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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

御柱信仰――霊の真柱と法隆寺の心柱

2006年02月18日 11時10分28秒 | 哲学草稿
 江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらた・あつたね、1776~1843年)の『霊の真柱(たまのみはしら)』(岩波文庫)を図書館で借りて、これは熟読も辛いので、ところどころ拾い読んでみる。
 古事記の研究に取りつかれた篤胤は、1811年、駿府の国府において、なんでも、12月の5日から30日にかけて不眠不休の作業で、この一書を書き上げたとか。読んでみると、なかなか興味深い形而上学(metaphysics)が展開されている。
 上図(第二図)をクリックすれば分かるが、「大虚空(おおそら)の中に一つの物生(な)りて、…海月(くらげ)なす漂蕩(ただよ)へる時に」と、宇宙の起源を解説する。その「一物」から天・地(この世)・泉(黄泉の国)の三つが分かれ、そこのどこかに「大倭心(やまとごころ)を鎮(しず)める」三柱(=神)が、堅固に立っている。
 そうした柱がないと、「桁(けた)・梁(うつばり)・戸・窓の錯(さか)ひ鳴り動き」と、世界は危うい構造になるという。「霊(たま)の行方をだに鎮め得ずて潮沫(しおなわ)の成れる国々、いな醜目(しこめ)」だそうだから、国たるもの、しっかりした真柱がなければならないのであろう。それがある国が、ニッポンなのだ。また、三神には、所管する神事に分担があって、目に見える世界(顕事)での事業と、目に見えない世界(幽世)での出来事では、違う神が担当するとか。幽世は、なにやら、小生の虚数世界に似ている心持ちがする。

 ■こうした柱=神のイメージは、形而下(physical)で、実際の神社建築の中に受け継がれている。
 伊勢神宮には、白い玉ジャリを敷き詰めた広い空き地があって、中央に社殿の中心に埋められる忌柱(いみばしら、神聖な御柱)を覆い隠す小屋(「心御柱覆屋」)が建っていたそうである。この実際に見た者が稀な柱は、ヒノキで、神宮に伝わる『大神宮儀式解』には、心御柱の「心とはナカゴ(中心)という意味であり、清浄な忌柱である。この柱を立てるのは重大な事で深い意味があり、猥りに記すべき事ではない。またこの柱は天御量(あめのみはかり)柱(高天原の尺度で造られた柱)ともいうことで、空理を附会する説を立てることはよろしくない」と、わざわざ断わってあったといいます。要するに、余りうるさく穿鑿(せんさく)されたくなかったのであろうな。

 ■一方、寺の塔にも、心柱(しんばしら)がある。
 法隆寺の五重塔の心柱は、2001年前にもなって、若草伽藍の発見(1939年、そこにオリジナルの法隆寺があったと推定された)で解決済みだったはずの「再建非再建論争」をまたもや呼び覚ました。
 2001年2月、711年頃に再建されたはずの五重塔の心柱(直径78・2㌢、八角形、搭の真中を上下32・1㍍にわたって突き抜ける一本の太い柱)のヒノキ部材の一部が、再建と推定されたその百年以上も前の「594年」に伐採されたものだと、年輪年代法で判明し、現存する法隆寺が、焼失し再建されたものなのか、創建当時のまま非再建であるのか、その明治以来の大論争が蒸し返されたのだ。
 ところで、この法隆寺五重塔の心柱には、柱らしい大した構造上の意味合いはないらしい。第一、この柱、宙に浮いている。それでも大切にそこにあるということは、「霊の真柱」に劣らぬ象徴的な意味が込められているのかもしれない。

 ■ニッポンには、縄文の古代から、柱に対して特別な思い入れがあったようだ。
 作家の長部日出雄氏は、「わが国の信仰の歴史を、どこまでも溯って行くと、ついには神の社の中心にあって、天と地を結ぶほどに高く聳え立つ一本の大樹に行き着く」と感想を述べたことがあるが、ジョウモン時代の遺構からも青森の三内丸山(サンナイマルヤマ)遺跡のようにクリの大柱(直径1㍍)の柱根が6本並んで発見されたりしていたから、ニッポンには古くから、何らかの御柱信仰があったと推測できる。

