toboketaG の春夏秋冬 

雑文、雑感、懐古話そして少しだけ自己主張。
土曜日をベースに週1~2回の更新が続けられればと思っています。

087-241110鮭の溯上は確認できず

2012年11月10日 | 街歩き

 

Pa013273 ほんの一時だが、枯葉の上に夏空が復活した。

秋日和の1日、利根川で鮭の遡上が見られるかと思い、利根大堰まで車を飛ばす。 資料に寄れば近年子供たちが鮭の稚魚を放流することが増え、それに応へて秋に溯上する鮭の成魚が多く見られるようになったという。

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   利根大堰                 取水口                 東京方面を眺める

あの大河ゆえに橋の上から見ても、魚影は見えるはずがない。 利根大堰が太田市の先にあり、東京都民へ供給する水の取り入れ口なっている。 その大堰の右岸に一本の魚道がつけられ、そこを階段状の流れを溯上した鮭のみが堰を越えられる。

観察館の中に入ると、一部がガラス越しに溯上する魚の姿が見えるようになっている。 30分ほど見ていたが、残念ながら必死に溯上するであろう鮭の勇姿は見られなかった。小さな魚が激流にもまれるが見えただけ。 多くなったとはいえここを通過する鮭の総数は、説明版によれば1シーズンで2千尾程度。 幸運に恵まれなければお目にかかれまい。 河口から100kmを溯上してもここで力尽きるのが大半なのだろうが、元気のあるのは本流の1.5mの落差をジャンプして越えているかもしれない。

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無事にこの堰を越えた鮭は、更に上流を目指し、烏川の倉賀野町あたりまで上り詰めたという記録があるという。

訂正  11月8日付の朝日新聞群馬版に紹介された記事によると、昨年の鮭の遡上数は、15000匹に達したということです。 魚道外をジャンプする元気な鮭が多いのだと思われる。

 

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083-241013野立て看板

2012年10月13日 | 街歩き

 

 

Img_0270 井野川サイクリングロードはこの花で迎えてくれる

インターネットが普及し、HPやブログ、最近ではツイッターやフェイスブックが宣伝媒体の主流になりつつある。

そこで野立て看板について日頃感じていることを少し。 昔は鉄道線路に沿って、田んぼの中に看板が林立していた。 今は殆ど見かけない。 街中にあるが自らの物を目立たせるために街との調和なぞ無視し、あるところには林立している。 そして看板の8割は医療関係のものが多い。

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医療機関の中に長年席を置いていると、看板の効果ってあるのかなと思う。 あの病院を受診してみようとの気持ちは、どこから湧いてくるか? 看板を見て来る人は少ないと思う。

良質の医療が提供されているかを、知人、隣人その他知り合いからの評判を聞いて、パソコンを使える人はホームページを見て判断し、納得して行ってみる。 これが王道でしょう。

医療機関もそうなるべく日頃から良質の医師の確保、患者目線で行動できる職員の養成に努力する。

もう一つは医療機関同士の連携(すなわち患者の紹介)である。 経験上このルートがもっとも納得できる医療を受けられる。 そのためには日頃から何でも話し合える家庭医を持つことをお勧めする。 前にも書いたが普段から元気な人が怪我以外でいきなり病院に入院なんてことは普通ない。 家庭医に相談すれば、大体は治癒する。彼の手に余ると判断した場合は彼が連携している病院に紹介する。 この紹介状の威力は非常に大きい。 勿論彼が上流医療機関との連携が普段から取れていることが必要であるが・・・

こんな自分なりのルートを持つことが長生きできる秘訣の一つだと思う。 参考 

 

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090610/159230/?ST=business

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080-240922二軒の床屋さん

2012年09月22日 | 街歩き

P8102841_2 花? 根? 庭に咲いた奇妙はやつ。 我が家の花博士は花というが・・・

通勤に日々通る道沿いに人目を引く理髪店が二つある。 昭和っぽいというか明治っぽいというか、新しいお店だが共に店構えに他にない特色がある。

一つは普通の住宅のたたずまい。 例の白赤紺の回転看板が無ければ床屋さんとは気がつかない。 お店の名前は「床髪」さん。                         

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もう一つの店は江戸時代の髪結いを意識した作り、板をめぐらした腰板。 時代がかった暖簾と看板。 こちらのお店の名は「髪処」さん。

