まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「八百長」寄って たかって  11. 2/6 あの頃も

2017-12-26 10:05:59 | Weblog

 

直にして礼なくば則ち締なり

いくら己れが理があり正しいと思っても、他との調和(礼)がなくては、いずれ自らの身を締めることになる

締める……自由を失くす

 

野次馬は「寄って、たかって」

また相撲が騒がれている
切り口の違う食い扶持立場の論が飛び交っているが、成文法を基とする総理までもが言い繕いのコメントを述べている。つまり八百長は悪とのことだ。
口を反すような騒ぎも同じようだが、機密費を政治記者や評論家にばら撒き、与野党では忖度談合が浜の真砂のように絶えることが無い彼等のことである。

八百長はテレビや新聞も大声で非難できない。
江戸の瓦版根性が抜けず、販売店への押し紙と称して部数をごまかし、広告費を掠めることを八百長といわないまでもパワハラ恐喝詐欺である。官吏に電波利権を握られ、最も大事なことを伝えず、お笑いとグルメに堕し、広告主から縁故採用などは八百長ではないが公的立場を付与されたものの便宜供与である。社内コンプライアンスで臭いものに蓋をするかのように社員の自縛を推奨することが、公器と冠された企業のすることか。

エジプトの若者の鬱積のもとは、まさにこの状態を指しているのである。

百歩譲って、内なる掟、習慣は表に出れば成文法(法律)に晒され、弁護士やコンサルタントの餌食になることは先刻承知のはず。ビロウなことだが、男女の房中の秘めごとや家中の習慣性や決まりごとも表の平準化という虚構に晒されれば、変態、異常になる。屁理屈ではない、己に降り掛かればそうなるのである。ならば内なる行為は総じて非難されるものなのか、ことはその世界を見るものの分別、峻別なのである。

公私の問題であれば「公私の間」の弁えに人は信頼をみるのであって、私的な内なるものの無謬はことさら騒がれることは無い。ただ、嫉妬は別物である。




                 






相撲界をみれば、まさに内憂外患である。
子供の悪態に難渋する親心も、外に出れば親の躾け方が悪いと私的事情まで穿り出される浮世であるが、吾が身を探られたら世の新しい趣向が騒がれるまで、止め処も無い他人の悪態に晒される。相撲界の親方と弟子、家庭の親子、夫婦と様々な相対もあるが、官吏、政治家、国民の三角関係は「生涯賃金」「利権名誉」「おんぶに抱っこ」と、どれかが譲らなければ解決できない混沌とした状態だ。

とくに官吏の組織と法の庇護は垣間見ることができないくらい複雑な伏魔殿の様相だ。
裏で何が行なわれているか、まさに秘匿の掟と便宜供与の習慣性である。
そもそも、法律では括れない問題でもある。

だからガス抜きのように、時おり噴出すれば騒ぎ立て、狡知に長けた官吏から「証拠があるか」と反発され、ただ騒ぎ立て、飽きれば鎮まるのだ。とくに諸外国のように大衆運動によるデモ、動乱にはならないのは気概のなくなった個別の人間の問題もあるが、彼等、官吏の身分によって構成され、安逸とした安定食い扶持に堕した総体を「国」と仮借して、法を盾に国や社会という名目を護持する治安組織もその一群であろう。

ことは国家の八百長や詐欺のことではない。

法人といえど、営利商業興行の雇用力士同士の連帯と調和の種だが、前記の群れ同様に倣い続いた日本人の情緒では口角泡を飛ばすことでもなかった。
国会でも大の大人が「泥棒」「詐欺」「八百長」「脱税王」と、互いを悪しざまに熟議?をしているが、慣れ親しんだ怠惰な抗論は国民の嫉妬や怨嗟の解消の一助になっている。
それが、国会であろうと内なる掟や習慣と認知している国民の諦観でもろう。

表に出れば第三者の非難に晒されることは、何処にも誰にもあることは分かっていた。
それは、「相撲という世界の話」だからだ。それは稼業人と素人やカタギという分別でもあった。それは相撲に親しんだ者たちのホドのある見方だった。
なぜなら、常人と違う大男が裸にフンドシ一丁でぶつかり合う見世物をみる表世界から遊離した遊びであった。試合やスポーツでとは考えなかった

