まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

佐藤慎一郎先生の想い出 (ラクーンさんのブログより)

2019-05-07 15:56:37 | Weblog

 

               

                    満州にて

 当ブログにも再三登場している佐藤慎一郎先生を見事に活写しているラクーンさんの章です

 

佐藤慎一郎先生の思い出

 

人生の師との出会いというものほど、衝撃的なことはあるまい。

 

傭謹(ようきん)の士は得やすく、奇傑の士は得がたし」とは、世に棲む日々にでてくる古語で、平凡で実直な人はいくらでもいるが、事に臨んで大事を断ずる人物は容易に求めがたいという意味だ。拓殖大学という学びの場で、知識を教えてくれる教師という人は山ほどいたが、恩師(佐藤先生)以外に人生を教えてくれる方に出あったことはなかった。

 

            

 

もう大学を卒業して40年以上になる。世の中には、拓大より有名な大学は山ほどある。しかし、それらの大学で学ぶ学生たちは、人生を学ぶ機会にめぐり会えたのだろうか?人生の師と呼べる人にであったのだろうか?拓大という小さな私学ながらも、「人生の師」に会えた幸運を、ただ心から感謝したいためにその思い出を記したい。

 

            

      最初の給料が⒉万円、戸惑っていると

      「あなたは学生が好きなのよね、それならやるべきです、私は大丈夫です」とモト夫人は激励

 

知識とは活用すべきではあるが、人生の根本ではないというのが恩師の口癖であったように思う。「東洋史」という講義の中で、いつも次のように話してくれた。学生という漢字を例にだしながら、「あなたたちは、生きることを学ぶから学生なのだ。」と講義中叫ばれ、毛沢東を例に引きながら、人生という根本を忘れ知識偏重になることを戒めた。また、

千万人と雖も我行かん自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ、たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当ろう。千万人の人がこっちの方に行くとしても、自分が正しいと思ったら、一人でも正しいほうに行くんだという気概を持ちなさいと教えてくれた。その情熱にあふれ、学生を愛し、人に影響を与えずにいられないという命の講義ともいうべきは、30年以上過ぎた今でも耳朶から離れない。

 

       

 

もし、幕末に吉田松陰にあうことができたら、まさに佐藤慎一郎先生の姿に重ねあわせることができたに違いない。幕末の時代のような大きな転換期であったなら、現代の松下村塾になりえたかもしれない。松陰も論語をひきながら、烈々とした講義をしたことで知られる。恩師も、論語を引用しながら、人生の核心にもせまる話を何度もしてくださった。このブログを通じて、恩師の偉大さを少しでも伝えることができたらと思い筆をとっている。

 

 

まず、佐藤先生がいらした拓大について話しておこう。まず私が入学した昭和50年(1975年)、当時の拓大は文京キャンパスのみで、黒い学生服の学ラン姿も多く、右翼系の大学の様相を呈していた。

 

 

 

拓大の歴史をたどっていくと、1900年に桂太郎によって台湾協会学校として設立されたのが始まりである。日本の植民政策のもと、台湾や朝鮮半島とも密接につながり、そこに人材を排出していくための人材育成の機関的要素が強く、未開の土地を開拓し、移り住むという拓殖の理念では、普遍的な理念にはほど遠いようにも思えたものだった。大変な大学に入ってしまったというのが偽らざるべき心情だった。

 

       


    先生の姉 満州民生長官竹内氏の妻      新京にて

 

その教養課程で、東洋史をとったのが恩師との始めての出会いだった。恩師は昭和51年(1976年)で大学を退職されているので、退職される一年前の70歳の頃にお会いしたことになる。

 

 

 

恩師は1905年に青森県に生まれている。小学校で教えているときに知り合った女性と駆け落ちして、満州に渡ったと記憶しているから、恩師が19歳の頃だったのではなかろうか。満州時代の話も何度かされている。馬賊は、医者と僧侶は殺さなかったため、医者に化けて旅行した話や、阿片窟に調査に行った話など。

そして、最後には、拓大で教鞭に立っている理由は、君たちの拓大の先輩が、満州平野で勇敢に死んでいった姿を見て、何故あれほど、勇敢だったのか知りたくてここに立っているという話で終わった。あまりにも多くの死を見てきて、独特の死生観をもっているように思えた。阿片窟に関しては、先生の残した貴重な本があるので、後日またとりあげようと思う。

 

