<写真> 「生家」 数々の懐かしい思い出を刻んだ我が生家、取り壊して今はもうない
8月13日は、墓参に田舎に行く。
自宅から車で1時間足らずの所だが、我が田舎は子供の頃とさして変わらないたたずまいで、いつもやさしく迎えてくれる。
ここはまるで時計の針が止まってしまっているのでは、と思わせるほどに全てが子供の頃と変わっていない。
ふるさとが、このように子供の頃と変わることなく存在していることは、本当にありがたいことであり、嬉しいことである。
しかし、一見変わっていないように見える風景の中に、最近はちょっと気になるところが見えてきた。
<写真> 「集落」 青々と広がる田んぼの先に、集落が点在している
この集落にも、過疎化と高齢化の波が急速に押し寄せており、今後の農業の在り方が問われる状況となっている。
<写真> 「土手」 雑草が生い茂って荒れている堤防
田舎に帰ると、必ずこの土手に来る。子供の頃は、牛やヤギが草を食み、農家の人が欠かさず草刈をし、秋には野焼きをするなど、堤防をしっかりと守ってきたが、今は歩くことが困難なほど雑草が生い茂ってしまっていた。
<写真> 「荒地」 堤防の外は、見渡す限り荒涼とした荒地
堤防の外も子供の頃はさつまいもの畠や、桑畑が広がり、学校帰りには桑の実を食べるのが楽しみの一つであったが、今は耕作する人もいないらしく、放置されて荒れ野となっていた。
<写真> 「小川」 子供の頃一番魚が取れた場所
小川も、しかり。子供の頃「フナ」「コイ」「ナマズ」「ライギョ」等がたくさんいて、川をせきとめて「川干し」をして魚を取るのが最大の楽しみであったが、今は、川は澱み、魚影を見ることは出来ない。
ふるさとが子供の頃と変わることなく存在していることは、幸せなことであるが、そこかしこに、古き良き時代の自然環境が蝕まれていくのを見るのは、痛ましいことであると同時に、耐え難いことでもある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます