折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

素材は藤沢作品だが、オリジナリティも十分・・~あさのあつこ著「花宴」

2012-08-11 | 読書
猛暑日が続く今年の夏、『熱中症』を警戒して日中は冷房の効いた部屋の中で本を読んだり、音楽を聴いたりとひたすら「巣籠り」状態で過ごしている。


今、熱中して読んでいる、あさのあつこさんの一連の時代小説から最新刊の「花宴」について、感想を会話風にまとめて見た。

   
 
あさのあつこ著「花宴」(朝日新聞出版)(左)司馬遼太郎著「花のあと」(文芸春秋社)(右)



― 主人公が小太刀の名手の一人娘。その主人公が密かに思いを寄せる青年剣士とのかなわぬ恋、そして藩の陰謀に巻き込まれ、小太刀の腕を振う主人公、というストーリーは藤沢周平の「花のあと」にそっくりだね。

― お陰で、「花のあと」を読みなおしてしまった。今述べた共通点の他に、父親が剣客であること、婿入りした亭主が見かけは風采の上がらぬ凡庸な人物に見えて、実は「できる」人物であること、口うるさい乳母がいること、主人公の女剣士が美形でなくて容貌に若干の欠陥を持っていることなど、とにかく人物設定は「花のあと」に瓜二つだ。

― 藤沢作品に似ていると言えば、百田尚樹の「影法師」、葉室 麟の「銀漢の賦」も酷似していると言われてるよね。どうして、こんな似た作品が書かれるんだろう。

― それは藤沢作品の持っている特性にあるんじゃないのかな。

― どういうことよ。

― 藤沢さんの作品は「蝉しぐれ」や「風の果て」といった長編もあるが、比較的短編が多い。例えば、「花のあと」は、たった67ページの短編。そして、この手の短編は言ってみれば色を付けていない「スケッチ」のような性格の作品と言えるかも。

― すると他の作家は、そのスケッチに自分なりの色付けをして見たいという誘惑にかられると言う訳?。

― 司馬さん自身がこの「スケッチ」(作品)に色をほどこして見てくれと言わんばかりの書きぶりのものが結構多いと言うことではないのかね。

― 元(スケッチ)がすぐれているから、どんな色(アレンジメント)をほどこしても読み物として立派に通用する。

― あさのさんの「花宴」もすぐれたアレンジメントが施されていて、読み応えという点では十分だった。

「本能寺の変」に至る関係者の心理と行動を活写~小説「信長死すべし」

2012-06-24 | 読書
天正12年4月22日、正親町(おおぎまち)帝から近衛前久(このえさきひさ)に「信長を粛清せよ」との密勅が下される。

物語は、時間軸をこの日から明智光秀が小栗栖で落ち武者狩りで落命するまでの38日間に絞り込み、この勅命をめぐって光秀をはじめ、近衛前久、吉田兼和、勧修寺晴豊、里村紹巴らの関係者が、何を考え、どう行動したかを克明に描くことで本能寺の変の真実を炙り出そうと試みている。

山本兼一著「信長死すべし」(角川書店)


以下、感想を会話風にまとめて見た。

― 直木賞をとった「利休にたずねよ」の時もそうだったが、あらかじめ設定した時間軸の中で物語を展開させる手法は著者の得意とするところだ。

― 特に今回は、38日間というごく限られた時間軸の中での当事者たちの考え、思い、行動を逐一追って行っているので、ぐいぐいと物語の展開に引き込まれてしまう。

― それにしても、「信長憎し」に凝り固まった正親町帝が怒りにまかせて出した「詔」が後の日本の歴史に大きな影響を与えることになった。

― 密勅を出した帝は、お気楽なものだが、この詔、「言うは易く、行うは難し」の見本のような、当時としてはまさにあり得ない、ほぼ100%不可能と思われることだけに近衛前久をはじめとする関係者の周章狼狽ぶりはよくわかる。それが、ひょんなことから実現してしまうのだから、歴史はまさに摩訶不思議。

― これまで、なぜ光秀は信長を殺したか、諸説があるようだが著者は「密勅」説を取った。

― それが最も合理的で最も説得力があることを本書が証明した?

