マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

かつて樂天地があった

2008-08-15 19:20:25 | 

     
      
             (写真、創元社「大阪まち物語」よりお借りしました)

千日前の現在のビッグカメラの場所がかつて、大阪随一の遊園地「楽天地」だったことを知るのは、もう相当お年の人だけ。
小生も及びもつかない。
盛り場としては新興で、伝統を重んじた芝居町「道頓堀」とは目と鼻の場所だが、ここは安直な見世物のパラダイスだった。
中座、角座の役者の看板だけを見て来る庶民相手に、芸をひさぐ街だった。


歌舞伎、新派劇、二輪加、軽口、因果物の見世物小屋、西洋大魔術、軽業、剣舞芝居、馬芝居、活動写真の電気館(ジゴマで当てた)、娘義太夫の播重(のちの愛進館)、女角力、猿芝居・・・見物はほとんど土間の立ち見だったという。
現在よりよほどバラエティに富んだパフォーマンスの数々が楽しめたようだ。


ここに大正3年(1914)に開業した娯楽の殿堂「樂天地」。
「一日遊べます」の売り文句の通り、メリーゴーランド、地下に水族館、動物園、活動写真、演芸館などがあり、夜間はイルミネーションが輝き、薮入や年末年始に丁稚どんたちが終日遊び呆け、活動を見て、自由軒のカレーなんぞを食って帰る・・・なんて夢の一日を送ることができたのだ。


樂天地は昭和5年(1930)に取り壊され、昭和7年には3千人を収容する「歌舞伎座」が誕生。
昭和33年(1958)には千日デパートとなり、千日劇場という寄席にはなんば花月がまだない時代、吉本・松竹両方の芸人が出演していたそうだ。


昭和47年(1972)千日デパート火災。118人の死者を出した。
小生、親戚の家でテレビを見ていたが、臨時ニュースで続々と死者が増えていく様に愕然とした記憶がある。


その後、長らく焼け跡をさらし、ファッションビル「プランタン」となり、現在の「ビッグカメラ」に続いている。

この辺りがそもそも仕置き場で、罪人のさらし首が江戸末期まで
あった場所と知ったのは後のこと。
人骨の灰が高く積み上げられ、風の日には巻き上げられて困った・・・と「大阪弁」という書物にあった。


うたかたの儚き夢を偲びながら、千日前をふらふら歩いてみるのもまた一興である。

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粉もん28号

2008-08-15 12:23:39 | 

四条大宮、後院通りにあるたこ焼き&お好み焼きの店、「鉄板28号」。
屋台に毛の生えたという感じの店だが、ワインを飲ませる愉しい店。
ねぎたこ焼きをポン酢で。
ビニールシートで覆われた通り沿いの店。鉄板の前に4人ほどが座れる。この夜は早かったので、奥の人目につかない椅子へ。




前菜4種盛り こういうのがあるのが嬉しいぞよ。
これでぶどう酒を飲んでいると、幸せになれる。
心地よく冷えたアルザスの白。
一番左はブルーチーズと里芋のポテサラ。
その隣はコールドポーク、ナスのサラダ、具沢山のキッシュ。




28号のヒットメニュー。ブルーチーズのねぎ焼。
凡百の店が、ピザ風お好み焼きなどと言って出すのとは
ひと味ちがう。
赤のグラスワインを主人のお勧めに従って、2杯ほど。
銘柄忘れた・・・。




牛頬肉赤ワイン煮の焼そば。
このまんまスパゲッティや。
ちょっと重めの赤に切り替える。

こういう子供の買い食い風のところでワイン飲めるのって
なんか気分が変わってい~ね~!

今回も腹いっぱいで、「王将四条大宮店」へ行けなんだ・・・。

 

     鉄板28号   四条大宮スグ 中京区壬生坊城町4 


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バカは死んでもバカなのだ

2008-08-03 23:46:22 | 

      
      

赤塚不二夫さんが亡くなった。残念ながら個人的面識はないが、
友達にフジオちゃんとこに遊びに行こうって言われた時に、
一緒に行っとけばよかった。


我ら昭和30年代~40年代なかば、地道を走り回り、サッカリンたっぷり
入った駄菓子を食べまくった世代には、赤塚漫画は
一種の精神的支柱だった。

中でももっとも人気のあったキャラクターがイヤミ氏だった。
我々のアルバムを探ると、「シェー」のポーズの写真が一枚は
出てくるのではあるまいか。

これ↓は愚生が小学生の時に書いたハンカチのイヤミ氏。
どっかから出てきたので、今は楽器拭きに使っている。

      

赤塚氏は「あたりの天才だった」と盟友高井研一郎が言う。
アイデアを元にキャラクターの動きと大まかなセリフをコマ割りし、
鉛筆でラフに書き込んでいくのが赤塚の仕事。
鉛筆で本線を書き込むのが高井、ペン入れは古谷光敏らの仕事
だったという。

一人で仕上げることは少なく、先に上がってしまうので、
高井の仕事の上がるのを「未だかなぁ~早く飲みに行こうよ~」と
首を長くして待ったという。

だからキャラクターを仕上げるのは割に苦手にしていたかもしれぬ。
現に、色紙をお願いすると、バカボンのパパは描きやすいらしいが、
他のキャラはあまり描きたがらず、
「チビ太は意外に難しいんだ」と鉛筆で下書きしてから、描いてくれた
そうだ。それがこれ。

      

チビ太のおでんの△○□を聞いてきて・・・とお願いした友人が
もらってきてくれた。三角はコンニャク、○はガンモ、□はなんと
ナルトと言うではないか。横からいると、シマが見える。
安いおでんにはナルトが入っていたのだろう。

赤塚作品、とくに「おそ松くん」にはラーメンの汁とおでんの匂いが
漂う気がしてならない。
あの時代のガキどもはまだ腹をへらしていたのだ。

      


生き方そのものがギャグ漫画だった漫画家。
心配するこたぁない。
肉体は滅びても、作品とキャラクターは生き続けるだろう。
ひとまず、お疲れさまでした・・・だ。


  「バカは死んでもバカなのだ~赤塚不二夫対談集」 (毎日新聞社)


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