ただ、近頃は芸人もスポーツも金になり、それに憧れるものは浮俗の見世物へ妙な想像と観念を抱くようになった。それは営利興行にとっても都合のよい受け入れ基盤でもあり、また、それに合わせるように相撲界も変質して世情の虚構軽薄に沿うようになった。
それは彼等の懐具合を潤おすことになった。










               






稼業の話だが、鳶の古老が
「あくまで旦那がいて俺達がいる。ちかごろは半纏も着ずに背広を着て御上から褒美を貰うようになると、ドッチが旦那かわからなくなってきた。江戸時代からの火消しは身体を張った稼業ゆえ、世間と違った掟があった。それは侠客のそれに似ているが、あくまで稼業違いは峻別している。ある意味では旦那衆を支える裏稼業でもある。だからドブさらいや塵芥の片付けも頼まれれば出かけていく。たが、一旦火事にもなれば、女を抱いていても、好きな博打の最中でも飛び出していく、だから世間はある意味別世界の人間たちとしてみていたが、やんちゃをしても蔑まれることなく生きてこれたのだ・・」

食い扶持や懐の具合は其々だが、いちいち世間から言われたくは無い。たとえ梯子に乗ったり、曲芸紛いに見える技をするが、そのときは近頃の風呂屋ではご法度の刺青も大手を振って魅せられる。役人もお巡りさんも拍手してみている。旅行に行けばチンチロリン、花札は付き物だ。御法では博打だ。赤半纏を着て素人には分けもわからない木遣りを詠っているが、表の形式では相撲と一緒で女は穢れだ。今どきの法からすれば御用だが、うちらが昔から繋げている義理や人情やオトコのヤセ我慢は「粋」だとか言って面白がっている世間だ。替わった物、妙な風情が無くなったら、つまらん世の中になる」

その世界、つまり「界」は分別として棲み分けられていることがよく解る古老の語りだ。

「女が土俵に上がれないと女の大臣がケチをつけたが、御法との境もわからなくなったから覚悟も無い素人がバッチをつけるようにもなったのだ。あそこも特別な場所なんだ。だから矢鱈ご政道には口を挟まないのが、ワシらの生き方なんだ」

なにも御法で括って駄目だと野暮な連中が言うなら、途切れるのは惜しいが辞めるだけだ。あとは知らねぇこった」








               

               白神




あの江戸時代でも士農工商という身分があったが、相撲はどの位置にあったのだろうか。
一昔の横綱の立ち姿は刀剣を持っていたから武士なのだろうという声もあるが、神事の五穀豊穣祈願に厄を祓うために神楽が刀を持って舞うのは農民である。奉納土俵入りも太刀持ちを随えて拍手(かしわで)にある大手を広げて神招きの神事を行なっている。もとろん四股を踏むことも大地の神への鎮まりの祈りである。

五穀豊穣は天と地と人の勤労を添えて「産む」ことでもある。結婚の「結び」は神道では「産霊」と書き、その意としている。相撲にもどれば古話にタイマノケハヤとノミノスクネが神事を行なったとするが、当時は談合の調和だった。ガチンコで争って血でも流れれば、それは穢れである。忌まわしいことだった。

つい最近までは横綱の免許は吉田家の専権だった。いつごろからか相撲は国技と称するようになった。日本だけではないモンゴルもその意味では国技として親しまれている。国技は、国ひとの国戯、つまり習い覚えた戯れなのだ。
あの勝ち誇って両手を挙げて舞う姿は朝青龍が賞賛を受けるときに、その倣いを観ることがある。褒美は羊であり我国は米だった。

一方はモンゴル帝国の末裔だが、当時でも戦争がなければ遊牧民である。日本でも普段は農耕の民であり戦いがあれば足軽となって武士を凌ぐ戦闘をしている。相撲も神事と格闘技の両面を具えていた。いや、その境を云々するが、当時は曖昧ではなく迫真ともいえる姿だった。

これが神事例祭の街場における談合花相撲興行から商業相撲になると税金の投網にかけられるようになる。当時は運営者の縄張り場代である。それが体裁もあったのか掟や習慣によって成り立っている相撲興行を税の恩典を得るために法人化すると、関係法の適応が求められるが、最近の世情の覗き、嫉妬、怨嗟の対象が、風容異質さゆえの相撲界に、コンプライアンスという流行ものを盾に騒ぎ立てるようになった。

