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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡正篤が唸った無名の「一日一言」其の二 ⒏ 2月再

2015-10-16 09:13:13 | 郷学




安岡氏は
「この金言集は単なる知識学ではない善行実践の銘とすべき岡本さんの言行録でもある。しかも逡巡することも無く習慣化している。如是我門とはおもしろい。」


冒頭はこの言から始まっている

以下、《・・》注訳、ルビは筆者
子罕曰く 《孔子は利益と天命と仁についてはめったに口にしなかった》
「罕(カン)」(まれに、めったに)

「貪らざるを以て寶と為す」
《我欲を放縦にして名利、財貨を貪らないのが心の寶だという気概である》
 

【賢 愚 月 暦】

一、賢は為すべきを成し、愚は為すべかざらるを成す。

二、賢は貪らざるを以て宝となし、愚は金玉を以て宝となす。

三、賢は苦言を噛みしめ、愚は甘言に使に便乗する。

匹、賢は己れを信じ、愚は己れを欺く。

五、賢は万物に感謝し、価は不平不満で日を暮らす。

六、賢は身心を磨いて道光を放ち、愚は爪を磨いて金色の夜叉となる。

七、賢は愚を庇い、愚は賢を嘲笑う。

ハ、賢は災害の未然防止に心を砕き、愚は災害の跡始末に狼狽える。

九、賢は礼節を弁え、愚は節度を知らず、思慮はなはだ浅し。

十、賢は人に処すること藹然、愚は人に処すること冷然。

十一、賢は詐らず、愚は詐りを以て智ありとなす。

十二、賢は機先を制し、愚は後塵を拝す。

十三、賢は善例を創造し、愚は前例に執着す。

十四、賢は失意の時は泰然自若、愚は失意の時は徒だ呆然。

十五、賢は仁の足らざるを頂礼、愚は金の足らざるを怖る。

十六、賢は利他を重んじ、愚は利己を先にす。

十七、賢は聖賢の書を愛し、愚はエロ、グロ漫画に耽ける。

十八、賢は善を布き、愚は悪を捨てる。

十九、賢は受けた恩義と羞恥は生涯忘れず、愚は咽喉元すぎれば何でも忘れる。

二十、賢は苦境に落ちて希望に燃え、愚は苦境に入ると怨嵯に燃える。

二十一賢は冗を省き、愚は冗を助長する。

二十二、賢は自然を愛し、愚は自然を破壊すに捕われて分別なし。

二十三、賢は奢侈を慎み、愚は奢侈を以て福ありとなす。

二十四、賢は怯まず、愚は怯を以て守ありとす。

二十五、賢は争はず、愚は争を以て勇ありとす。

二十六、賢は血税の濫費を恐れ、愚は血税の濫費を以て政治と心得る。

二十七、賢は身命を尊重し、愚は身命を汚辱する。

二十八、賢は意中の害虫を殺し、愚は身中の害虫を養う。

二十九、賢は力めて息まず、愚は休して怠る。

三十、賢は忍従に耐え、愚は忍従を逃避する。

三十一、賢は良識に勝れ分別極めて解明、愚は貪欲に強く人情に薄く、事物に囚 われて分別無し

 以上三十一項を以て賢と愚の月暦となす。

 何時の日か、誰かこれを見て反省のよすがになれば甚だ結構。

 

【如是我門】
《経文の冒頭にあり通常は「我聞」だが、岡本の場合は「我が門、かくの如し(人の説いたものではない、自分の意志だ)、との強固な表現となっている」

急がず、 躁(さわ)がず、 争わず

撓(たわ)まず、 怯(ひる)まず、 阿(おも)ねらず。



【優国賦】
《優れた国に授かったもの、あるいは詠むもの)「賦」(ふ、生まれつきとも)》

一、
良識とは、「文珠の智恵」のこと。則ち犬自然に順応し、賢明腺、裁量腺、神気腺の寄って集って滔々と流れる三腺合流をいう。
要するに、阿ねらず、怯まず、貪らず、天地神明に誓って毫も恥ぢない言行。