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共に木の柱と白壁の日本風のたたずまいで好感が持てる。撮影許可をいただくために中に入って見ると、最新の理容設備で決まっている。 応対に出たマスターの感じも良く、技量も信頼できそう。一度利用してみようかと思っても、私も皆さん同様に、好みを熟知したなじみの床屋さんを持っているので、飲み屋やスーパーのように気軽に浮気はできない。

 

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公営住宅といえば鉄筋コンクリート造りが当たり前だが、東貝沢町の井野川東岸に25年ほど昔、市営住宅が新しくできた。木造、白壁の現代長屋の集合住宅の斬新さが強く印象に残っている。 さすがに時の経過には勝てないが、塗り替えれば元の雰囲気に戻るだろう。

吟味された木造建築の耐久性は鉄筋や鉄骨造りより勝るという。 1000年も経た神社仏閣、150年を経てもしっかりした農家。 断熱構造云々を問われると負けるが、木のぬくもりを秘めた強さは魅力的。

それにしても最近の新築家屋の早くできてしまうこと。 基礎が出来たと思うと翌日にはクレーン車が来てあっという間に骨組みが完成。 はてさてこれらの見栄えの良い家の耐久性はいかに?

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068-240630水門 (water gate)

2012年06月30日 | 街歩き

P6262507 自然の造作の不思議さ ねじれは何の目的を持つのだろう?

当地の田植えはほぼ終了。 夏にかけて田に充分な水をおくるために、幹線の用水路の水門を調整して、支線に水を供給する。 この網の目のようになった水路がおいしい日本の米を支えている。 

さて、一口に水門(子供のころ「おた」 と言った) にいろいろな種類がある。 一般的に上に引き上げられた板状の鉄の扉を降ろして、水を止めるのが多い。

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大規模なのは有明海の諫早干拓地に設けられた水門。 3kmはあろうと思われる堰に設置された鉄板がギロチンのように次々に落下して海水を遮断する光景は壮観。 この水門への賛否はいろいろ議論があると聞くが、一つの構造物として見ると興味深い。(web siteより)

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市内にもおもしろい水門があるので紹介します。

江木町、希望館の北を流れる一貫堀川に設けられた水門は、厚手のゴム製。 必要が生じるとこの中に水を送り込んで膨らませて水を留める。 不用時には水を抜いてしまえばペシャンコになり水は溜まらない。 送水ポンプ一つで目的が達せられる。

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次は東貝沢町東部小学校の脇を流れる井野川の水門。 不用時は鉄製の板が水面下に隠れており、水は自由に流れる下る。 貯水の要あればその鉄板が90度起き上がり、水を溜め込む。

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江木町の長野堰の末端に設置された円筒分水堰。 水門ではないが、各地域の田に面積に応じて分水する工夫がなされている。

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日本各地の水田に引き込まれた水の総量は黒部ダム何百杯分の量があるという。 日本は水に恵まれた国。 水田は隠れたダムといえない事もない。

日本円が変動相場制に移行したとき(S47年)の米国ニクソン大統領が失脚した原因になったウオーターゲイト事件というのがあった。 確か非合法な盗聴を指示してして政敵から糾弾され、大統領職を辞さねばならない事件だったと思う。 なんで水門(water  gate) なのかは知らない。

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067-240623関越道の森

2012年06月23日 | 街歩き

Dsc01108_2 梅雨の晴れ間 渋川市 旧子持村「空恵禅寺」にて

当地に高速道路が開通して30年は経つだろうか。 この頃以降建設された高速道には側道が設けられている。 日常この道路は非常に有効に使われており、私も通勤時に利用させてもらっている。 便宜性以外にも本道が事故で途絶えたときに、復旧車両の通過とかいろいろと役に立っていると思われる。

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関東平野を貫く高速道は大部分が平地に5,6mの盛土をして、上に本道が通っている。 建設当時道路の法面には幼い樹木が植えられ、殆どの部分は短い野芝でかろうじて緑が保たれていた。 この斜面が建設後、年を経て、深い森になっており柵で入れないが昼でも薄暗いほどの状況を呈している。

私の通勤路の斜面もこの時期深い緑に覆われる。 ケヤキ、桜、もみじ、しいの木、それらに絡みつくツタの類、そして繁茂した下草。 当初異物感があった構造物がすっかり周囲の田園風景に溶け込んでいる。春の桜、初夏の新緑そして秋の紅葉等季節には目を楽しませてくれる。