COMMENT:縄文時代の巨大柱――DNA分析によって、三内丸山遺跡では、クリが栽培されていたことが分かっている。同地の背後に広がる「八甲田山」では、ジョウモン時代から一貫してブナ林になっているのに、三内丸山では定住が始まると、クリの木が増えだし、集落の周囲はクリ林一色だったことは、土に含まれる花粉の分析でも明らかにされた。
 6本の大柱については、大手ゼネコン「大林組」が分析。柱根下面の地質密度や含水比率から掛かっていた荷重を割り出した結果、最高23㍍の木柱が立っていた可能性が判明した。しかも、柱は「固め打ち」工法を採用、約2度内側に傾く「内転び」で、上にゆくにつれ互いに接近していたことから、柱を連結する上部構造がなければ立ちつづけることは困難と判断された。つまり、単に直立するモニュメントとしての柱ではなく、祭祀用の建物を支える構造柱だったかもしれない。
 こうした巨大柱を使った神的構造物・神殿では、島根県の古代イズモ(出雲)大社は高さ48㍍(地元の伝承では96㍍)もの巨大な建物であったことが分かっている。大社境内を発掘調査(2000年)したところ、丸太を3本組み合わせた直径3㍍の巨大な柱根が発見された。そして、本殿中心の心御柱(しんのみはしら)は直径3・6㍍であったとか。ただし、この伝承の「空中神殿」を支えた巨大柱は、その後の研究の結果(2002年)、鎌倉時代、十三世紀中頃の建て替え資材であったと判明。なぜ、武家の世にそれほどの大神殿の改築工事がなされたのか、却って、興味をひくことになった。

 もちろん、長野・諏訪大社の御柱祭は、今も民間に伝承されて残る素朴な御柱信仰だ。七年目ごとに社(やしろ)の柱を建て替える際に行われるこの祭では、多くの氏子を乗せた巨大な木柱を山の急斜面を滑り落とす「木落し」が有名。大きいものでは長さ16㍍、重さ10㌧にも及ぶ巨木を使う。死傷者も出る。

 ■御柱信仰の起源をニッポン以外に求めれば、例えば、塔に心柱があるのは、韓国とニッポンだけだ。中国の搭にはない。
 韓国で今あるのは、法住寺捌相殿(べっそうでん)の木搭には心柱があるという。なるほど、韓国の寺には境内に刹柱という柱が立っていて、これは韓国の村にある蘇塗柱(そとばしら)から来たと思われる。もともとは、シベリア遊牧民たちが荒野で聖殿の目印とした天の柱に由来しているのではないかとされる。話も、スケールとしてそこまでいくと、篤胤のいう「大虚空の中」にあった霊の真柱とつながってくるが、残念ながら、「大倭心」専用とはいかない、多民族性を持たせなければならないようだ。

 ■神社の起源についても、これこそはニッポン固有のものであると信じている人は多いであろうが、異説もある。
 まず、神社の起源は、古代の墓「古墳」にあるというのだ。谷川健一氏は、「神社 その起源について」の中で、「私は日本各地の神社をたずねあるくことを近来の仕事の一つにしているが、そこで気の付くことは、神社の境内に古墳が多いという事実である。神社は聖であり墓地は穢(わい)であるという聖穢の観念にわざわいされて、神社の中に墓地があるのをかくしたがる神主や禰宜(ねぎ)もあり、なかなかその実情に触れたがらない」と書いている。前方後円墳で、その前方部に祭壇がある。そこが後々に神社・神宮化したというのだ。
 その古墳にまつられている祖神廟(そしんびょう)こそ神社の原形で、それはコーリアのシラギ(新羅)にあったものだとは、キム・タルス(金達寿)氏の主張であった。コーリアの『三国史記』によれば、西暦の6年、シラギ第一代の王カクキョセ(赫居世)をまつった祖神廟がつくられ、487年にそれが「神宮」となった。「神社」というのも、「赫居世」のコーリア語読みが「ヒョクコセ」となり、そのヒョクは名前で、コセは様といった尊称。このコセがニッポンに入って「社(コソ)」となり、神社となったという由来話もある。

 ■仏教の影響は、コーリアとニッポンでは、大きく現われ方を異にした。
 シラギは、いったん仏教を国教として受け入れてしまうと、神宮の信仰を完璧に否定してしまった。キム・タルス氏は、「日本では神さまがさきにあって、そこに仏教が入ってきても、神仏習合したり、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説という独特な理論があみ出されて同居しますが、朝鮮ではそれができない。朝鮮人にはいまも昔もそういうところがありますけれども、よくいえば論理的であり、悪くいえば対決的である…」と説明。「本地垂迹説」とは、本地(真実)の仏・菩薩が衆生を救うために迹(あと)を垂(た)れて(仮の姿をとって)ニッポンの神祗となって現われるとする解釈である。 
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