まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡正篤が親しんだ郷学

2021-01-13 03:17:31 | 郷学

      佐藤慎一郎氏  新京にて

以下は郷学作興の提唱者である教育者安岡正篤氏の生地である地域の郷学の形態である。

現在の郷学研修所の前身であった日本農士学校の趣にあるアカデミックな学問とは異なり、しかも志願、推薦の類ではなく普遍的かつ地域特性を活かした場面であった。

その後の師範学校にある官制学校の硬直性と比べると、まずはその教育過程において人を選別の具にしない、つまり時習学(情報、知識)の習得優劣によって人物の評価はしない、あくまで人格の涵養に重きをおき、その後の必然的欲求による科目志願の本(もと)としての本質学(人間学)が行われていた。

なるほど、陸カツ南、児玉源太郎、後藤新平、南方熊楠、らの英傑が輩出された驚嘆する当時の教育である。 

以下参考に掲載する田原小学校では秋山好古も教師に名を残している


【以下、田原小学校の資料より】

 明治期郷学の多くは地方有志あるいは村落連合出資の庶民教育機関を意味していた。
文部省報記載する堺県下54郷学の一として、学制発布に先立つ事2ケ月寝屋川市堀溝に郷学が誕生する。

  設立について堀溝小学沿革誌が「明治5年壬申6月、旧堺県下始めて郷学校設立の時は、管区区画の制に依り1区1校地也」と記するごとく、堺県の行政区画は、明治5年2月の区制施行により和泉国25区、河内国29区の計54区からなり、1区1郷学の計画が立てられた。

 明治5年6月13日開設の堀溝郷学は、3月段階にその計画に入っており
先の文部省報となったものであろう。
 1区1郷学であるから、当堀溝郷学は行政区画の名称そのままに、堺県管内河内第3区郷学校と称した。
 その校区には河内国第3区たる18ケ村が所属することになる。

すなわち、この18ケ村とは堀溝、蔀屋、河北、南野、中野、上郷逢坂、岡山、砂、小路、高宮、木屋、萱島新田、秦村、太秦村、国松村、上田原、下田原であるが、茨田郡の平地村も加わって19ケ村が第3区=堀溝郷学を構成する。

 開校の明治5年6月には「布施萬、主席教員として学校長の事務を執り」
翌6年には「高橋恕首席教員として学校長の事務を執る。
千田一十郎、秋山好古、青柳慈雲寺等の教員在職」して、3、4名の教師により「明治5年6月15日、郷学校の際、句読、暗誦、算術、習字の4科」を教授する。 読み、書き、そろばん、記憶の寺子屋式教授法で出発する。

 こうして大念寺、本覚寺に開学した堀溝郷学は「数村の生徒、二堂に満て教授不便なるをもって同年(明5)7月16日中野村正法寺に本校を移し、本覚寺の校舎を止め、大念寺をもって出張校となす。

 猶又各村附属の内、山間遠隔等不便により明治6年1月、又一変して堀溝を本校となし、中野を出張校として、中野、同上郷、逢坂郷、岡山、南野等の5ケ村を付属し、下田原法元寺をもって田原出張校とし上田原を付属し、秦村、大恩寺をもって秦出張校とす。之に太秦国松の2村を付属して4ケ所に分別し、以て堀溝郷学本校の所轄たり。」(古沿革史)とあり、生徒過多なる理由で、大寺院たる中野正法寺に本校を移した事もあった。

 堀溝小学は明治6年3月、「第三大学区18中学区58番小学」として誕生する
ここに於て、58番小学本校(堀溝、河北、小路、高宮、木田、萱島新田、平池、蔀屋、砂)と中野出張校(中野・上郷・逢坂・岡山・南野5ケ村、正法寺) 田原小出張校(上下田原2ケ村、正法型)秦出張校(秦・太秦・国松3ケ村)の1本校、3出張校よりなり、分校は「58番小学○○出張校又は○○支校」と称された模様で、○○分校なる名称は明治10年代後半から固定するものと考えられる。

 田原校の成立については明治6年5月10日の創立に係り
法元寺本堂を仮用し、58番小学田原出張校と称することになる。
   
<四條畷市誌より>   

  

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐藤慎一郎先生「総理秘密報... | トップ | 「人間考学」 唐学にみる現... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

郷学」カテゴリの最新記事