側道から深い森を通して見あげた先に、片側3車線のハイウエイが走っていることが不思議。 それほど森としての存在感が際立つ。 当然小動物の棲家にもなっている。 樹木の緑がもたらす自然の復元力は偉大なものだ。

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先週、車が購入後8年間で走行距離数100000kmを越えた。 単なる通過点だが、こういう一つの区切りに意味を感じる。 事故も故障もなく足となって動き続けている車に記念品を贈りたくなる。(特別に精製されたエンジンオイルとか、車内外の徹底的な清掃とか・・)

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昔の車(S50年頃まで)は5桁表示だったので、ゼロに戻り還暦となった。 今は6桁表示なのでこの10倍乗らないと還暦とならない。 ここまで乗り続けるのは性能が向上し、壊れにくくなったとはいえ無理だ。 その前に私の寿命が尽きてしまう。 いいとこ20万kmだろう。

これから車は電気が主流になると思われる。 鉄道が蒸気機関車から電車になったように。 そうなるとSLが懐かしいものになる。 私はレシプロエンジン車を使い続け、運転人生の最後まで行くことになるだろう。 省燃費の価値は認めるが、静かだがどこか無機質な電気自動車の駆動音になじめない。 ピストンの往復運動をクランクを通して懸命に回転運動に変える究極のメカニズムに愛着がある。 

今後もこの車と会話 (ボンネットを開けてエンジンの調子を音で聞く。 はるか昔、車の整備士をしていたので、エンジンの好不調は音で大体は判断がつく) しながらもうしばらくは乗り続けるつもり。 

 

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061-240512記憶との再会

2012年05月12日 | 街歩き

自転車でのぐるりん散策は意外な記憶に再会できる。 母校北小学校(きたこう」正門の門柱は昔のまま。 この前で「しんこ細工」や「わた飴」そのほか出店がよく店を開いていた。 校長先生がよく黙認していたものですね。

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これは「きたこう」で学んだ生徒の全てが記憶にある「きたこうのえのき」 一時樹勢が衰えたように見受けたけど、また元気になってきた。 60数本の年輪を加え、2回り以上大きくなったようにみえる。 当時あった二宮尊徳像と大きな石は撤去されている。

この樹を囲むように白線を引いて運動会が開かれ、 相撲の土俵もあった。 故人となってしまったが、T君とかS君は相撲が強く、 S君は身体が小さいのに得意技、内無双は切れ味が鋭かった。 彼は「オレのひいじいさんは高崎藩士だった」と言っていた。 水戸の天狗党との下仁田の戦いで戦死し、観音山の石段上の真言宗豊山派清水寺(正しい読み方はセイスイジとか聞いた)の脇に祭られている。

運動会といえば、上級生男子の入場は唱歌「箱根の山」を歌いながらの行進。 隊列の前が ”箱根の山は天下の険・・・” と先行する。 後は2章節後から ”箱根の山は・・・” と追う。 このとき前は ”かんごくかんもものならず・・・” と先行している。 輪唱というのでしょうか。  この勇壮な行進に下級生の私はしびれた。 

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元高崎女子高(単に「じょがっこう」といっていた)西通りのN島医院。廃業して随分経つな。 ここで一命を助けられた。

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「きたこう」の南は路地が4本くらい南に向かって伸びている。 そのうちの一本に今なお健在、「浅草湯」 一去年家の改装時に何回かご厄介になった。 それにしても銭湯の湯ってなんであんなに熱いのか?

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南への路地が東西に伸びる路地に突き当たり、それを西へ向かうと、昔と変わらない横丁が今も雰囲気を残す。20年ほど前にこの界隈は大火に襲われて大変でした。

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鍵型の横丁を路なりに進むと、「きたこう」に戻るが、その途中に眼医者さんがあったのも記憶にあり、風格のある門柱と表札だけが残り、「」の字が昔を感じさせる。

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そして、市の文化財にも指定されていると聞く末広町の教会と、レンガ造りの家。 遠くには平成のマンション。 生徒数の減少で廃校がうわさされていた東小学校は最近生徒数が増加しつつあると聞く。 これも平成のマンションのおかげか。

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というわけで、変貌著しい高崎も仔細に見て歩くと、昭和の雰囲気が結構残っている。 実際に住む方々は不便さもありましょうが、ブラブラ散歩人にはまだまだ残して欲しいなと勝手に思う次第。