二、
叡智とは、法を以て律することの出来ないない事態に際し、速やかに善例を創造し、これを一刀両断に裁量する神気をいう。

三、
日本国民とは、日本国籍を有し、厳に放埓を慎み、善法に順い、常に感謝、欣労、奉仕の念に徹する人々をいう。

四、
福祉を阻むものは、

《岡本のいう「福祉」とは介護、扶養の意ではなく、「祉」神がとどまって国民が幸せなことだと言う。つまり神がとどまるような社会を阻害する人々に言は向けられている》

イ) 悪法といえども存続する限り、これに順い改むるを知らぬ愚か者。

ロ) 自国の古い伝統を疎かにし、蔑み、嘲笑い、徒だ一途に他国を礼讃する放将至極の不良の徒。

ハ)極悪非道、即ち詭弁、禁労、左翼(3K)

二) かばん、かんばん、めくらばん、(汚職、虚飾、無責任)

ホ) 愚政、招災、無頼漢、(亡国、呆然、傍若無人)

福祉を阻む「放埓」を自由と看倣し、看過する限り、愚政は愚政を産み、遠か
らず国家は売国奴の手中に渡るであろう

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郷学とは. 07.6再

2014-08-19 08:10:28 | 郷学
或る日の郷学 小会顧問 皇太后御用掛 卜部亮吾氏


≪日本農士学校創設の趣意≫ 
                    現所在 (財) 郷学研修所
                           安岡正篤記念館    

 人間にとって教育ほど大切なものはない。国家の運命も人間の教育に掛かっていると古の賢人はいう。真に人を救い正しい道を歩むためには、結局、教育に委ねなければならない。そしてその大切な教育は現在、どのように成っているのだろうか。

 現代の青年は社会的に悪影響を受け感化されるばかりで、その上、殆どといってよいくらい家庭教育は廃(スタ)れ、教育は学校に限られている。しかも一般父兄は社会的風潮である物質主義、功利主義に知らずしらず感染して、ひたすら子供の物質的成功や卑屈な給料取りにすることを目的として学校に通わしている。

 その群れとなった生徒たちを迎える学校は粗悪な工場となり、教師は支配人や技術者、はなはだしく一介の労働者のようになり、生徒は粗製濫造された商品となって、意義ある師弟の関係や学問の求める道などは亡び、学科も支離滅裂となり学校全体になんの精神も規律も見当たらなくなっている。

 そのため生徒たちは何の理想もなく、卑屈に陥り、かつ狡猾になり、また贅沢や遊び心にある流行ごとに生活価値を求め、人を援けたり、邪なものに立ち向かう心を失い、ついには学問に対する真剣な心を亡くしている。
 
 男子にいたっては社会や国家の発展に欠かせない気力に欠け、女子は純朴な心に宿る智慧や情緒が欠けてしまった。
このようなことで私たちの社会や国の行く末はどうなってしまうのであろうか。

 さらに一層深く考えると、文化が爛熟(ランジュク)して、人間に燃えるような理想と、それを目標とした懸命な努力が亡くなり、低俗な楽しみと、現実かな逃避するような卑怯な安全を貪り、軽薄な理屈によって正当化するようになってくると、このような人々は救済不可能になってくる。

 平安時代の公家も江戸時代の旗本御家人もこのようにして滅んでいる。徳川吉宗も松平定信も焦ったのだか、権力や法では手の下しようも無いほど民情は退廃している。たとえ百万の法規でも道義の崩壊は食い止められない。
このような時、社会の新しい生命を盛り立てたものは、退廃文化の中毒を受けず純潔な生活と、しっかりした信念をもった純朴で強い信念を持った田舎武士であった。そのことは今もって深い道理には変化はない。