以前はプロレスも談合があると騒がれたが、あくまで私的興行団体ゆえに騒がれることもなければ、検察OBやマスコミの大物を屏風にすることはなかった。
世間は髷を結った大男が麻薬や八百長の発覚にうろたえる姿を恒例のイベント風に見るようになってきた。発覚と書いたが裏から表に出たまでのことだった。ことは、余りにも大げさに騒がれるために気を向けるのであって、まともに考える余裕のないご時世ゆえ、内心は、゛一時の大人げのない騒ぎ゛とも思っているのではないだろうか。






              

               岩木




政治家の宴や官製イベントにモノ珍しいゲストとして力士を招き小遣いや祝儀を渡すが、彼等の『ごっつぁん』に仔細な税を問うものはいない。問うことは野暮なのである。

野暮といえば、敢えて監督官庁も棚に上げている八百長や談合もある。中曽根臨調とい行政改革があったが、財団、社団と称するものが、それまでの数十倍増殖して目の届かないところで国費補助金の浪費が堂々と行なわれるようになった。また或る官庁では課長は五箇所の天下り先を増設する狡猾な技量が求められるという。これは八百長臨調と言って憚らないOBもいる。

これは「法律に基づいた・・」という談合であるが、彼等の世界では掟と習慣に基づいた陋規(狭い範囲の職域などの陋法)であり、憲法を元とした法律や公務員法にその遵法規律にはない。いや、表に出ても犯罪にはならない。摘発すべき治安官庁も同類だからである。
掟や習慣であるゆえに、同類は舐め合うとするなら、相撲界のそれは騒ぐに値しない

騒がれても、軽薄になった政治家を手玉に取る連中は「カエルの面に小便」と装える狡知がある。しかし身体が大きいからと童心が残る世代で入門し、退いてもその世界で営みを持ち、終生尽力する力士にはその狡知はない。まわし一本で禄を食みオトコを上げる力士の、そのフンドシであるまわしを取り上げ、善いか悪いかと突き詰めて何か世のためになるのだろうか。

真っ当な警察官も裏金領収書を書かなければ晒し者であり虐めもあろう。それは上司の命令ではなく習慣の倣いとして大方は看過している。たとえあっても、それ以上に善いお巡りさんになって欲しいと願っているのである。表裏とはそのようなものだ。たとえ理不尽だと思っても掟に随わなければ疎外されるのは力士も同様だ。
おおよそ体育会系は先輩に愚直である。そうでなければ警察官も力士もヤクザにもなれない。ある大学の同窓会に集まると呉越同船で、関取になった、警部になった、組を持ったとイカツイ男たちが破顔談笑している。みなその世界に生きている。
中には東大法学部出身の検事が同級生の巨悪といわれる政治家を逮捕して、先輩裁判官が裁き、弁護士は検事と同級生だと笑えない話がある。みな事件という雲の世界の「出来事」で食っているのである。

翻って八百長が賭博に関わっているという疑惑がある、・・・という。
この世界も損得承知の上だが、ことは暴力団の資金源となっているという。
近頃は、博打を稼業とする博徒、テキヤといわれる紳農組織もシノギという稼業収入の境がなくなり表稼業にその道を求めるようになったという。

この稼業にも掟や習慣がある。
「強きを挫き、弱きを援ける」が、この稼業の生き方であり華だった。
いまでも多くの侠客といわれる人はその気概をもっている。そして裏稼業と自認している。ただ、表に出たために裏では普通だが、表では受け入れられない異質なものとして疎外されているのだ。ひと繰りに暴力団と忌諱されるが、これは表の用語である。

次郎長や国定忠治、御用十手持ちの岡っ引き親分や人の好い三下奴は日本人にある残像だが、「ふと」と称する貰い下げ不処分のような人情の潤いとしての頓智はなくかすれている。つまり四角四面の表だけでは社会は動かないことを庶民は理解しているのだ。大岡裁きや遠山金四郎の刺青も歓迎されているのもそのせいだろう。

もともと庶民には法規は無かった。
水戸黄門の印籠は超法規ではなく、武士の陋規である身分の分別維持の為に欠かすことのできない敬重(畏敬)という形で繕う武士組織参加の許意のようなものだ。
年貢納税や一揆、あるいは押し入り、殺人などの凶悪犯以外、工、農世界のその地域なり組織を緩やかに維持してきた掟や習慣には立ち入らなかった。それを司ったのは名主や地主、大家といわれる地域の長(おさ)だった。もちろん義心ある侠客もいた。