      

       国民党 委嘱 叔父山田純三郎

 

中国革命を助けた山田良政が伯父であり、孫文を助けた山田純三郎が叔父であることを考えると、恩師と中国の関わりは、必然でもあったろう。孫文が日本に亡命してきたとき、叔父たちがどのように孫文を助けたのか、よく話してくれたものだった。講義中に中国語で歌いはじめるなど、本当に中国を愛していたように思う。

 

敗戦で、三度、中国国民党、中国共産党に捕らえられ、入獄する。スパイの嫌疑で、死に臨んだ。しかし、牢の中でもユーモアは忘れず、牢番と冗談を交わしながら、生への希望は捨てなかった。その日は突然やってきた。

ある日、牢番が先生を呼びに来、先生に草原で墓穴を掘らせた。さすがに、穴を掘り終わったあとで、これが最後かと死を覚悟した。小銃をかついだ門番は、突然「お前を逃がしてやる。逃げろ」。先生はきっと逃げている最中に後ろから撃たれるだろうと思いながらも、必死で逃げた。数発の銃声が聞こえた。銃殺したという証拠のためだったのだろう。そして満州国は、1945年に消滅し、中国を逃れ、生きて日本の土を踏むことができたのだった。

          

                 

      満州経済界の雄 王荊山の遺児と


帰国後、病気療養しながら、さまざまな組織の重職を担い、1963年から拓大で講師として働き始める。約12年の間、数多くの学生に教えてきたが、ありとあらゆる死をみてきた先生にとって、拓大、いや全国の学生がイデオロギーに毒された阿片患者のようにおもえたのではなかろうか? 満州国のハルビンの中心に「大観園」という阿片窟があった。その阿片窟を調査した資料「大観園の解剖」は、恩師が命がけで書いた本であり、そこに住む人たちがどん底のなかで阿片を求め、殺し、死んでいくさまを記している。

なんと、現代の学生の姿に共通しているのだろうか? 刹那主義を求め、無力な学生は、先生にとっては、根本を失ってイデオロギーに理想を求める阿片患者そのものであったに違いない。

 

 

 

講義中、何度も論語や古語を引用した。「四書五経」の中の『大学』に出てくる「日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり」殷の湯王はこれを盤、すなわち洗面の器に彫りつけて毎日の自誡の句とした話をしながら、今日の自分よりは、明日の自分はさらに成長していなければならない。三国志演義からの引用もあった。

士別れて三日なれば刮目して相待すべし。」日本では、「男子三日会わざれば刮目して見よ。」と訳されているが、男子というもの、3日会わなかったら、驚くほど心が成長しているものだし、そうでなければならない。

日本は本当の意味での独立国家とならなければいけないと良くおっしゃっていた。そのためには、自分を変え、地域を変え、国を変えていく必要があると説いた。世界の場でどうどうと国としての意見が言えない、大国に隷属した国家の姿は、先生の「千万人なれどもわれ行かん」という思想には相容れないものだったにちがいない。

 

            

 

教育とは、終わってから残っているものという話がある。大学で得た知識は、残念ながらあまり残ってはいないが、講義中に聞いた恩師の一言一句は、まるでテープレコーダーのように記憶に鮮明に残っている。

 

 

 

先生の講義を受けたが、個人的にお会いする機会は残念ながらなかった。講義室は学生であふれていたし、時折、キャンパスでお会いしても、学ランを着た生徒が数人先生を取り囲んでいて、近づきにくい面もあった。お会いしたときに、一、二度会釈をするだけの関係でしかなかったが、私の心には、永遠の心の師匠として心に刻まれている。

 

 

 先生の言われた人生の根本たるものは、何なのかについては教わっていない。

天人合一思想の話もしてくれたが、それが根本だとは言っていなかったように思う。それは、松下村塾で学んだ高杉晋作が、必ずしも松陰のお教えどおり生きなかったのに似て、講義に参加した学生一人一人がどう生きてゆくかを自分で見つけることで良かったのだろう。

人生の根本は、自分で見つけなさいという遺訓であったと自分勝手に理解している。

先生の根本は、一つの思想ではくくりきれなかったかもしれない。先生の年齢に近くなってきて、自分の求めていたのが何だったのか、おぼろげながら見えてきたように思う。あの時、おそわった「日々新たに」という言葉は、いまでも心に生きていて、私をいまでも前へ前へと駆り立てている原動力になっている。

 

 

 

      

     郷学研修会 にて


(直前中止) 毛沢東・蔣介石会談の直前に山田純三郎が佐藤慎一郎先生に伝えたという言葉、「孫さんがいつも言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジア民族のために協力するならアジア民族はこぞって歓迎する。慎ちゃん僕はもう年だ。世界に通用する立派な日本人を育ててくれ」

佐藤慎一郎先生が拓大で教え、学生を勇気づけ、人生の根本たるものを探せと問い続けた理由は、上の言葉に凝縮していたのではなかろうか?