 この都会に群がる学生に対して、今の様な教育を施していて何になろう。国家の明日、人々の末永い平和を繁栄を考える人々は、ぜひとも目的の視点と学問を地方農村に向け、全国津々浦々の片隅に存在する信仰、哲学、詩情、に鎮まりを以って浸り、もしくは鋤(すき)鍬(くわ)を手にしながら毅然として中央を注視して、慌てず、騒がず、自身をよく知り、家をととのえ、余力があれば、まず郷、町村を独立した小社会、小国家にして自らを治める自治精神を養うような郷士や、人々に尊敬される農村指導者を造って行かなければならない。
 それは新しい自治主義(面白くいえば新封建)主義というべき真に日本を振興することにもなる。

 農士学校は、さまざまな軽薄な社会運動や職業的な教育運動とはまったく異なり、河井蒼竜窟のいう地中深く埋まって、なお国家のために大事なことを行おうという鎮まりを護り、人々の尊厳と幸福を天地自然に祈るように順化し、人間としてあるべき姿を古今東西の聖賢の教えを鏡として、まず率先して行うべき行動である。

 金鶏学院の開設から四年が経とうとしている。我々は自身の意思と身体をこの場所に潜め、大地に伏し、地方農村に生活を営みながら、国を正しい姿に改新した先覚者、あるいは社会に重きをおく賢人とはどのような人格なのか、また学問や教養の積み重ねを、いかに勤労をとおして励んだらよいかを研究しつつ、さらにその間、私たちのささやかな意思は、日本の中心に置かれている各方面の国を考える多くの国士とも交流を図ってもきた。

 今の様相はもはや一刻の停滞を許さない。
 我々は自らの安易な生活をむさぼり、空理空論といういたずらに無意味な議論に安住してはならない。
 此処に至っては前記に掲げられた覚悟を行動に現すべく、屯田式教学(勤労しながら学ぶ「産学一体」)の地を武蔵相模の山々に囲まれた武蔵嵐山の菅谷の地に求め、鎌倉武士の華と謳われた畠山重忠の館址(やかたあと)を択んで、ここに山間田畑二十町歩の荘園を設立することができた。さすがに古の英雄が選択したところだけあって、地形、土質、環境に得がたいものがある。

 私はここに今まで寝食をともにして学問の道に励んだ有志とともに、日本農士学校を設立して平素考え求めていたことを共に実現したいと思う。

昭和 六年四月
安 岡 正 篤


現代訳文責
             郷学徒  寶田

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備忘録 「張学良 鎮す」    2007. 6/4掲載 改

2011-02-02 11:08:01 | 郷学
   張学良率いる東北軍顧問 苗剣秋氏と夫人


【歴史の部分から大局をみる。その大局を企てた流れは,今も止まることはない。】


備忘録 「張学良 鎮す」 抜粋

張学良といえば国民党、共産党合作の舞台となった西安事件が有名だが、戦後、氏の存在はベールに包まれている。
なぜ台湾に移ったのか、西安事件の秘密は?それらの多くは語られることのない問題として日中近代史に多くの興味を投げかけている。

NHK特別番組でのインタビューで語る氏の゛語り口゛は、歴史経過の及ぼす様々な事象への慙愧と無常感が入り混じったものであった。ときには昂じ、あるいは鎮まりをもった姿は、まさに世界史の出演者である氏の生涯そのものの観があった。
ここでは歴史研究や学問としての中国観とは別に、普通なら取り上げられる事も無く、さりとて゛まんざら゛でもない、関係者からの平常な生活会話の中からエピソードを辿って見ることにする。

1988年といえば天安門事件の2年前の12月、なんとなく足を向けた台湾台北でのことだった。 師の佐藤慎一郎氏から伺っていた西安事件の立役者 苗剣秋氏のことを思い出し、唐突にもホテル前を逍遥する古老に尋ねてみた。
゛おぅおぅ知っている゛とばかりに古老は懐かしそうに早速、居住をどこかに尋ねている。 こんな時で無ければ会う事のない苗氏の名は古老なら知っている。