それが、医者、校長先生、お巡りさん、に替わり、いまは弁護士であり、最近はパソコン情報となったが、落ち着きの無い社会の騒がしさは増大した。
それは、人から人へ倣うことが無くなり、教師も経師教員となり人間の師となる「人師」がいなくなり、学校も単なる安定食い扶持の保障機関と成り下がった。
※「経師」とは、紙に書いた記述を読む教員

表の揉め事は警察が担い、政治家が欲の交差点を合議という言葉によって調整した。つまり裏の陋規に対して、清規である法律によって表の社会を治めている。ただ、前に書いた表の社会の職域なり各組織にも、垣間見ることもない内面には法には馴染まない掟や習慣がある。これが表に露見しなければ、その陋規は守られる。また露見しても力関係で不問にもなることがしばしばある。それは棲み分けであり阿吽でもある。

阿吽とは「天に唾」して己の内面を探られたくないための頓智でもあろう。力関係とは忖度する関係と理解すればいい。

そこで八百長だが、認可法人の理事長が管轄文部省の政治家(政務官)にお詫びに行くという。総理大臣まで国会で事件を語っている。いまはギスギスしているが与野党国会こそ出来レース(八百長)を国民に見せ付けてきたところはないと考えるが、如何か・・・
いつの世でもそうだが、「下は上を見習う」中国の古語に借りれば、
上下こもごも利を獲れば、国 危うし」といっている。





              






生身の世界の裏表が混交混濁した世相であり、秘匿したものを敢えて引っ張り出し、寄って集って、しかも口舌稚拙な老齢な大男に頭を下げさせる日本人の情緒はどうなっているのだろうかと心配になる。

「分」を声高に叫ぶが「分際」の分別も極みもなくなった。
暴力団といわれて久しい彼等も侠客と讃えられたときがあった。吾が子の祝儀にも立場を控えて出席しなかった人物がいまでもいる。棲む世界は違うが、表裏を峻別した傑物が存在する。官吏が民の世界にパラサイトのように巣を増殖しているが、庶民は幾ら目隠しをされても官の裏世界を知っている。なぜなら、今どき彼等の身分となった立場の内部陋規と民生社会を峻別しているからである。

だだ、食い扶持が乏しくなったから安定職である公務員を目指しているのである。
生涯賃金を計算して金持ちになるのは官吏がいいと思っているだけなのだ。
だから相撲界同様に認可法人である私学校に大金を寄付したりして商業教育に吾が子を投入したり、監督官庁の官吏の専権に便宜を願ったりするのだ。

あの時、力士会の長である横綱の白鵬の姿と心情を忖度かつ感動して、陛下みずから書簡を下した。その関係のもとにある忠恕と期待は大仰に騒ぎ立てる一群の罵声にかき消されている。

相撲界は表の清規である認可件と優遇の監督下には馴染まない。認可を取り下げても充分運営ができる組織ができる筈だなにも相撲は「そうゆうもの」としてのみ見るものではないが、先の陛下と白鵬の逸話に、「のこった、のこった」が光として期待できるのである。

法に照らせば悪いものが鮮明になる。国会議員のように法の裏技を使うことを見習うことは無いが、掟や習慣性を問われるなら、それを以って維持できた効も論じなければならない。要は表裏に照らしても共感する問題はあるということだ。その中で論外のものを穿り出して騒いでも論外は「理」に値しない。

書き重ねるが、日本人の表裏に共通して涵養され流れている「理(ことわり)」、つまり情理を毀損するものを除外することはもちろんだが、その情理を感性で自得し体現し、その良なる基となる陋規を納得した異民族の白鵬という長(おさ)に対し、その姿に普遍な情理を観た陛下の忠恕は国民に向けた「考え方」「観方」の促しであると考えられないのだろうか。

相撲にコンプライアンス、どうも腑に落ちない感じがする。
ここは政治家、官吏という表にも馴染まなくなった関係を返上して、純で善なる陋習の在りようが如何に生活実利に必須なものかを肉体化した精神で具現したらどうだろうか。
力士達が見習うべきは、自らの鏡となるものを自得した群れの長(おさ)であろう。

熱狂と偏見が過ぎ去った後、鎮まりの中で正邪の判別を問うべきだろう。
ときに土砂降りのような罵声に低頭して、木鶏のようになったらいいだろう。
罵声は、ときに寝覚めの悪い情態と、苦い汁を己が飲まざるを得ないことになるだろうと、日本人なら判るはずだからだ。

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