 

全文転転載させていただきました。

写真は佐藤先生から寄せられたものを追加掲載しました。

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佐藤慎一郎先生の風儀を、永く懐かしむ稿のご紹介

2019-05-07 14:58:31 | Weblog

    佐藤先生の叔父 山田良政 辛亥革命の恵州で殉難

          弟は孫文側近 山田純三郎

 

     山田純三郎と孫文

 

 

ラクーンさんのブログをご紹介させていただきます

 

満州大陸の阿片窟

 

 麻薬(ここでは阿片)という言葉には、死と悦楽が表裏のように存在している。

 

正に人間として、決して食してはいけない禁断の実ともいえよう。

 

 

中国の歴史では、清朝衰退時期に始まった侵略戦争からアヘンが表舞台に現れる。イギリス東インド貿易会社がインドで栽培し精製したアヘンを中国に持ち込み、その貿易取引から膨大な利益をあげ、中国を衰退させていく。国民にアヘンがいかに悪影響を及ぼすかに気がついた清王朝が、そのアヘン輸入を力ずくで止めようとしたことから始まったのが、イギリスと清朝のアヘン戦争であった。そして、アヘン戦争から約90年後、日本の傀儡国家ともいうべき、満州国が成立する。

 

 

 

太平洋戦争の頃には、そのアヘンは中国でも、すでに栽培されていたようだ。その満州国のハルビンにそのアヘン窟はあった。

 

・        

           弘前 禅林 佐藤家

恩師である佐藤慎一郎先生の書かれた「大観園の解剖」は、その当時の経済、スラング、アヘンが中毒患者に及ぼす影響などをあますことなく記してある。恩師がなぜこのような調査をしたのか、興味があって、調べてみたが、どうも満鉄調査部が恩師に依頼したか、満州国総務庁が絡んだ可能性が強い。満鉄は新しい企業であったが、国策に沿った会社であった。アメリカのCIA情報部のように、中国に関しての情報を集め、提言・報告できるほどの頭脳集団だった。調査資金も豊富で、様々な研究や調査が行われたと言う。それほどの頭脳集団が集めた情報が、大本営で活用されたかというと、残念ながら、最大限活用された形跡はない。この「大観園の解剖」もどのような目的で調査されたのかはっきりしないが、当時は機密扱いとなっている。

 

 

 

阿片は、それでは、どこから来たのだろう。その頃、阿片が中国で流通するには三つのルートがあったと言う。一つは、華北のケシ栽培農家から満州国政府が買い上げ流通するルート。二つ目は、インドから輸入して、上海、香港ルートで流れた、三つ目は、日本軍が買い上げ、これを占領地で売ったルートらしい。満州国内では、もちろん華北のケシ栽培農家からのルートが多く流通していた。ケシ栽培農家から物々交換で仲買人が阿片を購入、関東軍が守り、満鉄で運び、岸信介が専売物品に指定、甘粕が販売ルートに乗せる。さらに里見甫が上海で売りさばくといった構図だったようだ。市場の需要によっては、国外のルートも活用したようだ。

 

 

 

なぜ、それほど阿片を流通させる必要があったのかと言われれば、やはり軍資金の調達であったろう。軍を保持することは、膨大な金がかかる。当然、その調達先として、阿片は軍にとって「金の卵」的な物資だったと言ってよい。いわゆる、阿片は関東軍、満州国の専売だった。国際条約では、阿片の売買は禁じられていて、取引はできないことになっていた。だから、表では麻薬を禁止とし、裏では麻薬の取引で莫大な収入をあげていたことになる。意外と知られていない満州国の暗部であった。

 

 

 

