
数年前より安岡正篤という人物を取り上げた書籍が氾濫している
それも当人が亡くなられた後、弟子や有名人と称される者が金屏風を背に登場することが多く見られるようになった。
以前、御長男の正明氏と一夜投宿した早朝にこんな会話をした。
「ちかごろ安岡学という妙な学が流行っていますが・・」
『お弟子さんの中では父の説いたもの、あるいは臨機に遺した事績の背景となる学問ではなく、時の権力者との交流や人脈、はたまた増幅され偶像視する人たちがいますが、父は教育者です』
「偶像視する人は人脈を辿り利につなげたり、なかには安岡ブランドで食んでいる人もいます」
『父が存命なら出版させないものもあるし、そもそも名を遺すということに慎重であり、ある意味で遠ざける気風がありました。そういえば父が酒席で遅くなったとき『あなたのお弟子さんは名のある方が多いようですけど、下半身のほうは・・』と母から問われ、さすがの父も沈黙せざるを得なかった』
確かに脱税で収監された地方マスコミのオーナーや、人脈をつくることに勤しみ安岡ブランドのセミナーを利に繋げているマスコミ出身者、あるいは説かれたことをオウム返しに「解りました」といった途端、「そんな簡単に解るのか・・」と叱責された二世財界人もいるが、総じて安岡ブランドを吹聴して名利を貪っている。
昨今は細木女史との問題で女性の認知に端緒が開けたようだが、殿方の興味も奥方のそれに似て井戸端風の浮俗の話題が多くなっている。
ただ記憶すべきは名利に恬淡で、かつ洒脱な座談は人を区別せず義の香りをその是非の座標にしたことだ。義談、良酒に時を忘れ、ピースの両切りを好み、世俗の情勢に敏感でテレビも時代劇を好む方でした。
そして古の偉人賢人を手元に引き寄せ、人間を問う薫譲された学風がありました
ゆめゆめ挨拶代わりの借用や、金看板にするような詐学、利学の類に錯覚なきよう世の安岡学?に翻弄されないよう祈るばかりです。
それこそ存命なら『学問の堕落』と言われ、そもそも安岡学とは何ぞやと問われるはず。
まさに、
「小人の学は利に向かう」
「利は智を昏からしむ」
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」
いずれ、飽きるたぐいの知学でしかない。
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