― 理不尽なことでも勅命とあらば逆らえない。命令は絶対。天皇の権威とは凄いものだと改めて感じる。

― その天皇の権威を唯一人認めなかったのが信長だと著者は言っている。

― 光秀は、信長をこの国の形を変えようとする明確な意思を持った、ならびない天下人としてその器量、才覚に驚嘆し敬う一面と内裏をないがしろにし、おのれを神としてこの国に君臨しようとしている。何と傲慢、何たる増上慢、わが主君ながら許しがたいという思いが同居している。

― 著者は、織田軍団の中で光秀だけが唯一信長の本質を見抜いていた人物として描いている。

― しかし、光秀に下されたこの密勅、ことが露見しても、我が身に類が及ばぬように周到に保身の網を張り巡らしたとんだ食わせ物。密勅の履行を迫る光秀に言を左右して言質を与えぬ朝廷、近衛前久などはどこかに身を隠してしまう始末。その結果、信長を殺しても「主殺し」の汚名のみを残して葬られてしまう光秀、まつりごとの非情さをひしひしと感じる。

― 歴史に「たら、れば」は禁物だが、この時朝廷が光秀に錦旗の御旗を下賜していたら、光秀は官軍であり、秀吉に官軍となった光秀と戦う気持ちがあっただろうか。

― 正親町帝が信長を亡きものにしようとしていた一方、その信長も御所を焼き討ちにしようと企てていたという著者の物語の設定はユニークで面白い。

― その決起の日を本能寺の変の翌日、1日違いにしているところなど心憎いばかりの構成だ。

― これも「たら、れば」の話しだが、この信長の企てが実行されていたら、その後の日本の歴史はどうなったのだろう。こんなことをそこはかとなく空想するのも歴史小説の一つの楽しみである。

― 色々と考えさせられる読み応えのある本だった。

「影」として生きた男の生きざまを描く~百田尚樹著「影法師」

2012-03-02 | 読書
一つの作品、一人の作家との出会いには、しばしば偶然が作用することがある。

百田尚樹という作家と『影法師』という作品を知ったのは、たまたまネットで葉室 麟の『銀漢の賦』のレビューを読んでいて、あるレビュアーが「百田尚樹の『影法師』を連想させるものがある」というコメントを見たのがきっかけだった。

何かピンとくるものがあって、図書館で内容を検索し、予約状況を当たって見ると何とすぐに貸出可とあるではないか。飛んで行って借り出して読み始めたのが昨日の3時過ぎ、ページを繰る手ももどかしく、今日の午前中に読み終わった次第である。

                     百田尚樹著「影法師」(講談社)

物語の主人公は、幼少の頃上意討ちで父を殺された下士である。

そして、その後大いに出世し、長年在府で家老を勤め、筆頭国家老として藩に戻った主人公が、刎頸の交わりを交わした竹馬の友が不遇のうちに死んだことを聞かされるところから、昔を懐古する形で物語は始まる。

青春時代、剣に学問に切磋琢磨した二人、しかし、どう頑張っても友に及ばなかった主人公。

しかし、将来の「夢」という点では、友が持ちえなかった大きな夢(干潟を干拓し、農民、藩を豊かにする)持っていた主人公。

そして、二人の運命を分かつ出来事が出来する。

それは、藩主から二人に下された「上意討ち」の討手の役割。


この大事な場面で友は背中を斬られるという失態を演じ、一方、主人公は見事役割を果たし、それを契機に出世街道を歩むことに。

そして、その後二人が辿った二つの道。

一方は大出世を果たし、もう一方はその後不始末をしでかして国を追われることに。

しかし、終盤に明かされる驚愕の真実―友の行動は、あえて自分の将来を捨てて、すべて主人公の「命」と「夢」の実現を守るためだった、即ち、友は主人公の「影」の役割を自ら買って出たのだ。
そして、「影」として生きた男の生きざまが徐々に明らかになっていく。

一見、二つに分かれてしまったように思われた二つの道は、根っこの所で一本につながっていたのである。


その事実を知らなかった主人公。
そして、主人公が最後にようやく辿りついた真実。
主人公の悔恨と慟哭。

その切ないラストには思わず本をたたんであふれた涙をそっとぬぐった。

その瞬間、『影法師』という本の題名がそう言う意味だったのか、とすとんと腑に落ちた次第である。

ここで、この本を読んで最も印象に残った場面を引用してみたい。

島貫玄斉という雇われ刺客=居合の達人が主人公(名倉勘一)と話す場面

「貴公は、あの男の申す通りの男だった。奴が言った言葉―名倉勘一は茅島藩になくてはならぬ男、という意味がようやくわかった。儂は生涯のほとんどを影のように生き、人を殺めてきた。奴もまた影のように生きた。しかし奴は儂と違い、人を生かした。磯貝彦四郎―あれほどの男はおらぬ」
「誤解するでないぞ。儂が先般、貴公を斬らなかったのは、茅島藩のためなどではない」
島貫は頬をにやりと歪めて言った。
「磯貝彦四郎ほどの男が命を懸けて守った男を、この手にかけることはできぬ」
彰蔵(名倉勘一)は喉の奥で呻いた。
(「影法師」本文322ページ)



偶然がもたらしてくれた1冊の本、この偶然に感謝である。

これぞ最高の「純愛」小説~藤沢周平著「蝉しぐれ」

2012-02-21 | 読書
今年の直木賞作家葉室 麟さんの作品にすっかりハマって、一連の葉室作品をそれこそむさぼるように読んできたが、「蜩ノ記」(ひぐらしのき)を読み終えた時点で一段落の感がある。(現在図書館に「冬姫」、「無双の花」を予約し、順番待ち。)

