孫文の妻であり革命の協力者
昨日の一章に高杉晋作が言ったという「女房を敵と思え」に早速応答があった。
その前回には性別の交換は「潤い」とも記した。
「女房を敵と思え」への反応は不思議と男子からだった。
曰く、家族崩壊、女性蔑視、と様々だが、応えに窮する場面だ。
ここで逃げ口上だが、山岡鉄舟の真筆に「私することを忍び以って大業を行なう」「私」とは横文字ではプライベート、逆は「公」だ。孫文の「天下、公の為」は有名だ。
「大業」とは大欲、小欲は「小業」だ。その意味は不特定多数、或いは国家、社会への貢献だ。
天安門事件のあった広場には学生達が「天下、公の為」とスーローガンを掲げ、「官倒」と大書されたプラカードとともに広場を埋め尽くした。
あの砂のような民とたとえられ、利己主義で纏まりの無い民族のように見えるが、どっこいデモのゴミは片付けるし、整然と行なっている。しかも100万人でもである。
日本でもメーデーなどでデモがあるが、スローガンは、゛待遇改善゛゛権利獲得゛の小欲小業が多く、自治労官吏や教職員が主たる先導で、結果現在の在り様である。しかもデモのゴミは片付けない、出ズラと称する日当を支払ってその他一同のエキストラよろしく町の職人さんや学生を動員して気勢を上げている。
天安門の学生はその結果、多くの死を以って世界史にその姿を記し、尊い血を代償にした行為は、後の東欧の独裁国家や大国の楔をも払う先導として勇気を示してくれた。
たしかに北京大学など、一人っ子政策で大切に育てられた学生の已むにやまれぬ決起だったが、多くの親は中国の未来を示すその行動に賛意さえ示している。
「止めてくれるな、おっかさん」とは学生運動華やかな頃の日本だが、中国の強大な国家権力に向かって、その根幹を揺るがす行為を、黙って認知する親心を鎮考せざるを得ない。
それは、学生達が将来活躍するであろうグランドを自らの手によって作ろうとする行為には沈黙せざるを得ない実利的説得力だろう。
「大富在天」「小富在勤」中国にはこんな訓語がある。
小さな富の欲求は働くことで得るが、真の大きな富は天恵に随って得ることができる。
日本人の徳目には勤労があるという。
しかし、これを活かし国家の繁栄を願うとき、誰にその任があるのか。
人は政治家、官僚、宗教者、教育者だという。だが憲法の大願目には、このような任にある人々は「人間の尊厳」を毀損する権力を構成する人々ではないだろうか。
ことさら職務の細目や数値成果を云々するものではないが、彼らに私欲を滅して大業を行なう自覚があるのだろうか。
つまり、庶世に息潜む無位無官の人々が政治にリンクせざるを得ない、あるいは官吏の無作為に手をこまねいている状況に、世界史に刻まれた栄枯盛衰を倣いとすれば、草むらの隠者(草莽の士)が、不特定多数の将来に危惧を抱いたとき、その行動は「特定の関係」にある、家族、親類を分別し、不特定に身を置かなければ大業は達せまい。
財政が窮したとき松代藩の恩田木(もく)は妻に離縁状をしたため、山田方谷は女性の華美をたしなめ、庶世では吉良の仁吉は助っ人の次郎長に覚悟を示す為、三行半の離縁状を書いている。
不特定多数への貢献は、ときに肉体的衝撃を伴う。特攻隊の若者もそうだった。
捨てなければならないものがある。命であり最愛の家族もある。
それは、たとえ小さな郷村でも国家でも「覚悟」と「犠牲」の上に刻まれている。
「女房を敵と思え」はにかみ屋の晋作さんには精一杯の覚悟だった。
まさか、受験や入社試験に付き添う如く、戦場まで駆けつけて「それは無いでしょう」という歴史は未だかって世界史にも無いはずだ。
家族と社会、そして男女の別を弁えないと日本のようになる。
それが世界史のなかで日本を見る鏡でもある。