大観園の解剖」に書かれてある資料は、散文で書かれてあるのではなく、本当の統計資料のように価格やら純度、またその「大観園」の区画になんという名前の誰がどういう生計をたてて住んでいたかまで書かれてあるがゆえに、現実的にせまってくるのだ。死んだ男の衣服までが、闇市で売られアヘンを買う代い金になっていく経緯は、背筋が寒く鬼気迫るものがあった。満州のハルビンにある傳家甸の大観園というところは、まさに「どん底」にうごめく人々の魔窟であり地獄でもあり、麻薬が効いている人にとっては桃源郷でもあったのだろう。あまりに詳細に書かれてあるため、1942年(昭和17年)頃のことなのに、その風景がまざまざと想像できるほどだ。

 

 

 

麻薬に関して書かれた書物は数多くあるので、その方面の知識を得ようと思えば、いくらでも知ることはできる。当時、人々がアヘンを始める動機はさまざまだった。肉体的苦痛を逃れるため、精神的苦痛かれ逃れるため、疲労回復のため、不眠症を治すため、悪戯から、つきあいで、売人や売春婦から勧められて、食事をしなくとも空腹を感じないので痩せられる、性的快感を得たいためと数限りない。70年以上も経つのに、現代の人たちが大麻や覚せい剤を始める動機と、あまり変わらないのではないか。動機はなんであれ、いったん入り込むと、阿片の世界からは抜け出せない泥沼が待っている。(ちなみに、刑事物の映画やドラマで、上物かどうか確かめるためアヘンの白い粉を舐めるシーンがあるが、あの動作でも、間違いなく常用患者になるので注意。)

 

 

 

1940年当時、アヘンの摂取方法は、飲む、喫煙、注射、嗅ぐ、膣や肛門の粘膜からの吸収などがあったようだが、一般的でもっとも効率的な方法は喫煙だったろう。阿片土を少しずつちぎってはねり、長いキセルの丸い口にすりこむ。アルコールランプの炎に近づけて、一口吸い込むと円い取りつけ口の所から紫色の煙がぱっと舞い上がる。しかし、麻薬を吸った最初から、素晴らしい桃源郷が待っているだろうと思っている人がいるとしたら、それは大間違いだ。むしろ、眩惑、嘔吐などを引き起こし、人によっては快感などまったくない。

ところが、数度くりかえすと、ちょうど繭のような安心感につつまれる。眠っているようで、眠っていず、体がフワッと浮くような陶酔感であり、夢の中にいるような世界。自分自身の天下で、何でもできないものはないように思える。ヘロインを吸って2時間後には、射精寸前のとろけるような絶頂感に似たような快感が下腹部に持続する。セックスで長い時間持続する、最長で17時間という記録もある。以上が吸引して3ヶ月くらいまでの症状である。セックスのみならず、さかんにマスターベーションをしても快感が持続する。

 

 

 

個人的な体験だが、私がフィリピンに駐在していたころ、バーで酒を飲んでいたところ、近くにいた日本人らしい男が突然、股間に手をやりながら床に寝転びマスターベーションし始めびっくりしたことがある。まわりにいるフィリピン人たちは、好奇の目で見て苦笑いしていた。どうも、こういったケースは何度か以前にあったのうだろう。同じ、日本人として恥ずかしいと重いながら何故、このようなことをするのかわからなかった。しかし、今思えば、阿片か覚せい剤の影響ではなかったろうか、と今考えている。

 

       

        台北 忠烈祠

 

6ヶ月を過ぎたころになると、症状に少しずつ変化が現れ始める。セックスの回数より、一回のセックスの持続が長くなる。現代だったら、バイアグラを服用しても同じような効果が望めるかもしれない。ただし、セックス終了後、長時間の熟睡が必要となり、さかんに喉が渇きはじめる。ただ、あまりにも精力の多くを消耗するために、セックスの最中に、腹上死の可能性が強くなる。

 

 

 

さて、アヘン使用から1年から2年後たった頃になると、一度のセックスの時間が、2時間から4時間と長時間なる。この頃から、アヘンを、継続使用していないと、次のような禁断表情が現れる。時間の経過で現れる禁断症状を記してみた。

 

 

 

12時間後の禁断症状

 

症状としては、まず不安感が増す。あくびを連発する。副作用として、性器は勃起作用をともない、3~4日で全精力を使いはたす。虚脱感のあとには、嘔吐・下痢を催し、全身的疼痛を覚える。やがて、震え、発汗が起こり、水っぽい分泌物となって目から涙、鼻汁がとまらず、まるで体中の穴から水分という水分が抜け出ているような感覚に陥る。中毒患者は、骨と肉の間に風が入ったような気がするとか、骨を鳥の羽根でこそぼられるような感じがして我慢できないという表現を用いる。やがて、不眠症がやってくる。寝返りを何度となく繰り返し、眠りたいのにまったく眠れない状態が続く。

