まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

産経NYから観る複眼

2014-10-28 17:36:28 | Weblog

台北中山記念小学校 生徒の自主運営の朝礼での国旗掲揚



10/26の紙面でニューヨーク駐在編集委員の松浦肇記者はコラム「複眼@NYC」でジャーナリズムの原点回帰と題して希文を記している。それは日本の新聞に乏しくなった調査報道についてウェッブニュース、ビジネスインサイダー(BI)を紹介している。

そのサイトは米大手ウォールストリート・ジャーナルを凌駕する訪問者がいるとCEOは発表したとある。
その大きな理由は、「ゴシップ系や他社報道の転用で知られるBIだが・・・・、アナリストやプログラマーを記者に据え・・・・、記事の特色はデーターとITの活用である」

その根幹となるのは貰い記事や官製記事の下げ降し、あるいは今流行りのコピペではなく、記者の意欲や切り口が重要な因を成す調査報道という、裏どり(裏付け、背景確認)がジャーナリストの慣性となっている。それは貰い記事や官製発表には虚偽が潜んでいるという前提であり、それが個人や組織が他に知らせるとき往々にして起きる装いを除き真相を知る彼の国の民主主義擁護の姿なのだろう


翻って、調和や連帯を人の寛容と、諸事は゛他人事゛に委ねる国柄においては米国のようなジャーナリズムは構成されにくい。記者も給料の出どころは読者と広告主、そして記事ネタを出してくれる治安機関などの官公庁だが、みんなで渡れば怖くないような記事かご褒美スクープで一喜一憂している旧態新聞社も我が国にある。
近ごろはウェッブ記事も盛んだがゴシップ系や他社報道の転用などのご案内記事が多く、調査報道も週刊誌なみの記事つくりになった。

以前、新潮の副部長と産経の某部長が訪ねてきた。地を這う取材で記事は完結主義の新潮と数十人体制の分派職掌の産経は記者気質も能力も大きくことなり、こと仕事話になると噛みあわない。部長は嘆く。「若い社員は、゛今どき゛とはいえ記者としての感性資質が乏しく教える側も難儀する。くわえ組織が大きくなると上も下もいる難しい立場だが、新潮のようにはいかない組織になっている」
仲の良い新潮の副部長は酔ったせいか追いかける。
「だいたいこちらのチームは十数人、上司がいい加減なら殴りもした。そんな気迫がなければ記事など書けない。だから裁判も多く抱えている。産経某部は数十人で何故そんな状態なのか、おかしい」と激昂する。

ちなみに副部長は某宗教団体からゴミ箱を漁られ、尾行さえされる。
小生と携帯連絡をするが、盗聴など互いに気にも留めない。
ちなみに副部長は早々と退職したが、口の悪い業界人は追い出しパーティーを大々的に催して野に放った。放たれた土佐犬のような彼は立て続けに世間の周知を得て読者を増やしている。前職が週刊誌ゆえか、真実に向かって地を這う取材を行い、多岐にわたって社会の問題点を突き、ときに歴史を回顧して日本人の情感を戦慄させる。座標は童心のような純情さだ。









雑誌のことだが、或る歴史の既成事実を、切り口を変えて書いたら、ある民族組織から廃刊に追い込まれた。広告は集まらないし批判も激しかった。新潮は裁判も勝ったり負けたり、支払い賠償金も多いが、筆は鈍らない。そこはアツモノに対して限界の境を知る歴戦の感性なのだろうが、知っていても書けないものは新潮にもある。また臭わせる術も知っている。
大新聞は品性を問うだろうが、要は怯むか突破かどちらだろう。
その緊迫感がなければ記者も育たないし、古典や俳句を解するような情緒性も生まれない。
だから、つまらなくなるのは当然だ。

切り口は異なるが、現代情勢の男性に対するアンケートは、金持ち、面白さ、易しさ(優しさではない)が上位だ。昔は高給、高学歴も背が高い、三高だった。結婚を目標にしなければ三高は、あれば有るに越したことはないが、うざい。
新聞広告は保険、美容、健康、車、などの当然ながらショッピングだが、近ごろでは宗教を背景にした出版広告が多くなった。

多くの広告主を求め、多岐にわたる読者に応えるためには分派、分裂気味の各部を誌面にちりばめるのだろうが、ここにフジグループの主唱する西洋博打(カジノ)の広告が掲載されたらカジノ顧客はともかく、観光立国などと装飾されたら読者はカジノ顧客予備軍となって流行りに迎合するだろう。





台北の高齢者施設 彼らが語る日本語の情感と仕草は素晴らしい



たしかに孔子は郷つくりの基本は「外の人来たる、内の人 説(よろこ)ぶ」と云ったが、ばくち打ちが大勢来て酒を飲んで女と騒いでも、誰も悦ばない。
聴くところによると、政治はそれを政策という、商売人は儲け話と云う、警察は規制利権と云い、瓦版屋は文化だ、繁栄だと騒ぐ。

いくら地球のどさ廻りの運動会が来ると騒いでも、博打場や英語の斡旋では洒落にもならない。
冒頭に記したBI(ビジネスインサイダー)にある
「それは貰い記事や官製発表には虚偽が潜んでいるという前提であり、それが個人や組織が他に知らせるとき往々にして起きる装いを除き、真相を知る彼の国の民主主義擁護の姿なのだろう」

「外の賊をはらうは易し 内の賊をはらうことは難し」と陽明は云う。
身内が他国の云いがかりに拘束されたことで自由と民主の大義を掲げるのは結構だが、内なる賊の退治に問題意識も持たない自称オピニオンリーダーの姿は、大義を言い募ればつのるほど読者の情感から離れてくる。
まして、経済や軍事の数字を他国と比較し、批判があれば大衆を恃み、食い扶持となれば権力と野合することは読者からずとも我が国の瓦版屋の風情と国民は気が付いている。
彼らは、深層に沈潜する真の国力の在り処を見過ごし、いや在ることすら知らずに人を惑わしている。

それは複雑な要因を以て構成されている国家を司る人々の情緒だ。それが整理がつかない、成文化されない問題として忌諱され毀損さえされているのだ

BIにも届かず、食い扶持素餐に勤しんでいては、国民は惑わされるばかりだ。
瓦版屋は利口者が多いと聞くが、「利は智を昏くする」(利ばかり考えると智が衰える)ことすら気が付かないのだろう。
コメント
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