心当たりが分ったのか、本人も興味津々のようで目の前のタクシーを呼びとめ、到着したばかりの台北の町をひた走る。
やたら狭い路地を走ると保育園の前の古い建物の三楼(3階)を指して、下車を促す。
治安上なのか、階段入り口と苗宅のドア前には横引きの鉄製シャッターがあり、ドアはスチールの堅牢なものだ。
呼び鈴を押すと初老のお手伝いとおぼしき女性が応対に出たが、なにしろ突然の訪問のため要領を得ない。


「佐藤先生の友人です」とっさのことだが友人とは大仰な態度だった。
招き入れられた応接間に苗夫人がソファに座っていた。
壁には苗夫妻の若かりし頃の写真と剣秋氏の軸装が掛けられていた。一方には安岡正篤とあるが、何時もと違った感の書風の掲額がある。
話といっても佐藤師からの聞きかじりばかりで中身が無いので、夫人の近況を伺う事にした。

夫人は苗氏を苗先生と呼び、現在、加療中であり、夫人も養護施設の入所考えているが、なかなか順番が回ってこない。しかし、「施設では時間が軍隊のように決まっていて年寄りには辛いだろう」との不安を抱いている。
お手伝いサンの子供に話が移り、お手伝いサンが事故で怪我をした見舞金を息子が遊興に費やしている苦言を吐露している。
初対面での会話だが、佐藤師と苗氏の交流の深さが垣間見える応対でもある。




              

               梁立法院院長       丘昌河氏




2度目の訪台は日本の国会に当たる立法院の梁粛成院長との会見や、興味を持ち始めた孫文の記念する国父記念館と蒋介石総統が提唱した「新生活運動」の原本を拝観するための中正記念堂訪問である。観光コースの忠烈館の回廊に唯一日本人が掲げられていることに胸が熱くなるほどの強烈な印象を受けた。
くわえ、友人の訪台に際し苗夫人の様子伺いにと好物であるケーキの持参を依頼した折、「もう、さびしくて死んでしまいたい」との言葉があり、急遽の訪台計画でもあった。

初回は佐藤先生にも伝えなかった旅だったが,今回は苗氏の消息を報告した小生の言葉に
 
「それなら七福という通じの良くなる薬を持参してください。たしか夫人の常備薬ったはずだ。それと満州の大同学院の教え子に丘昌河という実業家と梁粛成という政治家が居るので時間があったら会って来たらよい」
 何時もながらの簡単な会話だが、あとは現地でどうにかするということだ。

夫人は待ちかねたようにベットから起き上がって持参したケーキを食べた。
すると、
「苗先生は西安事件は関係無いんです」突然の言葉である。

「その話を伺いたくて訪ねたのではないですよ」考えもなく応答する

「あのとき先生は天津にいたんです」

ただ,黙って口元を注目するしかなかった
西安事件の立役者である苗氏のことは佐藤師にも聞いている
北方の軍閥,張作霖の子として生まれた張学良の学友として張作霖に可愛がられ、持ち前の利発さから日本に留学。一高帝大 難関高等文官試験に合格。張学良率いる東北軍の顧問として活躍し、周恩来とも懇意で事件前後さまざまな想定問答があったことは以後の推移をみてもわかる事だ。
また、佐藤師とも懇意であった苗氏の状況をみても事件の大筋は吐露している事だろう。

小生は学者,研究者の類ではなく、ましてブン屋のごときのように話の整合性を詰問したりはしないが、縁と人情に裏打ちされた継続すべき人間関係の中での体験会話の集積から読み取る「語り」である。たとえ備忘記述でも秘すべきもの,約束事については関係,無関係の事象を問わず、ふとした言わずもの、あるいは嘆息の中に忖度すべきものと考えている。

苗氏は張学良に言う

「おまえの親父は誰に殺された」

「おまえは今,誰と戦おうとしているのか」

一時は麻薬中毒となり,軍閥の腐敗を増長させた張学良を叱責した苗氏の激情は,蒋介石を監禁した折の「殺してしまえ」といった言葉にも表れる。
苗氏は周恩来とも旧知の間柄だった。学良の父であり満州軍閥の総帥である張作霖は、対立する国民党軍との関係で、一時は日本の援助を得ていた。苗氏は張学良と同級で張作霖の援助で日本に留学、帝大、高文に合格し、東北軍の軍事顧問になっていた。