 

 

 

24時間後の禁断症状

 

その禁断症状がもっとひどくなる。瞳孔を大きく開き、毛は逆立ち、肌は冷たくなって、鳥肌が立つ。お腹の表面は、意識せずとも波うち。腹の中で胃や腸が収縮し、蛇でもいるように暴れ始める。腹痛で急に痛みが増し、しばしば血を含んだ嘔吐する。しょっちゅう便意をもよおし、水っぽい大便を何度も、大量に出す。

 

 

 

36時間後の禁断症状

 

寒くて耐えられなくなり、ありったけの毛布で身体をくるむ。身体に痙攣がはしり、無意識に足で蹴る。眠れず、こむらがえりもおき、絶えず寝返りをうち歩きまわり、心も身体も休まらない。身体中から水っぽい分泌物が流れつづけ、毛布、身体とも嘔吐物と糞尿にまみれる。食事も水も取らない状態が続き痩せていく。

 

 

 

この地獄のような禁断症状を、たった一度のアヘンの一服で、抜け出すことができるのだ。この禁断症状から脱するため、また、禁断症状にいたらないために、まず責任観念がなくなり、嘘をつくことが悪いと思えなくなる。かっぱらい、殺人を平気で犯して、一服の阿片を入手しようとする。また、三途の川に住む奪衣婆のように死んだ亡者から、衣服を剥ぎ、衣服と引き換えに、その日のアヘンを求める中毒患者の日常が本の中で描き出されているのである。

 

        

        後列 右 佐藤先生  前列右 頭山 満翁



松本一男氏が書いた「張学良」という本には、阿片について、こういう記述がある。

 

「阿片は人間の嗜好物の中で王者である。経済的には高価であるばかりでなく、精神的にも最もぜいたくなものである。阿片吸引の後、かれらは完全な陶酔境に入って、熟睡する。熟睡の前には、弛緩しきった肉体は、すでに一種の麻痺状態にあるので、セックスの時にも、だらだらといつまでも持続する。阿片吸引者が、性的な面でも人一倍醍醐味を味わうと言われるのはこのためである。吸った後の完全な陶酔にくらべると、吸引の間は、精神的にはとぎすまされている時間である。ふだんは痴呆じみた者でも、この時には精神は集中され、理解力や想像力はとても豊かになる。阿片を吸いながら、政治家は難しい権謀術数を思い立ち、商人は、新しい金儲けを考える。」

 

 

 

さて、具体的な人物を例にとってみよう。張学良の父であった、張作霖も阿片を吸っていたようだが、列車爆破で暗殺された。息子の張学良も吸っていたのは間違いない。本によっては、張学良が自ら阿片を止めたことになっているが、それはありえなかろう。実際は、満州事変が始まった頃に、北京にあるロックフェラー財団病院で阿片中毒の治療を受けて、阿片とは縁を切ったようだ。それに比べて、ラスト・エンペラーであった溥儀の妻となった婉容は、麻薬のため悲劇的な末路をたどることになった。結婚当時は、満州で最も名高い裕福な娘と溥儀の結婚と言われたが、溥儀が両性愛者であり、日本軍部の傀儡となっていき、ますます、阿片にのめりこむようになる。さらに溥儀の運転手と不倫をし、子供を産むが、死産になると、ますます現実逃避するようになった。

 

ラスト・エンペラーには、婉容の禁断症状について下記のような記述がある。

 

「もはや阿片は手に入らなかった。婉容があまりひどく泣きわめくので、ほかの留置者たちは『そのやかましい女を殺せ』と叫び続けた、と浩は書いている。警察官、党幹部、一般住民が『まるで動物園にでも出かけるようなつもりで』やって来て、婉容の狂態を見物した。<中略>数日後、浩はコンクリートの独房の格子窓から、婉容の姿をちらっと覗き見ることができた。彼女は意識を失い、糞尿と嘔吐物にまみれて床に伸びていた。彼女に何か食べる物を持ってやってくれ、と浩は看守に頼んだ。『何だって?あの臭い部屋へ入れっていうのか?とんでもねえ』と看守は言った。」