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051-240318長野堰

2012年03月17日 | 街歩き

川の源流を探索することを趣味としている人がいると聞いている。 沢登りの基礎があり体力があった若い頃ならば面白いだろうなと思う。 「利根源流を探る」なんていう企画が上毛新聞にあった。ちなみに天下一の利根川は新潟群馬の県境に位置する丹後山の南斜面の雪渓から解け出た水滴で始まるそうです。

子供の頃から親しんだ長野堰(通称オオカワ、オオにアクセントを置くと東京隅田川の別名になってしまう)の源流探索に向かう。 

途中に多くの水門があったので紹介します。

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先ずは取水地点は高崎市沖町。 烏川からここで取水。長野堰の歴史が詳しく案内されている。

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烏川本流と分かれて、高崎市内に向かって出発。 すぐ大きな鯉池に新鮮な水を配給

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沖町の室田街道は地下にもぐって通過し、県道前橋安中線手前で地上に出る。P3061210 P3061212

県道を通過すると、まもなく榛名白川の下をくぐり、400mほど先で地上に出る。ここまでは暗渠。 この構造になってから、高崎市内で川が氾濫することがなくなった。

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今いるところは我峰町あたりか。 遠くに北部環状線を走る車が見える。 田園地帯をゆったりと流れており、筑縄町までの間に二つの堰があった。 旧六郷地区や浜尻地区への灌漑用水が分岐する。

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下小塙町に近づくと、周囲の風景は田園地帯から住宅地へと変化していく。 上並榎町で室田街道をくぐる手前に大きな堰があり。 「高小田堰水門」の銘が張ってあるが、どこへの水路分岐か不明。

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室田街道を過ぎると左岸に見事な桜の並木が続き、名前は判らないが水量調整ための水門がある。 放水路は上並榎町を流れテニスコート脇を横切って烏川に通じている。 

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並榎町を過ぎ、街中の大橋町に入ってくる。 今までの水門は農業用水が主たるものだが、ここからの分岐は高崎の街中の防火用水の役割を果たしていた。 新井堰(右)でせき止められた水は一貫堀川へ流れる水路と住吉町から相生町、本町と旧市内へ供給される。

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三国街道を過ぎて、請地町に入る。 ここ「請地堰」で取水する水は請地町からR354に沿って文化センター脇から末広町に繋がる。 子供のころ一番身近だった水路。 今では信じられないが文化センターの前身の高崎女子高校のところでまれにウナギが捕れた。

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この水門を過ぎると暗渠になって、私の誕生の地まで続く。 ここから次の「八寸堰」までの間は、幼き頃夢中で遊んだ川(オオカワで泳ぐべ~!は合言葉)。 泳ぎを覚え、水量が減れば大はウナギやナマズ、小はメダカ捕りに夢中。 洪水の際は網(スクダと言った)に竹ざおをつけ岸に沿ってすくうとアユが何尾も捕れた。  もちろん当時は両岸は石積み。こんな無粋な水路にあらず。ホタルや魚・・・の看板があるところが私の生家跡。

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上越線を過ぎて、芝塚町までくると、まず「行人堰」。 我が家を過ぎて伊勢崎街道を通過すると「佐野堰」。 長野堰も終わりに近づく。

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最後が江木町城東小学校の前の「高根堰」 ここから佐野方面に分水する。 この先50mに40年ほど前か? 面白い形の円筒分水堰が完成し、ここから先は八つでの葉のように6本くらいの水路に分かれ、中居町、双葉町、矢中町、下大類町付近に水を配り、あまった水は東は井野川に、南は烏川に流入して元の本流に還る。

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16世紀以前、高崎の前身和田の庄が生まれる前は、上並榎町あたりから飯塚、江木、今の市街地そして倉賀野に至る一帯は、水路がなく茫々たる原野が拡がり、狐や狸といった野生動物が主人公の土地だったと思われる。 長野堰が作られ、多くの枝水路が網の目のように分かれるようになってから、一帯は豊穣な水田に姿を変えた。 長野堰なくば現在の高崎は存在しなかった、といっても過言ではない。 なお堰の全長は10km弱、取水口の標高が118m、円塔分水堰が92m 標高差僅か26m。   堰に沿って光ケーブルが敷設されているのは、各堰の開閉を一箇所で管理しているのかも知れない。古い歴史に現代が同居している。 