その東北軍しかり,国府軍もまたしかり。軍備や戦機、といった戦略戦術の類に勝敗の有無を問うものではなく、単なる武装暴力の腐敗や権力に添う富の収奪闘争なっていた。そのため中国の歴史に登場する英雄が率いる諸侯、軍閥の合従連衡が、清朝後の中国に繰り返され、統一国家の意識を醸成するまでもなく、借款あるいは軍事力の後ろ盾による諸外国の介入を招いて、事後の混沌とした状況を作り出していた。

張作霖,袁世凱にある軍閥の様相は,孔財閥を財政部長に置き諸外国の援助を腐敗の具としたその後の国民党の敗北と同様に、抜けがたい中国の権力性癖を表していた。

「誰に殺されたか」という苗の言葉は日本軍に爆殺された父張作霖であるが、河本大作大佐が大阪士官学校同期の磯貝廉輔に宛て決行27日前に出した書簡の末尾に「満蒙に血の雨を降らせる…」と記し、南方便衣隊の仕業に見せる為、金を渡して雇い入れた中国人を刺殺し決行している。

北京から同行していた日本人将校は前の駅で降車し,唯一、有賀とかいう将校だけが知らされなく激怒したという逸話が残っている。
爆殺に怒って東北軍が攻撃してくればしめたものと考えていたが,東北人の智将蔵式ギの機転で重傷発表を行い,虚偽に薬の購入までさせている。
肩透かしを食ったのは河本を始めとする日本軍だった。
                     (佐藤氏談)

中央の意図しない現地の謀略に、慌てふためいて追認する伴食軍人や官僚の姿は今も変わりがない。
しかも、官癖というべき現状追認と理屈の塗り固めは、将来起り得るであろう泥沼化した日中戦の初頭を゛飾る゛蛮行でもあつた。


西安事件以後の国民党軍の姿に疲弊と戦後の国共内戦経過を見ると、周恩来の意図が成功し、中華人民共和国成立となるが、皮肉にも成立の立役者である苗氏も張学良も台湾に居住している。






               






確かに,一時期日本に亡命した苗氏だが、田中総理の日中国交回復交渉の経緯と結果に憤慨して台湾に渡ったが、生活の問題は民国政府のそれと聞く。
しかし,筆者が垣間見た国民党の情報機関「国際問題研究所」、実はゾルゲの謀略機間でありイギリス情報機間のパイル中佐との連携のもと、日本の北進政策を南進に切り返させた組織の日本駐在者として苗氏の名がある。

組織のトップは後の中華民国駐日大使館の参事官,王大禎(梵生)であり、日本朝野の要人との交流で信頼を集め、あの安岡正篤氏をもって「大人の風格ある人物」と言わしめている。
また北京の交流拠点であり、大倉財閥の資金を北伐資金に投じていた宮本利直氏の主宰する宮本公館に出入りし「大志を共有する老朋友」と肝胆相照らす仲でもある。
有名な抗日事件であった129事件から始まった2年後の露構橋から西安事件と、その謀略の流れは破錠することなく中華人民共和国の成立から現在のアジアの分断混乱までつづいている。

国際問題研究所の組織図には、末端にあの満鉄調査部所属の朝日新聞の尾崎ホツ実や偽造紙幣の印刷担当に青山和夫、あるいは日本滞在の欄には苗剣秋氏がある。

西安は事変でも事件でもない。短期的には国際コミンテルンによる中華人民共和国の成立だが、イギリス情報部とチャーチル ゾルゲとスターリン 王大禎の真珠湾攻撃数週間前の決定情報とアメリカ情報部などを、地球儀を回転させた関係図から読み取ると戦争や事件の研究追跡というミクロ視点では汲み取れない、遠大な意図と目標に向かった謀略が潜んでいるように見える。

