(写真、創元社「大阪まち物語」よりお借りしました)
千日前の現在のビッグカメラの場所がかつて、大阪随一の遊園地「楽天地」だったことを知るのは、もう相当お年の人だけ。
小生も及びもつかない。
盛り場としては新興で、伝統を重んじた芝居町「道頓堀」とは目と鼻の場所だが、ここは安直な見世物のパラダイスだった。
中座、角座の役者の看板だけを見て来る庶民相手に、芸をひさぐ街だった。
歌舞伎、新派劇、二輪加、軽口、因果物の見世物小屋、西洋大魔術、軽業、剣舞芝居、馬芝居、活動写真の電気館(ジゴマで当てた)、娘義太夫の播重(のちの愛進館)、女角力、猿芝居・・・見物はほとんど土間の立ち見だったという。
現在よりよほどバラエティに富んだパフォーマンスの数々が楽しめたようだ。
ここに大正3年(1914)に開業した娯楽の殿堂「樂天地」。
「一日遊べます」の売り文句の通り、メリーゴーランド、地下に水族館、動物園、活動写真、演芸館などがあり、夜間はイルミネーションが輝き、薮入や年末年始に丁稚どんたちが終日遊び呆け、活動を見て、自由軒のカレーなんぞを食って帰る・・・なんて夢の一日を送ることができたのだ。
樂天地は昭和5年(1930)に取り壊され、昭和7年には3千人を収容する「歌舞伎座」が誕生。
昭和33年(1958)には千日デパートとなり、千日劇場という寄席にはなんば花月がまだない時代、吉本・松竹両方の芸人が出演していたそうだ。
昭和47年(1972)千日デパート火災。118人の死者を出した。
小生、親戚の家でテレビを見ていたが、臨時ニュースで続々と死者が増えていく様に愕然とした記憶がある。
その後、長らく焼け跡をさらし、ファッションビル「プランタン」となり、現在の「ビッグカメラ」に続いている。
この辺りがそもそも仕置き場で、罪人のさらし首が江戸末期まで
あった場所と知ったのは後のこと。
人骨の灰が高く積み上げられ、風の日には巻き上げられて困った・・・と「大阪弁」という書物にあった。
うたかたの儚き夢を偲びながら、千日前をふらふら歩いてみるのもまた一興である。