 

引用箇所で、浩(ひろ)と書いてあるのは、溥儀の弟である溥傑の妻となった、嵯峨侯爵の娘のことである。

 

1946年六月、栄養不良と阿片の禁断症状の結果、婉容は四十歳で亡くなった。

 

 

 

それでは長期間、常用するとどうなるのだろうか?まず、決断力がにぶる。記憶力は低下し、もの忘れがひどくなる。食欲はなくなり、身体は弱り、声は涸れる。便秘がひどくなり、女性は月経がなくなり、不感症となる。男性は皮肉にも、性的不能になる。歯ぐきが腐っていき、肺炎、肝臓の病気が合併症となる。日常生活が営むことができなくなり、内にこもる心身症のようになる。明るい光が苦手となるが、聴力と視力は鋭敏になる。目覚めている間も幻覚になやまされ、寝ていても悪夢に悩まされる。ハルピンでは、年間二千人以上の麻薬中毒患者の遺体が、裸で路上に放置されたと言われる。着ていたものは、他の阿片患者の阿片代として、泥棒市場へ売られた。

 

 

 

佐藤先生は、自分が調査した満州国のアヘン窟を上記のような表現で講義中によく語ってくれたものだ。誰も知らなかった、満州国の闇の部分であった。学生に対する愛情が誰よりも深い先生だったので、学生にそうなってはいけないという意味で話してくれたのだろう。アヘンは身近では無いにしても、無気力、イデオロギーという麻薬は、現代でも日常にはびこっていることに警鐘を鳴らしたかったにちがいない。

 

 

 

この「大観園」のあった場所は傅家甸(フジャデイエン)と呼ばれていて、森村誠一の新版「悪魔の飽食」にも一部でてくる。関東軍の防疫給水部、悪名名高い第731部隊の機密保持のために、その実態を探ろうとする者を抹殺する場所の舞台だったという。また、山口淑子の自伝にも一部だけ、怖い場所という形で紹介されていたようだ。

 

 

 

また、アグネス・メドレー著の「中国の歌ごえ」という本にも、傅家甸がどんなところだったか一部説明がある。ただ、場所の漢字が伝家佃となっているが、発音が同じフジャデイエンなので同じ場所だろうと思われるので引用してみよう。

 

―ハルビンの古い中国人街伝家佃で、山東省や湖北省から長城を越えて移住してきた乞食に百姓女たちが、街をあるいていく私のあとをゾロゾロついてきた。彼女たちは、きたない綿入れ上衣のお腹あたりのところに赤ん坊をくるみ、私のまえの凍てついた舗道に跪いて、さけぶのだった。-「お恵み下せえまし!おくさんがお金持になりますように!

 

私がかまわず歩いて行くと、彼女たちは叫びながら、どこまでもついてきた。そのうちに、一団の子供たちが私の前に走り出て来て跪き、自分の頭を氷にうちつけてもの乞いをする。(中略)二列になった兵士のあいだには、毛むくじゃらな蒙古種の子馬にひかれた車がゴロゴロと音をたてていて、そのうえには二人の囚人が両手をうしろにしばられて座っていた。(中略)それぞれの背後にはせまい板がおいてあって、そのうえには囚人の名前と、彼らが処刑される罪名とが書いてあった。

物見だかい男たちや男の子どもたちが、走りながらその後をつけていた。伝家佃のそとがわには、ぽかんと見とれている群衆のまえで大っぴらに囚人の首をはねるひろい空地があった。はねた首は、しばしば籠のなかにいれて、みんなの見せしめにつるしてあった。(中略)私の案内人の学生は、世なれた人間のような様子をして、そのひろい見聞の一端を洩らした。-「吉林へいきますとね。匪賊が首をはねられると、匪賊にころされたひとの親類縁者が寄ってきて匪賊の心臓をえぐりだし、それを食べるんですよ」

 

 

 

佐藤先生の書かれた「大観園」と、こういった資料を読んでゆくと、その当時のハルビンが想像できるようだ。今、中国のハルビンのアヘン窟があった場所に、昔の面影はなくなったと聞いている。しかし、アヘンが主流でなくなったにしても、日本では、若者に大麻汚染が広がっていると聞く。どんな時代でも、人間の心の闇の部分は、60年前と変わらず、あり続け、麻薬、薬物汚染は変わらず存在し続けるのだろうか。

 

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