近年「文明の衝突」だとかの推考があるが、満州事変の確信的首謀者である石原莞爾将軍の預言的「世界最終戦論」や、中国近代革命の父孫文が終始唱えていた「日支提携してアジアを興す」、あるいは日本に対して「西洋覇道の狗となるか,東洋王道の干城となるか」が今日の現状を考える上で重要なキーワードになっている。




              

            満州皇帝溥儀と側近 工藤忠(鉄三郎)





張学良氏の慙愧とウメキに似た言葉は、゛了見が狭くわからずやな日本及び日本人゛に対して向けられている。それは、゛真の日本人がいなくなった゛と嘆息した孫文の言葉と同様に聞こえるのは筆者だけではあるまい。
 
苗氏は台湾を切り捨て、中国になびく日本の政治家を称してこう言っている。
「三木は見限った 大平は真っ平だ 中曽根には根が無い 田中は一角の繁栄しか考えない」
そして「日本人は世界史に名を称えられるような民族にならなくてはならない」と

   【天下、公のため、その中に道あり】と色紙に揮毫して託してくれた


余談だか
 佐藤師から,「西安事件の秘密資料はイングランド銀行の金庫にある」というが、蒋介石を迎えに行った宗美玲に同行したイギリスの美術商の奇怪な行動をみると理解が近くなる。
秘密とは日本とは戦うな、という「不抵抗命令」であるというが、その心根は孫文の日本にたいする考え方の継承と、日本と戦ってどちらが負けてもアジアは復興しない、という意志だった。近衛も何かに誘い込まれるように泥沼に入り込む不思議さを語っている。
蒋介石もその状況に苦慮した。互いに「何故だ・・」というおもいだった。






              






近衛の取り巻きに朝日新聞の尾崎、蒋介石の情報機関である国際問題研究所のトップに王大偵,この二人とゾルゲを交えた謀略は日本の誘引と国民党の疲弊を企て、日本の南下によってソ満国境の精鋭をドイツに向けモスクワ戦にかろうじて勝利させ、国内では国民党、共産党の合作によって共産軍の温存と増大を謀り、構図として日本軍と共産軍の挟撃構図を企てた西安事件であった。


事件をよく知る中華街の名のある古老に,蒋美玲夫人が西安に乗りこみ蒋介石を連れ戻したのはどうして可能だったのか?との問いに

「張学良は美玲のボーイフレンドだからだ」

ソビエトの指令で死を免れた蒋介石だが張学良の台湾幽閉と生死、生活の保証は、たとえイングランド銀行の秘密文書があったとしても、中華街の古老の話のほうが真実味がある。

日本人には理解しずらい面白い逸話だがこんな事もある
共産党の重鎮である朱徳の甥が来日した。
要件は中曽根総理に会いたいと言う事だった。

「佐藤先生は中曽根さんを知っているはずだから取り持ってくれませんか」

「私は近頃,外出も不自由になって…・」

「それなら,秘書の方を紹介してください」

「よく知らない人だが拓大に居ったときに学長は中曽根さんだったので訪ねてみるか」

 一国の総理に対して、いくら重鎮の朱徳の甥でも,しかも,何の用なのか
 ともかく議員会館を訪ねてみると、廊下の向こうで

「やぁ 佐藤先生ご無沙汰しております」
旧知の上和田秘書である。
 
「総理は多忙なので私、上和田がお聞きします」

話は秘書が引き取ったが,内容は、いわゆる゛個人的゛な付き合いをしましょうという事だ。
 この甥は普段、台湾で反共新聞を発行している人間で,台湾でも力のある部類でもある。 それが中国共産党の重鎮の使いとは,聞いているほうが混迷してしまうエピソードだが、左様に事象の見方は複雑で入り組んでいるが、『利』の潤いや゛人情を贈る゛という『賄賂』には国共や思想スローガンも存在しない。



