この写真に写っているのは間も無く後期高齢者になる中学校の同級
生です。
ここに私も写っています。敢えて指摘はしませんが適当に推量して
ください。
当地を含めた利根川支流の烏川とそのまた支流の井野川に挟まれた
土地は古代水の便が悪く、多分茫々たるススキの原か武蔵野に代表
される雑木林が主体だったと思われれる。ここに上流から分水し堰
が作られたのが数百年昔と聞く。その名を「長野堰」という。
以後原野は開墾されて田になり、中山道の宿場としてまた関ケ原の
戦いで天下の趨勢が決まってからは井伊直政を城主として迎えて町
とした発展してきた。そんな歴史を同級生のN君以下の諸兄が調べ
あげて、昨年来市民に紹介してきた。その功績が評価されてこの度、
世界かんがい施設遺産に登録された。そして市の広報誌の表紙を飾
ことに相成った。
街中を流れる堰。右の茂みが生まれ育った地。こんなに整備はされてなかったが
夏になればこの流れで泳いだ。
今は更に整備された水路だが往時は両岸石垣でうなぎやなまずが生息し
夏になれば蛍が飛び交った。
この堰の傍で生まれて、住所は変わったが今もその堰のほとりに住
む者として、この研究グループの末席に加わることとなった。一つ
の目的を共有した同期の集まりというのはなかなか珍しい取り合せ
だ。
長野堰は田を潤すほか防火用水として町の通りをいくつかの水路で
貫いている。また城址の堀に水を供給する水路にもなっている。
昭和時代には染物屋さんや鯉池がいくつもあった。子供時分はこの
堰で泳いだ。調べれば調べるほどこの町に深く関わっていることが
解る。広報の表紙写真の前景は江戸時代末期の街を1/2000で再現し
た模型。市役所の2階ホールに飾られて市民に好評だったもの。
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