井野川からの水が利用できた新高尾、大八木、小八木町一帯から古代の水田跡が数多く見つかるのに旧市内にはない。

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050-240311ラジオ高崎(radio takasaki)

2012年03月11日 | 街歩き

高崎を中心にしたFMラジオ局「ラジオ高崎」があることは知っていた。 数回聞いたことはあるが、殆どダイアルを合わせたことはなかった。

地上波デジタル放送に替わってから車載のテレビが見られなくなり、 ラジオを聴く時間が増え、「ラジオ高崎」も聴く機会も多くなる。

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その感想。

「ラジオタカサキ」と日本語らしく普通に言えばいいのに、「イディオカサキ72.6・・・」と外人が発音する日本語が盛んに流れる。 中途半端に英語が頻繁に出てくる。 まあ若者受けを狙った格好良さが方針なのだと思うが・・・

地方の中核都市の放送局とはいえ、1日中しゃべり通すほど話題があるとは思えないので、音楽中心になるのは止むを得まい。 ならば夕方6時ごろ30分間英語を中心に、中国語、韓国語の放送をして見たらどうだろうか。 リッスニングの訓練になり、意外にファンが増えるのではないか。 FENのようなネイティブなものでなく、もっとゆっくりと平易な英語の放送。 国際交流都市を目指した前市長の方針とも合致する。 

演歌、童謡やクラシックは聴いたことがない。 市民のラジオ局を目指すのならもっと幅広い年代に聴いてもらえる工夫も必要かと思う。

もう一つ。 交通情報。 

朝夕の通勤時間帯の交通渋滞はの慢性的な現象であり、混雑情報を流しても内容は毎日同じ。、あの交差点はこの時間いつも混むということは車通勤者なら経験上みんな知っている。 もう一工夫あってもいいのでは。 高崎警察署と連携して事故や交通取締り情報を流してくれたほうがありがたい。

この放送から最新の情報を得るという意味合いは薄く、理髪店のBGMといった位置づけが適当なのか。

ごめんなさいね。 一生懸命に放送しているジョッキーのお嬢さん。 あなたの声は魅力的です。 どんな雰囲気の方かと駅東口のサテライト放送室を覗いてみた。 ガラス越しに撮ってもいい? と身振りでお願いしたら、ニッコリ笑ってOKしてくれた。 この笑顔でちょっと言い過ぎたと反省する。 市内を走っているときは、努めて76.2にダイアルを合わせ、もっとたくさん聴いてから判断しよう。

高崎高校の選抜出場を祝っての横断幕が目を引く。 OBの一人として活躍を期待している。応分の寄付にも応じた。

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047-240219厳冬期の浅間山百景と題して

2012年02月18日 | 街歩き

誰しもが自分の生まれ育った地に愛着を持つものです。 私の住む上州は広大な関東平野の北のはずれ、ここは海から100Km入って、僅か海抜100m、関東平野がいかに広くて、平であるか。 このあたりから徐々に高度を増して、次第に山岳地帯に移っていく。 国内でもその景観の雄大さは上位に入ると思います。

普段見慣れている高崎から眺めた浅間山は、長野県との境の連山の上に肩から上をのぞかせて、雪をまとった優美な姿を見せている。 私にとってはもっとも身近な光景。

(晴れ渡った日の浅間山)                 (寒波が雲の塊となって山を隠す)こんなときもある

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それぞれの写真画面内で左クリックし、拡大してご覧になってください。 浅間山を題材にすばらしい写真集を刊行した旧知の故真塩信雄氏の足元にも及びませんが・・・・

 

 

 

 

見慣れた山の姿が一番美しくて当然ですが、浅間山に限ってはもっとも美しい姿は長野県佐久市の北御代田の集落から見た姿でしょう。

     (長野県御牧ケ原から)               (同じく女神湖付近の長門牧場から)

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小諸の街の下を流れる千曲川の対岸の台地「御牧ケ原」が拡がる。この中腹にある「アグリの湯」から眺めた浅間山はすばらしい。 ことに夕方西日に赤く照らされた光景は印象的です。残念ですが夕日ではなく、まもなく雪雲に隠れる上信国境の連山。右端の白い頂が浅間山。

     (上信越道佐久インターの北、御代田付近より)

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私の祖父母は父方は佐久、母方は小諸付近の出身なので、この風景に引かれる遺伝子が伝わっているのかもしれません。

小諸郊外ののあぐりの湯の露天風呂からの連山(下左)。   反対側の嬬恋村パルコールスキー場から眺めると、これまた異国にきたかのような雄大な雪山と化します。優美すぎる山の姿(下右)。

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更に (絶好のヴューポイントである二度上峠から)         (鬼押し出しから)噴煙か雪雲か?