              





ともあれ,苗氏宅訪問が思いがけない歴史深訪になったが、筆者にとっては苗夫人の言葉に震え、それが自らの生涯に忘れ得ぬ一つの絵となって刻まれた。

「苗先生は自分を探す為に一生懸命忙しい人生だったのです」 

遠来の無名な若造の目を凝視して諭すように語り掛けた。
病床から起きあがり、ベットに両手を支え、さっきと違う声の力があつた。
次ぎの言葉を待った。刻が長い

「張サン(張学良)はねェ お坊ちゃんですョ」

歴史は探求する事だけにあるものではない。
眺めるものだと考え始めたのもこの時からだ。



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碩学の伴侶   その一 「安岡正篤の妻」

2007-10-20 11:29:31 | 郷学

ご存知の方もいらっしゃるだろうが、安岡正篤氏は旧姓は堀田姓、兄は高野山の管主で仏教美術に造詣の深い堀田真快氏で、正篤氏は16歳のときに土佐の安岡家に養子に入っている。

あの土佐日記で有名な紀貫之とも係縁の家柄でもある。
その時からいいなづけとして安岡の娘であった後の奥様と同居の身である。

その後は多くの関係書籍に譲るとして、その奥方とのエピソードだが、、どこの家庭にもある光景だが、長男正明氏らと食事中にテレビを観ていたときのこと、やにわに奥方が「食事中ぐらいテレビを消したらいかが・・」とスイッチを突然消したことがあった。

碩学と某省のキャリアだった長男は呆然としつつも、何も無かったように食事を続けていたとのこと。正明氏もその手のエピソードには事欠かない。
少年の頃、青雲の志を描いた愛読書漫画「冒険ダン吉」を庭で燃やされたことがある。氏はこの事件を吾がバイブルの焚書として記憶している。

父から直接教えられたことは無いが、興味を持って観察していたことは事実だった。とくに種々の来客者の多岐に亘ることが栄養になった。ある試験が通らなかったとき「試験は落ちるものかね」と父は呟いたと、これも親譲りの洒脱な呟きが印象的だったことを記憶している。

ちなみに正篤氏はいたって時代劇が好みである。また世俗の出来事の細事にも関心を持ちテレビはよく観ていたという。まさに下座観というものでも在ろう。


また、財界の招きで講演後宴席を囲んで気分よく帰宅した折、またもや「アナタのお弟子さんと称する人は世間では立派な肩書きや地位があるようですが、どうも下半身の始末が悪いようですね」と酔いも飛ぶようなつぶやきが襲った。

もちろん応えるすべも無く、苦笑いが精一杯だったという。

余話だが、これは後の奥方にエリートらしい悪戯と思われるエピソードだか、帝大の学校祭に同伴した折、自分らの催しがあると教場に尋ねると学生が皆教室で寝ていたという。黒板には「孝経」にある「身体髪膚、これを起床せず」と大書してあった。

つまり中国にもある漢文の文字遊びで「毀傷せず」を「起床せず」と変えて全員寝ていたのである。世俗にとっては野暮な児戯のようなものだが、深窓のエリートにとっては、ことのほか愉快な仕草だったろう。

気風だが、後年、言っても解らぬものに皮肉交じりの洒脱な言辞を発することがあった。これも黙っていればよいものをも思えるが、よくよく考えれば何時の日か理解できるだろうという可能性への優しさとも理解できる。

これは決して贔屓目に見ているのではない、ありがちな事である。
陛下の言辞にて恐縮ですが、入江侍従が亡くなった時、健啖家をさして「入江は食べすぎだった・・・」俗人はなかなか言えるものではない。考える力を「考力」と仮称すると特異なモノがあるのが解る。加えて小人には測りかねない゛せつない゛感情も芽生えたと想像する。

