
天人合一思想の話もしてくれたが、それが根本だとは言っていなかったように思う。それは、松下村塾で学んだ高杉晋作が、必ずしも松陰のお教えどおり生きなかったのに似て、講義に参加した学生一人一人がどう生きてゆくかを自分で見つけることで良かったのだろう。
人生の根本は、自分で見つけなさいという遺訓であったと自分勝手に理解している。
先生の根本は、一つの思想ではくくりきれなかったかもしれない。先生の年齢に近くなってきて、自分の求めていたのが何だったのか、おぼろげながら見えてきたように思う。あの時、おそわった「日々新たに」という言葉は、いまでも心に生きていて、私をいまでも前へ前へと駆り立てている原動力になっている。
郷学研修会 にて
(直前中止) 毛沢東・蔣介石会談の直前に山田純三郎が佐藤慎一郎先生に伝えたという言葉、「孫さんがいつも言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジア民族のために協力するならアジア民族はこぞって歓迎する。慎ちゃん僕はもう年だ。世界に通用する立派な日本人を育ててくれ」
佐藤慎一郎先生が拓大で教え、学生を勇気づけ、人生の根本たるものを探せと問い続けた理由は、上の言葉に凝縮していたのではなかろうか?
全文転転載させていただきました。
写真は佐藤先生から寄せられたものを追加掲載しました。