これまで読んできた葉室さんの作品は、ストーリー的には「お家騒動」にまつわる「権力争い」に、「純愛」「家族愛」「友情」「生きざま」といった要素が絡み、きわめて藤沢周平さんの作品との共通点が多い。

そんなことを考えていたら、本家本元の藤沢作品が無性に読みたくなって、本箱でほこりをかぶっていた「蝉しぐれ」を取り出して読み返して見た。

                    藤沢周平著「蝉しぐれ」(文芸春秋)

この本が上梓されたのが、今から26年前の1986年。
いつ読んだのか判然としないが、「いつかもうすこし歳を取ってからもう一度読んで見たい」と思ったことを憶えている。

そして、再びこの本を思い出させてくれたのが、2003年NHKの金曜時代劇でドラマ化された時であった。

脚本、キャスト、映像ともに素晴らしく、毎回の放送を待ちわびていた記憶がある。

この時、ドラマに合わせてやはり本棚から「蝉しぐれ」を取り出して読んだ。

従って、「蝉しぐれ」を読むのは約9年ぶり、3回目になる。

本作は、周知のように『お家騒動』をめぐる権力争いと人間模様がストーリーの中核であり、物語自体も思わず引き込まれてしまうほど面白く、藤沢文学の醍醐味を十分に堪能できるのだが、何と言ってもこの物語の読みどころは、お家騒動が決着した20年後、主人公の男と女の逢瀬を描いた最終章の「蝉しぐれ」に尽きると思う。

ある文芸評論家が本作を評して、もはや完璧な純愛小説というものは時代小説の中でしか成立しないのではないかと考えることしきりである、と書いているが、本作品の全編に流れている思いは「純愛」ということではないだろうか。

最終章はページ数にするとわずか13ページに過ぎないが、ここに藤沢さんの「純愛」についての思いが凝縮されているのではないだろうか。

この最終章は、お互い長い間、それまで胸の底に秘めていた思いを解き放つ主人公の文四郎とおふく。
その男女の思いをきめ細やかに哀惜の念を持って描いており、読んでいて胸を締め付けられる。

「純愛」とは何と美しく、切ないものなのだろうとこの最終章を読んだ人は等しくそう思うのではないだろうか。

そして、藤沢さんは、「純愛」小説の名手である、と改めて思った次第である。

葉室 麟著「「蜩ノ記」(ひぐらしのき)~人の『生きざま』を活写

2012-02-09 | 読書
葉室 麟さんの「蜩ノ記」を図書館にリクエストしてから、かれこれ1カ月近くになる。

この間、「花や散るらん」、「いのちなりけり」、「銀漢の賦」、「橘花抄」、「柚子の花咲く」など葉室 麟さんの一連の作品を読み漁り、順番の来るのを今や遅しと待っていたのだが、順番待ちの数には、ほとんど変化がない。

遂にしびれを切らして購入し、むさぼるように読んだ。

                     葉室 麟著「蜩ノ記」文芸春秋

藩主の側室との不義密通のかどで、幽閉先で家譜の編纂と10年後の切腹を命じられた男―戸田秋谷、城内で刃傷沙汰に及んで、切腹と引き換えに家老の密命を帯び、戸田秋谷のもとへ遣わされる青年藩士壇野庄三郎。この二人を軸に物語は展開する。

戸田秋谷の切腹まで残された時間は3年。
物語は3年間という時間の流れを中心に戸田秋谷がぬれぎぬをきせられた藩の『政争』の内幕に迫っていく。

本の帯封にあるように

命を区切られたとき、人は何を思い、いかに生きるのか?

これが物語のテーマである。

そして、登場する主役の人物の言行一致の精神、即ち、口先だけでなく、言ったことは必ず実行するという「生きざま」に読んでいて粛然となったのは小生だけではあるまい。

わけても、まだ幼い秋谷の子息郁太郎と貧農の子源吉の身分を超えた友情と決然たる覚悟のほどには、胸が詰まる。

直木賞を受賞した作品だけに内容はとても素晴らしいと思う。
多分、この作品を最初に読んだならば、今以上に感銘は深かったと思う。

この作品の前にすでに葉室作品をいくつか読み、そのいずれもが実に素晴らしかったので、本作に期待する所が大であったが、本作は「ベターであるがベストではない」というのが正直な感想である。

これまでに読んだ葉室作品の中で「銀漢の賦」、「橘花抄」、「柚子の花咲く」などは本作品に優るとも劣らない、どれが直木賞を受賞をしてもおかしくない秀作である。
機会があれば、是非とも読んでいただきたい、とお勧めする次第である。