語る相手によってはヒンシュクをかう恐れがあるエピソードがある。

ある冷夏の年に「陛下、この頃は気候も涼しく過ごしやすいです・・」と侍従が申し上げた途端、視線を合わせず「東北は今年は冷害で大変だろう」と仰せになられた。このような応答は、なかには気分を害するものも居るだろうが、そんなことには心を向けない孤高で登覧した観点と境地がある。

気遣いと、洒脱、は真摯な責任感と潤いと観るべきだろう。また浮俗に虚無を感ずることでもあろう。

安岡氏に戻れば、16歳といえば思春期の盛り、いくら優秀でも養子の身ではさぞ息苦しかったとも推察するが、どっこい学生時代からの書籍出版の潤いは、料亭遊びから世俗の遊興に、その種には事欠かなかったようだ。ある時は困窮している人に小遣いや援助をしていたという。学生の身分ではナカナカ出来ることではない。

つまりこの様な座談と応答辞令の修行?は、人を観察する眸と行く末を逆賭する直観力を培い、後年、臨機の応答に正鵠を得た場面認識がその効を示している。それもこれも奥方の先見性のある観察眼?とサポートの為せる業でもあろう。

筆者も初対面にもかかわらず、長時間の応答のなか「君は無名かつ有力を旨とすることがいい」と、道の行く末を観られてしまった。それは齢を得て実感する言葉でもあった。

それゆえ、晩年世俗の口の端にのぼったことも、分かるような気がする。

想えば思春期に他家への結縁、何よりも世話焼きで、時には剛毅な理解者である妻の亡失は一時の潤いに心を任せることでもあっただろう。
義に対する滅我と、浮俗の附属性価値で人物を測らない気風は、ときとして脇が甘く観えるだろう。

普遍な情の為した結果の忖度は、懐かしくも蘇る情縁として今も記憶に残っている。

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ふぞろいの茶会

2007-06-05 10:59:59 | 郷学
                 安岡和仙教授と不肖の弟子


以前、小会(郷学研修会)顧問の安岡正明氏は
『古典は難解で固陋なものではありません。柔軟かつ深遠なものですが、近頃では理解を容易にするために色々学び方があるようです。その一つに漫画、劇画、もう一つは昔は男文化であった茶道を通じて身体から習うこともその一つです』と。

そんなことから、少々緩慢になった肉体的動作(ものごし)にある規制と道理、あるいはそれを基点として生まれる鎮まりのある考察を、再度想起してみようと安岡教場に入門しました。

安岡先生も始めての門人ですが、参加者もふぞろいな男どもが揃い、初歩から煩いをお掛けして、一年経っても部屋歩行や正座がおぼつかない状態です。

ご自宅改築のために板橋区営の茶室を借用していますが、その名は「ふぞろいの茶会」と命名し、時折ご尊父正篤先生の所縁の茶器や掛け軸を鑑賞しながら、かつ後刻の般若湯を楽しみに真摯?な時を戴いています。
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銀座で寺子屋を !?

2007-06-03 13:48:20 | 郷学
       前列右頭山満 末永節 後列右 佐藤慎一郎
       

銀座の麗人曰く
「イケ面、ホスト風・・」の大野直人君と友人吉田君の提唱で、毎月第3月曜日の夕刻、銀座ライオンビヤホール4階《入母屋》で清和の会を催すことになりました。
   http://r.gnavi.co.jp/irimoyab/

巷にはセミナーや勉強会と称するものが大はやりで、名詞外交や人脈創出のために売文の輩、言論貴族を招いて拝聴する集いが多く観られます。
そのような中には腰の落ち着かない雄の子や世話好き女史が、人恋しさと金屏風欲しさに走り回わります。

このような光景を歴史から見てどのように考察するのか、あるいは無名でありながら日本の片端や巷の一隅にある人物の逸材を受容、あるいは格を認めそれに遵う謙譲の精神をどのように養うか、「本(もと)」を辿る相互学習の場にしたいと念願しています。

江戸っ子は野暮を嫌い、生き方はホドです。
般若湯を傾けながら「内の人愉しみ、外の人来たる(孔子)」を心地にして活学したいと思います。
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