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江戸時代中期の天明の大噴火がうそのような穏やかな姿です。                           

 

 

 

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041-240115朝の散歩Ⅰ

2012年01月15日 | 街歩き

サイクリングにはまる以前に冬の間だけ休日にやっていた観音山への徒歩によるお参りを10年ぶりに再開する。 早く寝て睡眠充分で5時に目が醒めたので、零下3度の寒気をついて暗いうちに家を出る。高崎駅東口はまだ夜の闇から開放される前、人は動き出したがまだちらほら。 ヤマダ電機さんもまだ眠っている。

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新旧の連絡路。 旧は人影もなし。 新は皆さんどこへ行かれるのか、そこそこに人は動いている。 この時間に駅に来るには皆さん4時起きしたのでしょう。

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そして西口に出る。 2台のトラックが今日の仕事を始めている。 1台は前夜の宴の跡を片付けるゴミ収集車、そして1台は我社もお世話になっている栄久さんのリネン配達車。 まだ6時には間がある。 こんな早朝からと頭が下がる。 もっとも我社でも一晩中起きていてお年寄りの面倒を見ている職員もいるし、患者さんの送迎は5時から始まっている。 日曜日は殆どの人がぬくぬくとした布団の中で夢をむさぼっているというのに。 皆さん今日1日よろしくお願いします。

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烏川に出る。聖石橋はさすがに車の通りは少ない。

東の空を見ると天頂から黒、濃紺、紺、オレンジまた闇と続く黎明が始まっている。 「朝のこない夜はない」 「夜明け前の闇が一番暗い」 「つらいばかりが人生ではない」 オレンジと闇のコントラストは希望の象徴。 一日の晴天が約束された。

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何故かここでブログの枠が一杯になり写真が挿入できません。 続きはⅡをみてください。

 

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040-240115朝の散歩Ⅱ

2012年01月15日 | 街歩き

この黎明を見たら是非とも日の出を撮影しなければと観音山への道をピッチをあげて歩く。   512段の石段を一気に登り、清水寺の前を左に折れて展望台に急ぐ。 日の出に間に合った。 東の地平線際の空はオレンジ色が強まり、一部が金色に輝いてきた。 遠く地平線に筑波山のピラミダルな山容がはっきりと認められる。 元旦は賑わったろうが、今朝は我一人でこの神々しい光景を独占する。

寒さで手先が痛い。階段を急いで登ったので、背中にうっすらと汗をかき、それが冷えてゾクゾクする。 我慢、我慢。  6時50分日の出だ。 うまく撮れるといいのだが。

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日本人の習性が私にもあるのだろう、上り始めた太陽にむかって自然に手を合わす。 今年いい年でありますように・・・

上り始めた太陽はあっという間に地平線を離れていく。 日の出まではいらいらするほど時間がかかったのに。 清水寺に戻り50円のお線香を大枚100円を賽銭箱に入れて火をつける。  この寺の総本山は昨年奈良旅行の途中に寄った長谷寺だ。(真言宗豊山派) お線香立ての鉢の脇に昔風のマッチ箱が置いてあった。

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さて戻ろう。 いつも感じていることだがこの石段を上から眺めるとラージヒルのジャンプ台をイメージしてしまう。 雪と石段の違いはあるがこんな感じの斜面を鳥人たちは滑り降りていくのだろう。

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観音山の北斜面はモダンな家が随分と増えた。 お世話になった 故O江C廣医師 の邸宅の前を偶然に通る。 毎朝日の出を拝み、夏の花火大会は絶好の観覧席になるだろうなと思いながらいささか疲れを感じ始めた足を前に踏み出す。

 

公園の噴水が凍り付いているのを眺め、市役所前を通って、愛らしい【将軍の孫】の像を見、駅前の老舗旅館「豊田屋」前では放浪記のでんぐりかえしの森光子がはたらいていたことを思い出しながら2時間の朝の散歩は終了した。

履いている長靴からみて、明治か大正のXX陸軍大将のお孫さんがモデルでしょう。

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