まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「永懐風義」 郷に格別の観在り 9 11/13再

2014-10-31 09:04:59 | Weblog


            
         蒋中正撰 永懐風義



                       

                       山田純三郎  孫文




    

   若き蒋介石と山田



墓前祭の前夜、津軽弘前の傑物と般若湯を一献傾けた。
何故、津軽は衰退したのか、という憂いがあったせいか机に支えた右手にもつ杯が口元に上がってこない。そんな真剣さがあった。




                 
 
         地元世話人 小笠原豊氏   原子昭三氏



ついつい役人の僕(しもべ)のようになって顔色を伺ったり、過大に依頼心を抱いたりする地方の人間関係にその因を求めたりするのが津軽のみならずその類の論になるが、趣は異なった。
かといって自虐的に特徴ある気候や気質を取り上げても進まぬ話でもあった。




            
 



それでも光明があった。それは倣うべき人物の当然な行動であった。
こんな会話である。
「いま自治体は独自性を出そうと躍起になっているが、どこもイベント盛りでしかも東京のイベント会社に丸投げしているところもあり、それが町おこしだと錯覚している。それはお上御用となった近在の町村もその流れに乗ることが町興しだと錯覚している。ことさら信じて疑わないのではなく、近在の長(おさ)が役所の提案どうりに住民を集め官製イベントを支えている姿に、たとえ意思が薄くても追従することが多いようだが・・」




               

              新寺町  貞昌寺


「どこの町もそうだか、まず予算を握っているところの指示が一番だ。準備会や協議会を設けても形式的なものだ。ことさら依頼心が強いわけでもないが御用の意識が強い代々の長(おさ)には逆らえない風土がある。そのせいか学生が東京の大学に行くと返ってこない。みな立派になる人は東京にいってしまう。これは雪のせいばかりではない・・」



             





「人が変わったと・・・」

「昔は一高帝大を出ても郷土のためと帰ってきた。そんな気風があった。司馬遼太郎さんだって弘前高校を志望して試験は落ちているが、引き寄せる環境はあった。吉田松陰も伊東梅軒を訪ねている。満州皇帝溥儀の侍従長工藤忠も津軽板柳だ。また当時の人たちは郷土歴史をよく身体に染み込ませていた。陸羯南、珍田捨巳、などを導いた菊池九郎、あるいは孫文を援けた山田兄弟など国際化の魁だった。
いまでもあの八百屋の旦那は東大で、下駄屋の親爺もそうだ。当時はみな故郷に帰って無名でも郷土の力となっている。日本で有数な詩人や画家も普通の人と変わりなく生活している・・」




           

              黒石市から八甲田へ


「その次の世代が続かないと・・・。そういえば日曜出勤していた役所の職員に、゛頑張るね゛と声を掛けたら、「妻と母親が買い物に行っているので・・」、゛どこへ゛と聞いたら、「飛行機で東京まで・・」と返ってきた。同世代はリストラの風に巻かれているのに確かに町興しを先導する役人がこれでは同世代の嫉妬や役所に怨嗟を起こしてしまう。全国金太郎飴の状況だがタクシーに乗っても店に入っても、゛仕方ない゛という話を聴くが青年の思いは、゛都会に行きたい゛が本音だろう・・・。これは景気がよければというハナシではない・・」




                 

          世話人 志村卓哉の献茶のおてまえ・・?



「孔子さんも新たな郷づくりに際して官吏にこう説いている。その根本は「外のもの来たる、内のもの悦ぶ」と端的に伝えている。幸いというべきか近頃は中華圏の観光客が津軽を訪れるようになった。この郷の歴史には来訪する方々と共有した歴史がある。それが今回の墓前祭でもある。どうか有効活用してほしい・・」

時は尽きない。ホテルの窓から俯瞰すると駅前は消費者金融の看板とパチンコやのネオンがひときわ輝いている。遠くの歓楽街は暗かった。空車待ちのタクシーは列をなしているか、乗降客はない。

だだ、人物は此処弘前だけでなく全国津々浦々に無名有力を冠として鎮まりを以って暮らしている。筆者を導いた佐藤慎一郎氏や、以前この顕彰の意に督励された安岡正篤氏もそうだ。その先輩達が決まって謂う言葉があった。
『一過性の事象を騒ぐだけでは国家は繋がらない。片隅でもその意志を堅固に持っている人物が居ることによって国は支えられている。そして世代を繋げることだ。いつか懐かしみをもって甦り、国家の援けになる。これは必然だ・・』

この頃の津軽は鉛色の空だという。しかし墓前祭当日は雲ひとつない青空が広がっていた。



            

               馮寄台代表



また、前日は台北駐日経済文化代表処の馮寄台代表が地元有志の案内で拝礼を行なった。
まさに歴史は共有し繋がっている。全中華民族を代表しその敢闘の精神を讃えた孫文の心も民族を超えて生き続けている。

不覚にも満座の前で落涙を留め得なかった筆者自身の津軽への旅は未だ終わることはない。






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