底抜けの変動が有りうるかどうか。一挙にとんでもない変化が生ずることは、あまりない。ゆるやかな、徐々に変化していきながら、時間がたてば、相当大きな変化となっている。
今は、誰もが知っていることも、聞いたことがない、となってしまう。記憶にいつまでもとどまることもない。当事者だけのことになってしまい、世代は変わればすべては、何事もなかったかのように、消えてしまうのである。
これは、救いでもある。取るに足りないことであっても、相当の大事件であろうと、ぬぐいさり、消してしまいたいことは、いずれそうなる。同様に、残したいことも残らない。で、人間は、また、同じ過ちをくりかえし、悲劇を展開する。有史以来、繰り返してきた事実である。
ところが、最近は、何かを人類が把握したのではないかという気配を感ずる。さすがに、ここまで、馬鹿げた展開を続けてきて、本質に迫りかけているのではないだろうか。いくら馬鹿でも、気付くときがある。もはや、今までとは違う、水準に到達しつつあるのではないだろうか。
今日、本屋に久しぶりに立ち寄り、並んでい新刊本や、話題の本などながめていて、そんな気分になった。真面目な、力のある人々が仕事をし始めている。ゴミ、チリ、アクタ、をとらえ、分別して、露にするフィルターが出てきているかのようである。