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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

自転車に乗ってきた「なぎら健壱」と、QBハウス10分1000円散髪の差別

2005年09月23日 16時47分55秒 | Journal
 秋分の休みの日なのに、一応、取材の仕事ということで、横浜の関内まで出かけた。関内駅を降りて、市役所の脇を抜けて横浜スタジアム方面の交差点を渡ると、すぐのところで「自転車DO!(DO ! Cafe !)」なるキャンペーンが開催されていた。そこへ自転車のラックを出展している会社を訪ねたのだが、社長さんに連れて行かれて大学の先生やら国土交通省のお役人とお話することに。エコロジー的な視点から、自転車をもっと乗りやすい環境(自転車道とか駅前の駐輪スペース)を整備する運動を展開しているとか。
 この活動の会長さんが、自転車で登場したタレントのなぎら健壱氏。テレビと同じ調子で、少しとぼけ気味に話していたが、イタリアまで行って、大きな工房を持つ職人の手になるMy自転車を何十万円もかけてつくったのだそうな。金額の制約もなく、そうした贅沢にこだわる人もいるのかと漫然と思う。会場で500円のカレーを食べて帰路へ。
 途中、たまたま見かけた相鉄線大和駅の地下プラットフォーム内にある「QBハウス」なる理髪店に立ち寄り、自動販売機で1000円の引換券を買って、「10分1000円散髪」を体験する。こういうところを利用するのは初めてだったが、なかなか繁盛していた。3人の理髪師に対し1000円に釣られて次から次に入ってくる客6人が待っている状態。客同士、安い散髪料に誘惑されたお互い顔を見合わせて奇妙だった。
 駅構内の床屋で、古いことを思い出した。20年も前、ミラノ駅構内の散髪屋へ入ったら、東洋人の客のせいか非常に態度が悪い。やはり10分ぐらい嫌々ハサミをぞんざいに動かしていただろうか、それもそそくさと終えて料金を要求した。なんだか後頭部に盛り上がったような不具合を感じたが、まさかと、日本に帰ってから床屋へ行ったら、「やり残しがありますよ」と言われた。それまで愛嬌のある職人的気質の人種と好意的に思い込んでいたイタリア人の印象は、それ以来ずっと、かんばしくない。
 かわって、アメリカの床屋職人は、場所代を支払った個人事業主らしく、料金は収入としてチップも含め自分のポケットに入れていた。だから、少しは東洋人の客にお愛想も言うし、笑顔もある。奇麗な金髪の後に黒髪を刈らして気の毒な感じがしたことさえある。ただ、一日何人の頭を処理したらからとて収入はさほど高くはないのであろう。ある種の生活上の苛立ちを彼らの顔によく見かけたものだ。
 市場経済主義をまい進するニッポンのここのは、アメリカと同じように掃除機を使って頭の毛を吸引する簡略システムだが、時間に追われて、愛嬌を出している余裕はない。汚れたジーパンの理髪師たちは、腕も悪くなく手抜きもないようだが、パソコンのキーを叩くように黙々とハサミを扱っていた。もっとも、髪をいじられながらなれなれしく世間話をベラベラと話しかけられるのも、慥かに、うっとうしいときがあるから、その点で効用は均衡化している。
 しかし、10分1000円という時間と金額の制約線で顧客満足(効用)の最大化を図る店のポリシーは、所詮、新古典派経済学のテクストを真に受けた浅はかなものだ。小生がイタリアで差別を受けたように、この店にも「理容師と日本語で話せない客はお断り」といった趣旨の歴然とした差別文が掲示されていた。散髪代1000円に釣られてくる貧しい外国人は少なくないのであろうが、10分という時間制約の中でコミュニケーション上のトラブルを効率良く処理するのは困難である。外人は社会の不具合因でしかない。
 つまり、今日半日を要約すると、イタリアで高級自転車を金に糸目をつけずにあつらえたなぎら氏の余裕たっぷりなトンチトークを聞いてから、外国人を排除して成り立つ1000円のシステム散髪にしては、割とこざっぱり仕上げてくれた頭を帽子にすっぽり隠して、気持ちの良いニッポンの秋空の下を、20年の歳月をへてにわかに思い出が蘇ったミラノの理髪師を呪い殺しながら、とぼとぼ帰ってきた次第である。

COMMENT:QBハウスの代表取締役会長・小西國義氏は、そのHPのあいさつに、――私どもが、QBハウスであつかっているのは「時間」です。技術革新と経済の発展により、すべてを手に入れることができた現代人。しかし、時間だけは、ますます手に入れにくくなっています。QBハウスでは、「わずか10分でできること」を具体的な形で提案し、その大切さを問い直すきっかけをご提案できたと確信しています。QBハウス事業にご参加いただき、今までにない「時間」産業の可能性を共に切り拓いて参りましょう。――と述べている。こうした時間産業論に、「時間泥棒」を扱った『モモ』のミヒャエル・エンデならば、何と言うかな。

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